最終話 湯けむりとスローライフ

 帝国との熾烈な戦いから数ヶ月。


 戦いの傷跡などまるで幻だったかのように消え失せ、テルメリアの温泉街はかつてないほどの賑わいを見せていた。


 朝も昼も夜も、街道を行き交う荷車の音と商人たちの声が絶えない。

 遠国からの旅人、異国の使節、学者に商人、果ては修道士まで、皆が一様にこの地を目指してやって来る。


 湯けむりが立ちのぼる山肌を仰げば、軒並みに増築された旅籠の屋根が陽光を反射して煌めき、石畳の路地には新しい看板がずらりと並んでいた。


 かつて小さな村だったこの場所が、今や大陸一の温泉街と呼ばれるほどに発展したのだ。


 その中心にあるのは、もちろん俺たちの温泉宿『月見ノ湯』。


 人々が肩を並べ、湯の中で笑い合う声が夜更けまで響きわたり、まるでこの街全体がひとつの大きな湯殿になったかのようだ。


 だが、俺の日常は穏やかなものではなかった。


「ケン様、次の宿泊予定者の確認をお願いします!」

「国王陛下、午後には他国の使節団との会談が控えております!」

「旦那さま! 今夜の宴会料理の件ですが!」


 朝からこんな具合にあっちこっちから声が飛んでくる。

 温泉宿の主であり、この国の王であり、さらには『湯けむりの英雄』とまで呼ばれる身分になってしまった俺は、ありがたいことに毎日とんでもなく忙しい。


 本当ならのんびり畑を耕したり、温泉に浸かって昼寝をしたりするスローライフを望んでいたはずなのに……。


 いつの間にか望みとは真逆の、騒がしくも活気に満ちた日常を過ごしている。


 それでも、不思議と苦ではなかった。

 なぜなら、俺の周りにはいつも愛すべき彼女たちがいるからだ。


 村娘リナは相変わらず世話焼きで、俺が食事を忘れれば眉を吊り上げて叱ってくれる。


 聖女アルーシャは街に巡礼者が増えたせいで一層多忙になったが、それでも夜には俺の背を撫でてくれる。


 女騎士ルアナは訓練場で兵を鍛え上げつつ、兵を引き連れて見回りを欠かさない。


 貴族令嬢カルラは新しい商人街を切り盛りし、たまには酒の勢いで俺に甘えてくる。


 女王フリーダは国務に忙しくも、ふとした折に見せる柔らかな微笑みで俺の心を救ってくれる。


 ……俺は愛する人たちに囲まれ、幸せな日々を送っている。その事実を考えると、どんなに忙しい日でも、自然と笑みがこぼれた。





 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆





 ある日の夕暮れ、ひと仕事終えた俺はようやく自分の時間を手に入れた。


 向かった先はもちろん湯殿だ。

 湯気の向こう、岩を積んで造られた露天風呂には先客が五人。俺の妻たちがそろっていた。


「遅いぞ、ケン」


 ルアナが立ち上がり、滴る水滴を肩で払う。その鍛え上げられた肢体が、夕日を受けて黄金色に輝いて見えた。


「お疲れ様です、ケンさん」


 リナが頬を赤らめながら手ぬぐいを胸に当てている。


「英雄が最後に来るとは、まったく皮肉なものですね」


アルーシャはそっと俺の隣に寄り添い、目を閉じて祈るように湯を掬った。


「ふふ……。でも、こうして皆でゆっくりと湯に浸かれるのは、幸せなことですわね」


カルラは長い髪を湯に漂わせ、意味ありげな笑みを向けてきた。

 

「……遅かったわね」


 最後にフリーダ。女王でありながら、この時だけはただの妻として、少し不安げに俺を見つめていた。


 俺は一歩、湯へ足を踏み入れた。

 心地よい熱さがじわりと全身に広がる。肩まで浸かれば、たちまち疲れが抜けていくのが分かる。


「やっぱり、温泉は最高だな」


 そう呟いた瞬間、彼女たちが一斉に笑った。

 笑い声が、湯気に溶けて天井へ昇っていく。

 やがて誰からともなく寄り添い、俺の両腕、胸元、背中へと甘えるようにもたれかかってきた。


 頬が熱いのは湯気のせいか、それとも……。


 湯の水面が揺れ、しっとりとした肌が触れ合う。リナの髪の香り、アルーシャの囁き、ルアナの笑み、カルラの視線、そしてフリーダの温もり。どれもが愛おしく、どれもが欠けてはならない。


 こんな日々が、これからも続いていくのだろう。





 その日の夜。俺は湯殿を出て、温泉街を一望できる宿の屋上テラスに立っていた。

 提灯の明かりがずらりと並び、道を行く人々の笑い声が重なっている。湯けむりは夜風に溶け、星々へと溶けていった。


「なあ、みんな」


 隣に並んだ五人へ俺は振り返った。


「俺は、心の底からこのスローライフを愛している」


 するとフリーダが笑い声をこぼした。


「これだけ賑わっていて、どこがスローだというのでしょうか」


 カルラも肩をすくめる。


「むしろ激流のど真ん中ですわ」


 リナが笑って頷き、アルーシャは小さく「神に感謝を」と囁く。

 ルアナは俺の肩をぽんと叩き、からかうように言った。


「でも、こんなに平和な生活はスローライフなのかもしれないな?」


 俺は頭を掻き、そして笑った。


「まあ……そういうことかな」


 湯けむりの都テルメリア。

 そこに住む俺たちは、喧噪の中で笑い合い、湯に癒やされ、これからも生きていく。


 俺は胸の奥から湧き上がる幸せを噛み締め、声を上げて笑った。


 ──ああ、本当に、温泉は最高だ。


 この日々こそが、俺の望んだスローライフなのだ。





 笑い声が夜空に溶けていく。


 俺たちの幸せは、湯けむりと共に果てしなく続いていく……。



────────【了】 ────────



◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 

あとがき


皆様、ここまでケンと愉快な仲間たちの物語にお付き合いいただきありがとうございました。

少しでも面白いと感じていただけたなら、感想や評価でお気軽にお知らせいただけると幸いです。


ケンたちの幸せなスローライフは、これから始まります。

ぜひ皆様の応援で、書籍という形でこの先の物語を描く機会をいただけたら、それより嬉しいことはありません。


……それでは最後にもう少しだけ、彼らの日常をお届けしたいと思います。

最後までお付き合いいただければ幸いです。

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