第6話


 静まり返った教室で、俺たちは神谷の横に立ち、真壁がじっと彼の挙動を観察している。


「神谷さん」

 真壁の声は冷静で、しかし一言ごとに重みがある。

「この事件に関して、何か気になることはありませんでしたか?」


 瞬間、神谷は顔を強ばらせ、手のひらをぎゅっと握りしめた。視線が窓際のアルミ手すりに吸い寄せられ、眉が微かに震える。

「え……ええと、その……」

 言葉を探す様子は、焦りそのものだ。


「では質問を変えましょう。貴方は子供たちに、何を教えたんです?」

 逃げ場を塞ぐように、真壁が淡々と追い討ちをかける。


 神谷の喉が上下し、視線が床へ落ちた。

「そ、そんなこと……いや、その、偶然に……」


 俺はその動きに目を細めた。何かを隠そうとしている——それは明らかだった。

 風が窓からそよぎ、教室の砂埃が光を受けて舞う。静寂の中で、神谷の息遣いだけがひどく耳につく。


「正直に話したほうが楽ですよ」

 真壁が冷ややかに告げると、教室の空気が一層張り詰めた。


 一拍の沈黙。


「……実は」

 神谷の声は低く、掠れていた。

「図書館で、怖いおまじないの本を読んでいた佐伯さん達を見かけて、つい…悪戯心で、コックリさんを教えてしまったんです…。昔からあるおまじないで未来を教えてくれる、と」


 真壁は黙って見据え、俺もただ言葉を失っていた。


「なるほど。子供の純粋な好奇心を煽ったわけですね」

「でも、それと手すりの件を繋げるのは強引すぎないか?」

 思わず口を挟む俺に、真壁は小さく溜め息をつき、神谷へ視線を戻す。


「手すりの件については?」

「……手すり?」

 神谷の手が小さく震え、窓際へと目が泳ぐ。

「た、確かに古くなっていましたよ。前から危ないと会議でも言っていたんです」

「ほう、古くなっていたと」

 真壁は短く相槌を打つだけで、じっと彼を見つめた。


「ええ。だから、その……あんなに深く傷が入っていたら、いつかは折れるんじゃないかと……」


「一見すれば古びた作に過ぎないのに、傷の深さまで確認しているなんて。神谷先生は、なんと勤勉で、観察力の鋭い教師なんだ。さぞかし親御さん達からの信頼も厚いことでしょう」

 芝居がかった真壁の言葉に、神谷の喉が大きく鳴る。


「確かに、外からちょっと見ただけじゃ、傷の深さまでは分からないですよね」

 俺の言葉に、神谷の肩がびくりと震えた。


「そ、それは、たまたまですよ。偶然、近くを通りかかった時に見ただけで……!」

 必死に言い訳を試みる声は震えていた。だが、自分でもその苦しさに気付いたのか、神谷は大きく息を吐き、その場に崩れ落ちてしまった。


 教室には誰の声もなく、ただ夕陽の赤い光が机や椅子を長く照らし出している。


「もう、隠しきれませんね……」

 ようやく漏れた声は、諦めと安堵が入り混じった響きだった。

「手すりに傷をつけていたのは、私です」


 真壁は相変わらず表情を崩さぬまま、冷ややかな目を彼へと向けていた。


「どうしてですか? 子どもを守る立場にいる貴方が、どうして子どもを危険な目に遭わすきっかけを作ったんです」

 思わず俺が問いかけると、神谷は疲れ切った顔をあげ、力無く笑った。


「大した理由なんてありません。ただの、賭けだったんです。ただ、疲れていたんです。毎日、終わらない書類と、保護者からの理不尽な要求と、成果ばかり求めてくる上司……。何をしても誰も褒めてくれないし、認めてもくれない。自分が透明になったような気がして……気が付けば、くだらない賭けをしていました」


