第2話 大穴の呼び声
翌朝、村は何事もなかったかのように動き出していた。家畜の鳴き声、子どもたちの笑い声、井戸端で交わされる母さんたちの話し声。昨日の赤黒い霧が嘘のように、日常がそこに戻っていた。
けれど僕の胸はざわついたままだ。あの声が、まだ耳の奥に残っている。
「おい、エイル」
裏庭で剣を振っていると、ヴェルダンが姿を現した。額に汗をにじませながらも、目は冷静だ。
「昨日のこと、忘れられないんだろ」
僕は答えず、剣を振り下ろした。空気を裂く音が妙に重い。
「僕は……確かめたいんだ。あの穴の中を」
「やっぱりな」ヴェルダンは溜息をついた。「父さんに黙って行くつもりか?」
「うん。でも、一人じゃ無理だ。だから――」
「俺を巻き込むんだろ」
そう言いながらも、彼の口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
正午過ぎ、僕らは村を抜け出した。剣と小さなランタン、乾いたパンを布に包んで背負う。陽射しは眩しく、森の葉の隙間から光が降り注いでいた。けれど心臓は早鐘を打ち、体が浮き上がるようだった。
森の奥へ進むと、昨日の裂け目がすぐに見つかった。真昼の光の下でも、そこだけ闇を孕んだように黒ずみ、赤黒い霧が揺らめいている。まるで僕らを待ち構えていたかのように。
「……戻るなら今だぞ」
ヴェルダンの声は低い。だが、その瞳にはすでに覚悟が宿っていた。
僕は首を横に振る。「行こう。僕は大人なんだ」
縄を結び、ひび割れた縁に固定する。先に降りるのは僕だ。ヴェルダンは無言で支えてくれる。
霧は濃く、足場は湿って滑りやすい。岩の隙間から滴りが落ち、空気は重苦しく肺にまとわりついた。
底に着いた瞬間、世界は一変した。さっきまで正午の光に照らされていたのに、ここには一条の光も届かない。闇は息づくように重く、鉄錆の匂いが喉を刺した。洞窟の壁は赤黒く脈打ち、どこか遠くで低い鼓動が響く。まるで生き物の腹の中に囚われたようだった。
「気持ち悪い……」思わず吐き出す。
「油断するな。何か、いる」
その瞬間、霧の奥で影がねじれるように動いた。湿った音とともに、それは姿を現す。二本の腕を持ち、人のかたちをしている。
だが、闇に光る獣の眼が、その存在が人ではないことを告げていた。視線を受けた途端、背筋が氷のように冷たくなる。――魔の者。
「エイル、来るぞ!」
ヴェルダンの叫びに合わせ、僕は剣を構えた。右目の奥で黒炎がそっと囁き、心臓の鼓動に絡みついて甘やかな誘惑を奏でる。
だが今はただ、ヴェルダンと肩を並べて戦わなければならない。
僕たちの大穴探索は、ここから本当に始まったのだ。
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