第24話 動き出した影
その知らせはまだ夜明けの霧が漂う温泉宿『月見ノ湯』に届いた。
「──北の帝国軍が、国境を越えたそうです」
青ざめた伝令が告げる声に、広間が一瞬にして凍りついた。その静寂まるで時が止まったかのように思えた。
帝国。それは豊かな鉱山や肥沃な国土を抱え、常に周辺国を侵略してきた軍事大国。
その矛先がよりにもよってこの小さな温泉街へと向けられるなど、誰が予想しただろう。
温泉の魔力強化という軍事的価値は、帝国にとってそれほどまでに魅力的だったというのか。
フリーダは椅子から落ちるようにフラフラとに立ち上がった。
淡い銀髪を背に垂らし、紫の瞳は決して強がりではない陰を帯びている。普段は毅然とした王の姿しか見せぬ彼女が、唇を震わせていた。
「私の交渉の拙さが招いたことです。帝国の使節団が示した要求を、上手く受け止めていれば……」
その声には、王としての後悔と、ひとりの女としての自責が入り混じっていた。
俺は思わず歩み寄り彼女の手を取った。彼女の手はかすかに冷えている。
「フリーダ。君は悪くない。これは俺のサポート不足が招いた結果だ」
俺が温泉宿にかかりっきりで、彼女の夫として、この国の王として、政務を十分にこなす事ができなかった。俺の責任だ。
その言葉に、彼女の瞳が揺れた。まるで年下の俺に縋るように、手を力なく握り返してくる。王としては弱さを見せられない。
だが俺の前では、ただの一人の女として震えている。そう思うと胸の奥が熱くなった。
けれど周囲の空気は重い。村人たちはざわめき、老人の一人が声をあげた。
「ケン様、このままでは皆が戦火に巻き込まれる……。温泉を差し出してしまえば、命だけは守れるのではありませんか?」
その言葉に、多くがうなずいていた。俺の背中を支えてきた村人たちでさえ、恐怖に押されて諦めかけている。
だが俺は心の中で首を振った。俺がこの温泉を掘り当てた時、確かにただの偶然だったかもしれない。けれど、ここで人が癒され、笑顔になり、そして国すら動かす存在になったのだ。
……簡単に差し出していいはずがない。
「諦めるのは簡単だ。でもな、この湯は俺たちの誇りだ。誰かのものにしていいわけがない」
そう言うと、村人たちの顔に戸惑いが広がった。
沈黙を破ったのはリナだった。汚れたエプロンをつけたまま、まっすぐ俺を見つめている。
「……ケンさん。前にあなたは一人で戦って、死にかけた。あの時、私たちはただ祈ることしかできなかった。でも、もう二度とそんなのは嫌。今度は私も一緒に戦います」
震える声だが、そこには確かな決意が宿っていた。
続いてアルーシャが胸に手をあてる。
「神は施しを与えるだけでなく、試練も与えます。……ならば私は神の名において、この湯を守る力を振るいましょう。ケン、貴方の隣で」
白衣の裾が朝風に揺れ、彼女の清廉な横顔が朝日に照らされる。
ルアナは鋭い音を立てて剣を抜き放った。
「王国の騎士として、この地を見捨てることはできぬ。だがそれ以上に、私個人として、あなたの傍に立ちたいのだ、ケン!」
力強い声に村人たちが息を呑む。
そしてカルラがドレスの裾をつまみ、気高く頭を上げた。
「私の家は貴族である前に、この湯で救われた一人の人間です。ケン様、そして皆さまのために……わたくしも剣を取ります」
普段は華やかな彼女の言葉に、気品と覚悟が滲んでいた。
俺は思わず笑った。涙が出そうになるほどに。
「……ありがとな。俺一人じゃ背負いきれかっただろう。でも、こうしてみんながいるなら……、帝国だろうが怖くない」
フリーダが静かに俺を見つめていた。その瞳に、かすかな潤みが光る。
「……あなたという男は、本当に不思議ね。温泉を通してこんなにも多くの人があなたを支える。そしてあなたはこうして私を支えてくれる。ケン、まさにあなたは民を、国を導く英雄……」
彼女は深く息を吸い、王の声を取り戻した。
「よいか! 我らは決して退かぬ! 王国の誇りと、我らが癒しの湯を守り抜く!」
広間に歓声が湧いた。恐怖に縛られていた村人たちの表情が、少しずつ解けていく。
俺は胸を張った。
この場にいる全員が、俺と共に立ち上がっている。
かつてただの流れ者に過ぎなかった俺が、いまや女王の夫であり、街の希望であり、この国の湯を守る英雄なのだ。
刻一刻と迫り来る帝国軍。
だがこの夜明けの光の中、俺たちは一つに結ばれた。
戦いは避けられない。しかし、この仲間たちとなら、必ず勝てる。
俺はそう、確信していた。
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