第3話
真っ直ぐに家に帰るつもりでいた。今日は深夜帯のバイトだから、帰って仮眠しておくつもりだったから。
だというのに。
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
声を掛けられてびっくりした。暑さにやられていたのか、見知らぬ喫茶店の中にいたのだ。声を掛けてきたのは私と同じか少し上だろう店員らしき女性である。
「え、あの。私……」
どうしよう。デートのつもりでいたからお金はある程度は持っているけれど、一人で喫茶店に入るほど懐具合に余裕があるわけではないのだ。
店を見やると花だらけの奇妙な店だ。フラワーショップと同じくらい至る所に花が溢れているように目に映る。ただ、コーヒーの香りはほのかに感じられるので、ここは喫茶店か洋食店なのだと思われる。
しどろもどろで私が返すと、店員はニコッと笑った。
「外は暑いですから、涼んでいってください」
「えっと、メニュー表、いただけますか?」
確かに外は暑かった。飲み物を持って歩いていなかったから、水分補給はしたほうがいいだろう。一番安い商品を選んで涼むのは必要なことかもしれない。
私が尋ねると、店員は棚からラミネート加工された紙を取り出した。
「どうぞ。おすすめはスイーツセットです」
メニュー表らしいそれは手書きだった。ケーキや焼き菓子の絵とハーブティーの説明のイラストが添えてある。
その中でも目をひいたのが花のイラストだった。ピンク色の丸い花の絵。さっき見た花に似ている。
「蓮の花がスイーツになっているんですか?」
「それは蓮じゃないよ」
声は店の奥から聞こえる。若い男性の声だ。
メニュー表から顔を上げると、声の主と目が合う。私よりは背の高い青年だ。
「その花は睡蓮だ。イラストにしてしまうと似てしまうけれど、蓮は茎が水面より高く出ているのに対し、睡蓮は水面に浮かぶように花が咲く」
「ああ、確かに」
イラストを見直すと、花は水面に浮かぶように咲く様が描かれていた。
「ついでに説明すると、この店では花は提供していない。花を食用とするエディブルフラワーを扱っている店もあるが、ここはそういう店じゃない。僕はチョコレートでその花を作っている」
「お砂糖やマジパンじゃないんだ」
「味も保証するよ」
「高そう……」
思わず告げると、青年は声を立てて笑った。
「手のかかる商品だからね。それなりの金額にはなるよ」
「ですよね……」
メニュー表を見ると、自分のご褒美にと思っても出せるかどうか怪しい金額が記載されていた。手持ちは足りるが、気持ち的に払えない。
「だが、せっかく興味を持ってくれたみたいだし、特別に花びら一枚とアイスティーのセットを出してあげようか?」
「ちょ、店長!」
店員が焦って声を上げる。
なるほど、この青年が店長でパティシエなのか。
「千円以内になりませんか……?」
おそるおそる希望を伝えてみると、店長と呼ばれた青年は愉快そうに笑った。
「ははは。さて、どうだろう。最安値は千円プラス税にしておくから、君が食べて判断するといい」
「だから、そういうのは困るんですって」
「ほら、お一人様案内だよ」
そう告げて、店長と呼ばれた青年は手をひらひらとさせて店の奥に行ってしまう。
「もう……」
「あの、迷惑でしたら、私」
「店長に気に入られたみたいですね。席、案内します」
「はぁ」
なにやら面倒ごとになってしまった気がするが、私は流されることにした。
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