第6話 宝珠院美佐子先輩

「うん、良い天気」


 外に出て夏姫は満足した。天気が良いのが何よりも嬉しい。

 冬故の絹のような薄い光は心地よく、光と言うより肌を優しく撫でる風のようだ。

 太陽は常に乙女の敵だ。

 夏などぎらぎらと容赦なく睨みつけ、少女達の大切な肌を無惨に焼いてしまう、嫌な物だ。だから今がいい。


 傍らの真絢に視線を投げる。彼女は白く美しい。真っ黒に焼けた親友を見たくはない。


「夏姫さん、急ぎましょう」

 折角そこまで心配しているのに、真絢は彼女を急かす。

 高校から通っている外部入学の夏姫とは違い、幼稚舎から品行方正の真絢は、学園の規則からはみ出るのを嫌っている。

 二人は寮から校舎へと歩を早めた。   


「はあ」と夏姫は胸の底からため息を吐く。寮の正面に建つ聖堂だ。


 もう何度も目にしているが、市立聖クルス学園の聖堂は素晴らしい。

 天を突き刺そうとでもしているのか尖った尖塔状の屋根が連なる、今時いくらかかるのだ? と戦きそうになる本格石造りゴシック建築で、見事な薔薇窓もある。

 昨今の情勢から今は使われなくなっているが、かつて集会や賛美歌を歌っていた頃、中の巨大で豪奢な真鍮のパイプオルガンには圧倒された物だ。


「まだあるのね」しかし真絢の反応はイマイチである。

「もう使わないのだから、取り壊せばいいのに」


 お嬢様感覚のドライなこと。きっと乾燥剤でもぽっけに忍ばせているのだろう。

 ゴシック建築の聖堂の前……夏姫達の寮は本校舎の裏手にあるのだ……に聖クルス学園の白い建物があった。

 純粋純潔お嬢様を培養する校舎は、中央が高く大きく左右に長く、丁度白鳥が翼を広げているような形で建てられている。



 ちなみに本校舎の前には長い階段があり、ひ弱な乙女達を毎朝苦しめる。

 今は全寮制の聖クルス学園だが、真絢は寮に入ると聞いて大喜びした。

 この階段を上る苦痛は大変だったらしい。

「そりゃあもう、毎日毎日ひいひいふうふう、一所懸命でしたわ」清水真絢談。

 ちなみに『一生懸命』は誤字で、『一所懸命』が正しいのだそうだ。真絢に教わって驚いた。

 今までの人生ずっと間違って覚えて使っていた。彼女に指摘されなければこれからも一生間違っていただろう……きっと世の中そんな事が他にもいろいろあるはずだ。


 とにかく学校の敷地内にある寮なら、外界への唯一の道である階段とは無縁でいられる。


 夏姫にしてみれば、授業がはけた後に雑誌やらのちょっとした買い物をするために、二四時間営業のコンビニエンスストアにでも繰り出すのも青春だが、やはり階段の上り下りを想像すると断念してしまう。


