第四部 広がる病と二つの心
第一話 静かなる毒
リアンが引き起こした悲劇が森の記憶に刻まれてから、季節はまた一つ巡った。
朝靄が晴れ、陽光が世界を照らし出す。
眼下に広がるのは、幾千年もの時を刻んできたエルフの「眠りの森」。
その生命の海は、大陸中央に広がり、西は緩やかな丘陵地帯へ、そして南は広大な人間の住む平原へと続いていた。
遥か東に目を向ければ、空を突くように連なる鉄竜山脈の威容が、朝日に照らされて赤銅色に輝いている。
あれが、ドワーフたちの故郷だ。
そして、その森と平原を分かつように、雄大な大河が、きらきらと輝きながら流れていく。
街道建設は、今、その最後の難関であり、そして最大の希望の象徴でもある『夜明けの橋』の建設へと差し掛かっていた。
森と平原を、そしてエルフとドワーフ、人間という異なる種族を繋ぐ、壮大な石橋だ。
現場の空気は、これまでにないほどの活気と調和に満ちていた。
ゴリンが描く設計図の横では、ライラが森の木々と対話し、橋が森の景観を損なわないよう、その曲線にまで助言を与える。
ドワーフたちは、エルフが運んできた軽くて丈夫な「月光樹」の木材を足場に使い、エルフたちは、ドワーフが切り出した石材が大地に馴染むよう、癒やしの歌を口ずさんでいた。
かつてのいがみ合いは、もはや遠い昔の笑い話だ。
彼らは、互いの違いを認め、尊重し、一つの偉大な目標に向かって、完璧な協業体制を築き上げていた。
「ゴリン、橋桁の角度が、昨日よりコンマ一度ずれているわ。大地が、少しだけ身じろぎしたみたい」
「分かっている。昨夜の月齢と川の潮位から計算済みだ。修正用の楔は、もう打ち込んである」
そんな二人のやり取りも、今では現場に安心感を与える、心地よい響きとなっていた。
だが、その完璧な調和の世界に、最初の不協和音が、音もなく忍び寄っていた。
最初に異変に気づいたのは、ライラだった。
橋のたもとに立つ、森で最も古いご神木。
その葉の色が、ほんのわずかに、だが確実に、瑞々しさを失っている。
まるで、薄い灰色の埃をかぶったかのように、その輝きが鈍っていた。
「どうしたの…?水は足りているはずなのに…」
彼女が木の幹に手を当てても、いつも聞こえてくるはずの、大地から水を吸い上げる力強い生命の歌が、弱々しい呻きのようにしか聞こえない。
それは、まるで喉を締められたかのような、苦しげな響きだった。
同じ頃、ゴリンもまた、首を傾げていた。
橋の基礎として川底に沈めた、ドワーフの技術の粋を集めた石材。
その表面に、奇妙な、油のような黒い染みが、まだらに浮き出ていたのだ。
「なんだ、これは…?川の水質が変化したのか?」
彼は、川の水を汲んで分析したが、成分に異常は見られない。
鉱物の含有率も、酸性度も、全てが許容範囲内だ。
だが、石材は、まるで内側から病に冒されているかのように、その輝きを失っていく。
まるで、石としての存在を、自ら放棄しようとしているかのようだった。
それは、あまりに静かで、微かな変化だった。
誰もが、建設の疲労による気のせいだろうと、気にも留めなかった。
だが、その「静かなる毒」は、ゆっくりと、しかし確実に、森全体を蝕み始めていた。
◇
数週間後、異変は、誰の目にも明らかな形となって現れた。
森の木々が、次々と葉を落とし始めたのだ。
季節は、まだ夏だというのに。
川の水は輝きを失って淀み、魚たちは腹を浮かべた。
そして、その呪いは、ついに森の民にも牙を剥いた。
「…体が、だるい…」
最初に異変を訴えたのは、エルフの若者だった。
やがて、同じ症状を訴える者が、ドワーフの中からも現れ始めた。
それは、熱があるわけでも、痛みがあるわけでもない。
ただ、体の芯から、生きる気力そのものが、まるで砂時計の砂のように、ゆっくりと抜け落ちていくような、奇妙な倦怠感だった。
眠り病とは違う。
意識はある。
だが、その意識が、まるで薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるかのように、現実感が希薄になっていく。
喜びも、怒りも、悲しみさえも、どこか他人事のように感じられた。
「街道建設のせいだ…!」
誰かが、そう言った。
一度生まれた疑念は、毒のように、人々の心に広がっていく。
「ドワーフが持ち込んだ石が、森を病ませたのだ!」
「いや、エルフの森そのものが、我々を拒絶しているのだ!」
ようやく手を取り合ったはずの両種族の間に、再び、不信と恐怖の影が落ち始めた。
そんな中、最後の視察のために、宰相特使リィナが現場を訪れた。
彼女は、完成間近の壮大な橋を見て、感嘆の声を上げるはずだった。
だが、彼女の目に映ったのは、生気を失った森と、互いを疑いの目で見る、エルフとドワーフの姿だった。
「…これは…」
リィナは、馬から降りると、道端で力なく座り込んでいるエルフの若者に、そっと手を触れた。
その瞬間、彼女の顔から、血の気が引いた。
若者の体内から感じられる生命の響きは、弱々しいながらも確かに存在している。
だが、その響きと、彼が根差しているはずの大地との繋がりは、まるで細く引き伸ばされた糸のように、かろうじて繋がっているだけだった。
「数年前に大陸を蝕んだ、あの賢者アルドゥスの呪詛に、似ている…。でも、違う…。あれが生命力を直接奪う『略奪』なら、これは、繋がりそのものを断ち切ろうとする、もっと悪質で、根源的な…」
彼女は、ゴリンとライラを呼び寄せると、震える声で告げた。
「この森は、病気になっているのではありません。もっと恐ろしいことが起きています」
彼女は、地面にそっと手をかざした。
「大地には、『地脈』と呼ばれる『絆』があります。木々と土、水と川底、そして、生きる者たちの魂と肉体。その全てを結びつけている、生命の糸です。ですが、今、この森では、その糸が、何者かによって、強制的に断ち切られようとしています」
「絆を、断ち切る…?」
ゴリンが、訝しげに聞き返した。
「ええ。木々が枯れるのは、土との絆を断たれたから。川が淀むのは、水と川底の絆を断たれたから。そして、皆さんの気力が失われているのは…」
リィナは、恐ろしい結論を口にした。
「魂と肉体の絆が、少しずつ、引き剥がされているからです。このままでは、この森の全ての命が、魂の抜け殻になってしまう…!」
そのあまりに恐ろしい言葉に、ゴリンとライラは息を呑んだ。
これは、単なる妨害工作ではない。
この森の、全ての命を根絶やしにしようとする、見えざる敵の、攻撃だった。
三人は、顔を見合わせた。
仲間たちが、そしてこの森が、完全に沈黙する前に、病の発生源と、その治療法を見つけ出さなければならない。
だが、彼らはまだ知らない。
その見えざる敵が仕掛けた、最も恐ろしい罠が、彼ら自身のすぐそばまで迫っていることを。
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