 声は掠れ、笑いとも鳴きともつかない響きになった。


「先に折れるのは手すりか、それとも私か……。そんな馬鹿げた賭けです。ナイフで一筋、また一筋。ほんの些細な行為でした。けれど、それを続けている間だけは、妙に落ち着いていたんです。……あの傷が、唯一『自分がここに存在している証』みたいで」


 俺の胸が詰まりかけ、息が苦しくなる。そんな弱さは、わからなくもない——そんな気持ちが、一瞬でも頭をよぎった自分が怖い。


 だが、真壁は揺るがない。彼の目はいっぺんの情もなく、鋭さだけを宿していた。


「要するに、アンタは子供たちの命を、鬱屈した自己満足の駒にしたんだ」

 淡々とした声が、まるで判決文のように響く。

「賭けるなら、自分の人生だけにしておけば良かったんだ。手すりに傷を刻むたび、心が落ち着いた? それはつまり、子供たちを危険に晒すことでしか自分を支えられなかった、ということだ」


 神谷の顔は苦痛に歪み、唇が乾いた音を立てる。


「そして、たまたま子供たちがおまじないの本を読んでいるのを見て、悪戯心が働いた」

 真壁の声がさらに冷たく沈む。

「未来が占える、なんて話をすれば、きっと食いつくだろうと。いや、食いつかせたかったんだろう? 自分の仕掛けが思い通りに子供たちを動かす、その感覚に酔って」


「ち、違う……!」

 神谷はかすれた声で否定した。だが、その震えは言葉より雄弁に、彼の心の揺らぎを物語っていた。

「私は……そんなつもりじゃ……」


「違わない」

 真壁は静かに肩を竦め、皮肉めいた笑みを浮かべる。だが、その目の奥には、ほんのわずかに「呆れ」と「軽蔑」が宿っていた。

「子供の遊び心に餌を撒き、興味を煽り、結果を眺めていた。それがどんな危険に繋がるか、一度だって想像しなかったのか?」


「そ、それは……!」

 神谷は口を開いたが、すぐに声を失った。唇だけが震え、視線は宙をさまよい、やがて床に落ちる。


「結局、貴方が撒いた種だ」

 真壁の声は淡々とした断罪だった。

「偶然を装った必然。自分の退屈を紛らわせるために撒いた種が、子供を傷つける果実に変わっただけの話だ」


 神谷の喉がひくりと鳴る。まるで言葉の刃で一つ一つ削り取られるように、表情から血の気が引いていく。


「教師という肩書きは立派だが、やっていることは安っぽい悪戯だ」

 真壁の瞳は氷のように冷え切っていた。

「……ただ、結末だけは、安っぽさでは済まなかったがな」


 その一言が刃となり、神谷の旨を断ち割ったようだった。彼は椅子の足に縋りつき、喉から声にならない嗚咽を漏らす。肩が震え、必死に押し殺した吐息が何度も零れ落ちる。教師という仮面は完全に剥がれ、そこに残ったのは疲弊し切った一人の人間だった。


 その姿を前にして、俺の胸は詰まりかけた。

 わからなくもない、と一瞬思ってしまったのだ。誰からも認められず、褒められもせず、透明になったような孤独に蝕まれる感触——それは、想像できてしまう弱さだった。

 だが、だからといって許されるはずはない。子供たちの命を危機に晒す行為で、自分の存在を確かめようとするなんて。

 共感と拒絶のあいだで揺れる自分自身が、何よりも恐ろしかった。


 真壁はただ氷のような瞳で神谷を見下ろしていた。そこには情けも同情もなく、ただ冷え切った断罪の光だけが宿っている。

 その揺らぎのなさに、俺は救われると同時に、どこか距離を感じていた。


 窓の外では、夕陽がますます濃くなっていく。

 朱は血のように机や椅子を染め、長く伸びた影は絡み合って教室を覆い尽くす。

 それはまるで、子供たちの無邪気な声を押し潰す罪悪そのもののようだった。


 ——それがただの夕陽の色なのか。

 それとも、神谷の罪が染み出した色なのか。

 俺には判別がつかなかった。

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