第四部:破壊と再生

「もういい。好きにしろ」

 プロジェクトルームで、田中はそう呟いた。その声は、全ての感情が抜け落ちた、乾いた風のようだった。佐伯も渡辺も、何も言えなかった。彼の心が、完全に壊れてしまったことを、悟っていたからだ。

 田中は、最後の企画書を書き上げた。それは、もはや「対策」と呼べるような代物ではなかった。純粋な、破壊衝動の産物だった。

『最終段階施策:自動切断ホームドアシステム』

 内容は、シンプルかつ狂気に満ちていた。

 ホームドアの素材を、ダイヤモンドに次ぐ硬度を持つ特殊合金に変更。ドアが閉まる際、その縁は剃刀のように鋭利になり、凄まじい力で合わさる。ドアの間に存在するものは、それが人間の腕であろうと、鉄の塊であろうと、例外なく、完璧に切断される。

「…死人が出るぞ」

 上層部との最終会議で、震える声でそう言った幹部がいた。これまで田中の暴走を止められなかった者たちも、流石にこの案には血の気を失っていた。

 田中は、虚ろな目で、その幹部を見つめ返した。

「ええ、出るでしょうね。だから、誰も駆け込まなくなる。完璧な抑止力です。もう、これくらいのことをしないと、効果はありません」

 彼の言葉には、何の躊躇も、罪悪感もなかった。まるで、害虫駆除の話でもするかのように、淡々と語る。その姿に、会議室にいた全員が、恐怖を感じた。

「秩序のためには、犠牲もやむを得ない。それが、あなた方が私に教えてくれたことではありませんか」

 反対意見は噴出した。しかし、政府は、もはや制御不能となった駅の混乱を収束させるため、そして、これまでの失敗の責任の所在を曖昧にするため、この禁断のスイッチを押すことを決断した。もちろん、公式には「絶対に安全であり、センサーが異常を検知した場合は作動しない」という建前が発表された。しかし、そのセンサーが、人間の愚かな衝動に間に合う保証など、どこにもなかった。

「自動切断ホームドアシステム」の導入日、日本中が固唾をのんで見守った。駅のホームは、まるで戒厳令でも敷かれたかのように、不気味なほど静まり返っていた。

 電車のベルが鳴る。

 誰も、動かない。

 ドアが、音もなく、滑るように閉じていく。その金属の縁が、鈍い、しかし凶悪な光を放っている。

 ガチャン。

 ドアが完全に閉じた。何も、起きなかった。

 その日以降、駆け込み乗車をする人間は、文字通り、一人もいなくなった。人々は、あのドアが持つ、絶対的な「死」の匂いを、本能で感じ取っていた。

 プロジェクトルームに、成功を告げるデータが届いた。駆け込み乗車件数、ゼロ。死傷者、ゼロ。

 田中は、そのデータを見ても、何の表情も変えなかった。彼はただ、静かに自分の席を立ち、佐伯と渡辺に一瞥もくれず、部屋を出て行った。彼の戦いは、終わったのだ。完全な勝利という、最もおぞましい形で。


 完璧な秩序は、しかし、長くは続かなかった。

 いや、秩序は保たれたままで、人々は、またしても、その完璧なシステムの中に、新たな利用価値を見つけ出してしまったのだ。

 きっかけは、郊外に住む一人の主婦だった。

 彼女は、その年、家庭菜園で採れた巨大なカボチャの扱いに困っていた。硬すぎて、家の包丁では歯が立たない。途方に暮れていた彼女は、ある日、電車の窓から、あの鋭利なホームドアが閉まるのを見て、ふと、あるアイデアを思いついた。

 数日後、彼女は、布にくるんだ巨大なカボチャを抱え、駅のホームにいた。電車が発車し、人々が安全な線まで下がる。彼女は、そのタイミングを見計らって、カボチャをそっと、閉まりゆくドアの間に置いた。

 スパァンッ!

