サヨナラ。

さくさく

第1話

その村は、周りを深い森と清らかな川に囲まれた、小さな田舎だった。季節の移ろいを肌で感じられる、どこか懐かしい風景が広がるこの村には、「まどかの家」という孤児院があった。晴仁は物心ついた頃からこの家で育ち、いつしか最年長として、皆から「晴仁兄ちゃん」と慕われるようになった。この家は、彼にとって何よりも大切な、唯一の家族だった。


この日、村は年に一度の夏祭りで賑わっていた。色とりどりの提灯が夜空を幻想的に照らし出し、屋台から漂う甘い匂いが子どもたちの笑い声と混ざり合う。晴仁は歳の離れた妹や弟たちを連れ、射的や金魚すくいに興じていた。


「晴仁兄ちゃん、見て!金魚、いっぱい取れたよ!」

小さな弟が、誇らしげに金魚の入った袋を掲げる。透き通った袋の中で、赤い金魚が優雅に尾びれを揺らしていた。

「すごいじゃないか。上手くなったな」

晴仁は弟の頭を優しく撫でた。その手つきは、まるで自分の子をあやす父親のようだ。彼の顔には、心からの優しい笑顔が浮かんでいる。この賑やかで、何にも代えがたい日常が、ずっと続くのだと信じていた。


しかし、その夜の祭りは、いつもとは少し違っていた。楽しげな囃子の音は突然消え、村を吹き抜ける風が不気味に唸り、提灯の明かりが一斉に消える。ざわめき出した人々の中で、晴仁は異様な気配を感じた。森の奥から、何かがこちらへ向かってくる足音が聞こえる。こんな祭りの日に森に入る人間はいない。


「あれ……?」

人々が戸惑いの表情を浮かべる中、村を囲む深い森から、不気味な獣の咆哮が響き渡った。


刹那、祭りの中心にある大きな広場に、巨大な影が降り立った。それは、人ではない。鬼や天狗、あるいはそれらとは異なる異形の存在だった。

「うわああああああああ!」

悲鳴が村中に響き渡る。巨大な影から、無数の妖怪たちが降り立ち、無慈悲に人々を襲い始めた。楽しげな笑顔は恐怖に歪み、祭りの装飾は引き裂かれ、血が舞い散る。


「みんな、逃げろ!」

晴仁が叫び、兄弟たちの手を取ろうとしたその時、目の前で妖怪が彼らを切り裂いた。

「お兄ちゃん…!」

一人の妹が、倒れこむ直前に震える声で言った。

「お兄ちゃんだけでも…生きて…」

その言葉に突き動かされ、晴仁はがむしゃらに裏山へ向かって走り出した。妖怪たちは、逃げる彼を容赦なく追いかけてくる。


もう少しで裏山の頂上というところで、一際巨大な鬼が立ちはだかっていた。

「ああ……」

もう駄目だ。兄として、兄弟の誰一人として守れなかった。妹との約束も守れない。

晴仁の絶叫も虚しく、鬼の腕は無情にも振り下ろされた。


「あああああああああああああああああああああ!」

絶望と、怒りと、そして込み上げる憎しみが、晴仁の心を焼き尽くす。目の前で、家族同然の仲間が命を奪われた。自分は、何も守れなかった。


その瞬間、妖怪の群れから、一人の男が静かに現れた。黒い和装を纏い、背中には一振りの妖刀を背負っている。男は無言で妖刀を抜き、振り下ろされた鬼の腕を弾いた。目の前の巨大な鬼は、男の一撃で消え去る。追いかけてきた妖怪たちも、彼によって次々と切り伏せられていった。


「大丈夫か」

男は、晴仁に問いかける。

「俺の名前は、久遠朔夜だ」


男の声を聞いた瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。晴仁の意識は急速に遠のき、その場に崩れ落ちた。


この日、清水晴仁の穏やかな日常は終わりを告げた。彼の残酷な運命が、静かに幕を開けたのだ。

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サヨナラ。 さくさく @qll13124

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