 つまりこの長い階段を考えた人はかなりの策士である、世が世なら一国を任せられていただろう。


 一部の生徒はそれでも外の世界に、青春の希望と飢えを満たす食事を求めて密かに脱走するが。


「夏姫さん、聖母様」

 市立聖クルス学園はカトリック系だ。だから学校の正面に、奈良の仏像ならぬ大きな聖母像がある。

 躾られたお嬢様達は、必ず聖母像に深く頭を下げるが、正直夏姫はただの付き合いでだ。

 そもそも学園創設以来設置されていた、伝統と伝説に飾り付けられた聖母マリア像は少し前に改修されて、新しい聖母像になった。

 その行程を見ていたから、どうしても夏姫には聖母像が業者の手に依った物、にしか感じられない。何せ運搬してきたのが、くたびれたおじさんだった。

 が、真絢に倣い夏姫も、聖母像に頭を垂れる。

 時間がない、と言う割に真絢の行動はいつもと変わらない。まあ、これが日常なのだろう。

 愛すべき、尊うべき『青春』の日常だ。


「ごきげんよう」

「ごきげんよう」


 夏姫達のような、低血圧お寝坊さんの乙女達の挨拶が聞こえる。

『ごきげんよう』……夏姫がこの学園の高等科に入って一番驚いたのはこの挨拶だ。

 中学の頃は女子の間でも「はよー」とか「よっ」で済んでいたが、お嬢様高校はそうは行かない。

 しかし『ごきげんよう』は少しややこしい。顔を合わせた時の挨拶でもあり、別れの挨拶でもある。

 つまり、『おはよう』も『さようなら』も『ごきげんよう』だ。

 簡単で良い? いやいやニュアンスや場面で見極めるのは、なかなか慣れが必要だ。

「ごきげんよう」と夏姫も級友に挨拶しつつ芝生の間にある小道を通り、校舎へと向かうと、丸い鳥かごのようなデザインの温室が目に入る。


 バラの花の温室だ。

 昔は温室で聖クルス学園の象徴だった薔薇を、一年を通して栽培していた。赤や黄色の、それは見事なバラだった。

 今はそこは閉ざされ、かつての掃除当番の努力によってぴかぴかだったガラス窓は、もう滲んでいくように曇り放題で、中も見えない。バラも全て枯れ果てているだろう。

 腕時計で確認すると、時間的にはかなりヤバ目だ。もし数年前に廃止された、朝の日課の賛美歌を聖堂で歌わなければならなかったら、完全にアウト。


 肩から力を抜いて安堵する。


 ゴシック建築の見事な聖堂には悪いが、賛美歌なんて、あんな気持ち悪い物を歌わなくて良く、さらに大切な眠りの時間が増えるのは幸福だ。


 まさに一石二鳥。


 賛美歌やバラの温室も含め、この学園は最近少し変わった。世界や、社会情勢に因るのだが青春を謳歌している乙女でしかない夏姫には、関係ない。 

 夏姫と真絢はそうして、いつも通り学園の本校舎に入った。


 ひどく寒かった。


 普通の女の子だったら、震え上がり動けないだろう。

 だが夏姫や真絢や級友達は市立聖クルス学園の乙女達なのだ。このくらいの寒さなんかへっちゃらで、むしろ心地良い。靴箱から上履きを取り出し土足と代え、くしゃみ一つせず廊下へと移動した。

 学園の廊下は長い。中等科と高等科の校舎が同じで教室が多いからだが、あまり人影もなく、面倒臭さを感じる。

 夏姫と真絢は静かな廊下をしずしずとお嬢様の見本のように歩く。学園の廊下は走らない。

 これはもう習慣として体に刻まれていた。


「ごきげんよう」


 そんな二人に背後から声がかかった。

 夏姫は振り向いて挨拶しようとしたが、喉が乾いたように固まった。


 微笑を湛えて立っていたのは宝珠院美佐子とその親友・野々山篤子(ののやま あつこ)だった。


 宝珠院美佐子は橘夏姫より一つ上の学年の高等科二年生で、漆黒のロングヘアを靡かせた、薔薇のような凛とした佇まいと、高名な芸術家が女神を題材にして白大理石から掘り出したかのような美貌の、市立聖クルス学園では初等科以上の生徒では知らぬ者などいない有名人だ。


 学園にも多額な寄付をしている大企業の令嬢で、元を辿れば華族へ血が繋がる。

 故か美佐子は、お嬢様だけを集めたこの学園の誰よりも優雅で華麗で、誰もの憧れの的であった。

 美佐子当人はそれを鼻に掛けることなく、常に慈愛に満ちた目で皆に接するから、間違いなく学園での人気はナンバー一であり、ついでに成績も一つ頭が抜けている。

 夏姫の憧れの眼差しの遙か先にいる、先輩だった。


「ご、ごきげんよう」一拍遅れて夏姫はあわあわ挨拶した。

 下級生の間では『美佐子お姉様』と密かに呼ばれている、遙か高みの彼女の前では、夏姫の図々しさもなりを潜める。


 うふふふ、と美佐子は優しく笑う。


「何をそんなに緊張しているのさ?」

 美佐子の傍らにいる彼女のクラスメイト、篤子が陽気に肩をすくめる。

 野々村篤子も美佐子ほどではないが、かなりの人気者だ。ショートカットがよく似合う美人ながら、自らを「あっちゃんと呼んで」と下級生に要請する変わり者だが。 

「ええっと」夏姫は心底困った。

 目の前には憧れの美佐子お姉様がいる。しかし夏姫には知能指数の高い彼女と、ボールのごとく弾ませる話題はなかった。


 ──流行のプチプラファッションの話しはダメだろうなぁ。


 硬直している夏姫に美佐子が、さらさらで銀河のような自身の長髪を指さす。

 深紅の色のリボンがあった。

 かつて美佐子が、

「前からあなたにはこのリボンが似合うと思っていたの」

 と夏姫に渡した贈り物と、同じリボンだろう。

 夏姫の息は止まりかけた。美佐子の意図は月のように明白に、夏姫への親愛を示している。


「やっぱり夏姫には赤いリボンね」

 美佐子は夏姫の耳にそっと吐息と囁くと、再び「ごきげんよう」と軽く頭を下げ去っていった。

 呆然と夏姫は立ちつくす。

 ずっとずっと憧憬の的だった美佐子から、親しげに褒められた。単純な事実だが脳細胞はスパークして、どうしても理解できなかった。


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