捕まえて、食ってやろうか

美女前bI

『まだ見ぬ景色』




娘は呼吸を乱し裸足で必死に逃げ回る。俺がとっくに足を緩めていることも知らずに。


時折後ろを振り向き絶望に満ちた表情に思わず舌なめずりしてしまう。


これだけの上物を逃がすわけないというのに、娘は体力が尽きるまで走り続けるつもりらしい。


半年ぶりの美味そうな肉につい頬が緩む。


「いやああ!」


それは俺にしか聞こえない。か細く弱い声だった。


まったくバカな娘だ。助けを求めるなら体力のあるうちに大声を出せばよかっただろうに。


追われる女との距離はどんどん詰まっている。


捕まえようと思えばいつでも捕まえられるが、それじゃあちっとも面白くない。


「ほれほれ、走れ走れ」


「ひぃ〜!」


ハハハ。いい声で泣きよるわ。


俺に向かって水滴が飛んで来る。それは涙か汗かわからない。


「きゃっ!」


追いつく直前に娘は何かに足を取られたようだ。


女が倒れる前に俺は素早く回り込んで正面から捕まえる。


この柔肌に傷を付けるわけにはいかぬからな。


「はあ、はあ、はあ、はあ……捕まっちゃった」


「捕まえちゃった」


娘は俺から目を逸らしたかと思えば、今度は厳しい表情で睨んで来た。


「は、離してっ!」


ほう、まだ声が出るではないか。泣き声じゃないのがまた唆る。


「良かろう」


俺はそう言うと娘の言う通りに掴んだ手を離してやった。


「やっぱり離しちゃだめっ!」


可愛いやつだ。


「一生離さないよ」


「一生はイヤ! 鬼ごっこ終わり。パパ嫌い、やっぱり離して」


な、なんてことだ……


娘はまだ四歳。


まさかもう反抗期が始まるなんて思わなかった。


この先、臭いだのウザいだのキモいだのと言われる未来しか見えないのだが。


さすがに死ねとまでは言わないだろうが。言わないよね?言うのかな。


「う、うう……」


「パパ泣かないで。よしよし」


俺の頭を撫でる彼女は優しい天使だったようだ。


俺はまだ娘に嫌われていなかった。その事実だけで十分。


「パパと結婚しよっか」


「はあ? ママと結婚するに決まってるじゃん。あと鬼ごっこももうやりたくない。パパの顔怖いもん!」


本気で鬼になりきれと妻に教えられたのだが。ま、まさか嵌められたのか?


たしか前回はおままごとだったっけ。


妻がこっそり用意してくれた紙おむつで赤ん坊を演じたら、娘にドン引きされてお風呂を拒絶されるようになったことを思い出した。


こ、これ、かなりまずい?


早めに手を打たなければ!


「そ、そうだ。今度パパとぬいぐるみ買いに行かないか?」


「え?行くっ! たっくんも誘っていい?」


「た、たっくん?」


うちにあるアヒルのぬいぐるみだっけ?


「たっくんはたっくんだよ。あたしの彼氏!紹介したじゃん」


「ああ……」


あの忌々しいクソガキか。


たっくんとは、5歳のくせに4歳の女の子を誑かすロリコンの変態野郎のことだ。


それにしてもいつの間に友達から昇格したんだ?いや、友達というのも妻から聞いた話だったな。あの時にはもう恋仲だったということだろうか。


いや、それはまだいい。


娘はまだ4歳。友達と恋人の違いなんてわかるわけがない。俺が4歳の頃なんて、ダンゴムシを瓶に詰めるだけで満足する毎日だったからな。


しかし彼女は聡明だ。俺と同一で考えるのは危険だろう。ま、まさか二人はもうファーストキスも済ませたとか言わないよな。


いや、まだないとしても時間の問題かもしれない。


これは由々しき事態だ。


「たっくんに言ってあげなさい。君が知らないまだ見ぬ景色(地獄)を用意してやると」


娘の頭を撫でながら言ってやると、満面の笑みで「うん!」と元気な返事をしてくれた。


ふふふ、舞台は整った。


それから二週間後、俺は娘から存在を無視され家族から完全に孤立することになる。


俺もそれが自分のまだ見ぬ景色(地獄)だと知らなかった。

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捕まえて、食ってやろうか 美女前bI @dietking

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