 乾いた、しかし心地よい音と共に、あれほど硬かったカボチャが、まるで豆腐のように、綺麗に真っ二つに切断された。断面は、驚くほど滑らかだった。

 彼女は、その光景をスマートフォンで撮影し、SNSに投稿した。

『駅の切断ドア、カボチャ切るのに便利すぎw #主婦の知恵 #切断ドア使ってみた』

 その投稿は、瞬く間に、日本中の主婦たちの間で話題となった。

「これ、カニの甲羅もいけるんじゃない?」

「年末のブリを捌くのに使えそう!」

「粗大ごみの解体にも便利かも!」

 人々の、たくましすぎる想像力は、ついに、究極の抑止システムすらも、便利な生活ツールへと変貌させてしまった。

 駅のホームは、再び、カオスに包まれた。しかし、その性質は、以前とは全く異なっていた。

 駆け込み乗車をする人間は、いない。

 その代わりに、人々は、様々な「切断したいもの」を手に、ホームに集まってきた。

 ドアが閉まるたびに、あちこちで「スパッ」「ガキンッ」という音が響く。収穫されたばかりの巨大なスイカや冬瓜。解体したい古いタンスや自転車。不要になった金属パイプ。

 駅のホームは、巨大なDIYセンター、あるいは、共同のゴミ処理場と化した。人々は、互いに「次は私の番よ」「あら、それ、いいマグロねぇ」などと談笑しながら、順番を待っている。駅員は、もはや注意することさえ諦め、飛び散る破片から身を守るので精一杯だった。

 霞が関の官僚ビルの、高層階にある一室。 田中は、新宿駅を映し出すモニターを、ただ呆然と眺めていた。

 駅のホームでは、人々が、実に楽しそうに、ドアの閉まるタイミングに合わせて、様々なものを切断している。その光景は、シュールで、滑稽で、そして、どこか生命力に満ち溢れていた。

 秩序を作ろうとした。 ルールで縛ろうとした。 痛みで支配しようとした。 死で脅そうとした。

 その全てが、彼らの前では無意味だった。彼らは、どんな状況でも、それを楽しみ、利用し、自分たちの生活の一部として取り込んでしまう。

「……ははっ」

 田中の口から、乾いた笑いが漏れた。

「ははは……ははははははは!」

 彼は、腹を抱えて笑い続けた。涙が、頬を伝った。それは、絶望の涙か、それとも、諦観からくる解放の涙だったのか。彼自身にも、もう分からなかった。


 数週間後、「首都圏鉄道駆け込み乗車撲滅プロジェクト」は、正式に解散を命じられた。一連の混乱の責任を取る形で、田中は官僚を辞職した。彼の姿を、霞が関で見る者はいなくなった。

 政府は、声明を発表した。「もういい。好きにしろ」。それは、事実上の敗北宣言であり、国民の行動をコントロールすることを諦めた、壮大なサジ投げだった。

 その日を境に、駅のホームから、全ての対策が撤去された。

 不協和音も、電気ショックも、針も、ディスプレイも、そして、あれほど恐れられた切断ドアも、全てが消え去った。駅は、何もなかった頃の、ただの駅に戻った。

 それから、数ヶ月が過ぎた、ある日の夜。

 新宿駅、山手線外回り、14番線ホーム。 電車が滑り込んできた。

 発車のベルが、けたたましく鳴り響く。

「駆け込み乗車は、おやめください!」

 駅員の、聞き慣れた声。

 その瞬間、ホームにいた人々は、まるで合図でもあったかのように、一斉に走り出した。スーツ姿のサラリーマンも、ハイヒールを鳴らすOLも、重い荷物を抱えた旅行者も、誰もが、閉まりゆくドアを目指して、一目散に駆け込んでいく。

 それは、プロジェクトが始まる前と、何も変わらない光景だった。

 いや、一つだけ、違う点があった。

 彼らの顔には、焦りや必死さだけではなく、どこか、諦めにも似た、しかし、実に楽しげな笑みが浮かんでいた。まるで、この無意味で非合理な競争こそが、生きている実感を与えてくれるとでも言うように。

 群衆が車両に吸い込まれていくのを、ホームの隅で、一人の男が静かに見つめていた。くたびれたスーツに、伸びっぱなしの無精髭。かつてのエリート官僚の面影はない。田中圭一だった。

 彼は、駆け出す人々を、ただ、じっと見ていた。 憎しみも、怒りも、もうなかった。

 ドアが、ゆっくりと閉まっていく。

 その、最後の数センチの隙間に向かって、なおも飛び込もうとする若者の姿が見えた。

 その瞬間、田中は、気づけば、自らの足で地面を蹴っていた。

 人波をかき分け、荷物を振り払い、彼は走った。

 なぜ走るのか、彼自身にも分からなかった。

 ただ、あの光の中に、あの混沌の中に、自分もまた、飛び込まなければならないという、抗いがたい衝動に駆られていた。

 彼の顔には、駆け込む他の乗客たちと同じ、奇妙な、晴れやかな笑みが浮かんでいた。

 ガチャン。

 ドアが閉まる音と、電車が走り出す重い金属音が、東京の夜に吸い込まれていった。ホームには、乗り遅れた数人の人々と、そして、彼らの喧騒を置き去りにしていく静寂だけが、残されていた。

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その対策は死人が出ます 空木 架 @Jivca

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