第16話 原李乃失踪
聖クルス学園の乙女として、子牛で汚れた口元をハンカチで丁寧に拭った美佐子が、軽く手を挙げた。
「シスター逸子、私達のテーブルのお片づけを」
食事の残りを回収する係のシスター逸子こと古田逸子(ふるた いつこ)は、もっさりとした小山のように太った女性だ。彼女は美佐子に振り向きもしない。
「シスター逸子」美佐子はやや大きな声で、繰り返す。
シスター逸子は耳が悪い。だから二度も美佐子に呼ばれたのに無反応で、夏姫のベッドよりも大きなカートに、食事のあまりを乗っけている。
「シスター、美佐子先輩がお呼びなのよ!」
苛立った違うテーブルの級友が指示が飛ぶ。それでようやく振り向いたシスター逸子は、あの阿る表情になりのそのそと近寄る。
「全く、愚図なんだから」再び級友、くすくすと辺りの少女達がシスター逸子を嘲け笑う。
美佐子が少し眉根を寄せたから、夏姫は感動する。
──さすがお優しい美佐子お姉様。シスター逸子に同情しているのだわ。
今更だが彼女と親しい自分に優越感を覚えた。と、同時に不安が胸中にむくむくと立ち上がる。
──でも私……一人で寝る時には縫いぐるみを抱いている青春前のお子様だわ、それを知られたら幻滅されてしまうかしら? やっばり、ゆっこを抱いて寝るのはそろそろ辞めようかな?
呑気な夏姫の裏で、事件は起こっていた。
食事休憩が終わって五時限目になっても、原李乃が姿を現さない。
ジョギングしてきたとかでジャージ姿の有紗は、
「どうせ気まぐれのサボりだろ? あのお嬢様は」と嫌味を言うが、折りも折りだ、クラスの皆は不安な目を見合わせる。
有紗の意見が間違いだ、とすぐに誰もが知った。李乃はその後も帰って来なかった。寮にも、図書館にもいないらしい。
数人の級友が探そうとしている。
「よしっ!」
夏姫も放課後、腕まくりして立ち上がる。
真絢は可愛らしく、小首を傾げた。
「あら、夏姫さん。どうしたの? そんなに勢い良く……お花摘み?」
ばったりと倒れそうになる夏姫は、机に齧り付き辛うじて堪える。
「……李乃さんを探すの、私も」
「どうして?」
「心配でしょ! ここは私の学校なんだから。もし危険人物が入っていたのならやっつけないと」
「あらそう……そうね、うふふ。私も行くわ」
ころころ笑う真絢に夏姫は少しイラっとする。
彼女が全く李乃失踪の深刻さが分かっていないからではない。
──ああっ! かわいいなあ、もうっ!
だからである。
「真絢さん、もしかしたら危ないかもしれないの。学校内で消えたのなら学校内に変質者がいるかもだから……使われていないー教室に潜んでー……危ないかもよー」
「まあっ 大冒険ね。……おやつは持っていく? お弁当は? かさばるし重いわよね?」
夏姫は両手で目を覆った。
お嬢様は万事これだ。
胸郭から息を抜き、夏姫はふらふらと教室の扉へと向かった。
「待って夏姫さん、あんまり急ぐと転ぶわ」
当然のように真絢が着いてきた。
「原さーん! 李乃さーん!」
夏姫は李乃を呼びながら、廃墟のように人のいない校舎を進む。
かつてはここらも少女達、生徒達で溢れかえっていたが、昨今の情勢により使われない教室が増えた。
なのにどうしてか賑やかだ。
──どうしてだ?
着いてくる真絢が、小声で歌を歌っているからだ。
……大空に太陽ー、綺麗な青空ー……。
──また自作の珍歌を……、いや、そもそも何故、歌を?
色々な疑問と共に振り返ると、やや微笑している真絢がいる。
だが実は、一番の問題は真絢の歌ではない。
彼女の歌の出来栄えだ。
真絢は歌が下手だ。とんでもなく音痴で、話しにならない。聴いていると頭が破裂しそうだ。
まず音程の概念が彼女にはきっと、無い。
聞いていると、聞きたくなくなるほど音は上下する。金属的になったり、男性のような太い声になったり。
「真絢さんは声で物体を破壊させられるのよ」
級友は密かに囁き合っているが、夏姫はその会話に加わらない、
真絢は親友だ。悪口は言わない。
言わない……が、
──本当に声でガラス窓が割れそう。
口にはしない。
可愛らしい外見に倣い心も脆い彼女を、傷つけてしまう。
だが……。
……自由な空はフリーダム、飛翔は永遠ー……。
──え……はい、自由な空はそこですか……。
夏姫ははっと我に返る。やばかった。あまりの騒音で魂が天に逝きかけた。
早急に何とかしなければ。
「あ、あの真絢さん」
「ん? どうしたの? 夏姫さん、李乃さんを見つけたの?」
──歌うな、どオンち! ……ではダメだ……親友を傷つけるわけにはいかない。
「えっと……どうして歌を歌うの?」
「あら、私、お歌が好きなの? 歌っていると、とても気持ちいいのよ」
聞いている者は気持ちが悪くなる、てか死ぬ。
「……ええっと、今はそんな場合ではないような……」
迂遠だ。琵琶湖の周囲に沿って進むかのようだ。しかしその方が安全らしい。
「そうね。私が考えなしだったわ」
夏姫は安堵した、一瞬だけ。
「もっと暗いお歌にしましょう……悲しいお歌はねー」
もし実行されたら、流石の夏姫も大暴れしただろうが、その前に事件は起こってくれた。
「きゃー!」
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