第25話 最後の戦い

 夜明け前の空は月が煌々と輝き、戦の火蓋が切られる気配だけが重く漂っていた。

 だが俺はいつもと同じように湯に浸かっていた。


 温泉の湯気は、戦場へと赴く俺の体を温かく包み込む。

 皮膚の奥まで染み込む熱と魔力を引き出す不思議な効能が、確かに俺を強くするのだと実感できた。


 水面に揺れる自分の顔を見て、思わず苦笑する。

 まさか土を掘り当てただけの俺が、国王であり、湯けむりの英雄なんて呼ばれるようになるとはな。


「ケンさん、死なないでくださいね」


 そういうリナは、優しく微笑んでいた。


「ああ。必ず生きて帰る」


「多少の怪我は私が癒しますわ。……それでも、貴方が傷つくところは見たくないのです」


 アルーシャは伏し目がちに呟いた。

 彼女の微かな震えが、湯気がの水門となって俺に伝わってくる。


「いつも心配をかけてすまない。……俺が安心して戦えるのは、アルーシャ、君がいるからだ」


「この温泉の力があれば私たちは負けない。そうだろう、ケン?」


 ルアナは俺を真っ直ぐ見据え、力強く拳を差し向ける。


「もちろんだ。敵が帝国だろうと、俺たちの絆の前には関係ない」


「領主として──いえ、一人のこの場所と、そして貴方を愛する者として、わたくしも剣を取ります。必ずこの地を守り抜きましょう」


 あの弱々しかったカルラの瞳には今や迷いは一切なく、熱い闘志の炎に燃えていた。


「このリーエンフェルト侯爵領で温泉を掘り当てられたこと、神に感謝しているよ。君と一緒に、『月見ノ湯』を守り抜く」


「ケン……。女王たるフリーダ・フォン・テルメリアが命じます。王として、そして『月見ノ湯』の主として、必ず勝ちなさい」


 フリーダの声が闇夜を切り裂くように凛と響き渡った。

 俺は決意に昂る高揚を隠すことなく、力強く頷く。


「全員で生きて、またこの温泉に戻ってこよう」


 俺の言葉に、彼女たちはぎゅっと身を寄せる。

 湯でしっとりと湿る柔らかな肌の波が押し寄せ、俺は思わず目を逸らし月夜を見上げた。


 ……こんなときでも惹かれてしまうのが情けないやら、人間らしいやら。


 俺たちは湯から上がり、鎧をまとった。

 フリーダが兵士を率いて立つ。鎧の音が一斉に鳴り、空気は一気に張り詰めた。


「テルメリアの誇りを胸に! 王と共に進め!」


「おおおっ!」


 兵士たちの声が轟き、俺は先頭に立った。


 手に握るのは相も変わらずスコップ一振り。だがそれが、今や国を背負う剣より重い。

 土と湯けむりに導かれた、英雄の象徴だ。





 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆





 敵は既に平原にまで押し寄せていた。

 帝国の軍勢は、ここは我らの領土だと言わんばかりに辺り一面に旗を立て、源泉を奪おうとする野望をむき出しにしている。


 鎧の列、朝日に光る槍の穂先と剣。

 帝国軍の魔導師が空へ爆発魔法を放った瞬間、戦が始まった。


「全員俺に続け!」


 俺は地を踏みしめ、スコップを振り抜く。


「うおおおおっ!」


 大地が唸り、斬撃が奔流となって敵を薙ぎ払う。岩盤がせり上がり敵兵を押し潰す。灼熱の湯気が立ちのぼり、戦場全体を覆った。


「な、なんだこの力はっ!?」

「奴が湯けむりの英雄だ!」


 敵兵の怯える声を聞きながら、俺はさらに力を解き放つ。

 温泉で強化された魔力が全身を駆け抜け、スコップの一撃ごとに閃光が走る。槍を折り、盾を砕き、魔導師の魔法すら地ごと呑み込む。


「今だ! 敵に畳み掛けよ!」


 フリーダは兵を率いて冷静に指示を飛ばし、ルアナは剣を抜いて俺の隣に駆け込む。


「突出するなケン! いくら魔力が強くともお前は生身の人間であることを忘れるな!」


「俺の背中はお前が守ってくれる。そうだろルアナ!」


「……好きにしろ! だが絶対死ぬんじゃないぞ!」


 俺は強く頷き、スコップで大きく横薙ぎを繰り出す。

 刃先から飛び出た魔法の斬撃が帝国将軍の首を落とし、帝国軍に動揺が広がる。


「ケンさん、一人で背負わせはしません!」


 その声に一瞬だけ振り返ると、リナが小さな体で薬草を配り、負傷兵を励ましていた。

 アルーシャは祈りを捧げ、聖なる光で仲間を守っている。


 カルラは領民兵を率い、温泉宿を守るように布陣している。

 フリーダは王家秘伝の魔法陣を張り、敵の大軍を牽制していた。


 ──みんな、俺と一緒に戦っている。もう俺一人じゃない。


 敵は波のように押し寄せては、俺たちの結束に砕け散っていった。


 俺は叫んだ。


「テルメリアを、そして温泉を守り抜け!」


「おおおおっ!」


 最後の魔力をスコップに込め、地を割る一撃を放った。


 大地が裂け、灼熱の蒸気が噴き上がる。


 その激流が敵軍を呑み込み、恐慌状態に陥る帝国軍の主力部隊を押し流した。





 それからスコップを振るい続けること数時間。

 すっかり日が頭上にまで昇った頃、戦場に立つのは俺たちだけとなり、ついに勝利の瞬間を迎えた。


「……やったのか」


 膝が震え、全身が汗と湯気に濡れている。だが兵士たちの歓声が耳に届いた。


「勝ったぞ! テルメリアに湯けむりの英雄あり!」

「ケン様! いや国王陛下万歳!」


 その声は波のように広がり、胸の奥まで突き刺さった。

 俺は剣でもなく魔法でもなく、スコップで戦った。


 そしてあの大陸一の帝国軍を打ち破ったのだ。

 振り返れば五人の妻が笑顔で俺に駆け寄る。


「これで、本当に戦いは終わりだ」





 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆





 戦いが終わった後、俺たちは再び湯へと向かった。傷を癒し、魔力を補充するための湯治だ。


 湯に浸かれば、戦いの疲労が少しずつ溶けていく。兵士たちの安堵の声、彼女たちの笑み。

 リナがはしゃぎ、アルーシャが静かに祈り、ルアナが肩の力を抜き、カルラが「湯の効能、実に見事ですわ」と感嘆していた。


 隣で、フリーダが俺の手を握った。


 「……ありがとう、ケン。貴方が傍に居てくれて、本当に良かった」


 俺は彼女の手を握り返し、水面に映る自分の顔を見た。

 温泉があったからこそ、俺はここまで来られた。温泉があったからこそ、みんなと繋がれた。


 ──湯けむりに包まれ、俺たちはひとつになっている。


 こうしてテルメリアの国と温泉は守られた。湯の力と、湯で結ばれた絆の証として。

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