第二話 入れ替わった魂

 森の病は、日に日に深刻さを増していた。

 ゴリンは、寝る間も惜しんで、橋の基礎部分から採取した黒い染みの分析に没頭していた。

 彼は、持ちうる全ての知識と道具を駆使して、その正体を突き止めようとした。

 だが、結果は常に同じだった。

「…異常なし。何度分析しても、ただの水と、微量の鉱物、そして植物の腐敗物だけだ。毒物はおろか、魔法的な痕跡すら検出できん…!」

 彼の研究テントには、分析結果が記された羊皮紙が、敗北の証のように散乱していた。

 論理と科学の信奉者である彼にとって、目の前で起きている現象を、自らの知識で「定義」できないことこそが、最大の恐怖だった。


 一方、ライラは、森で最も古いご神木の下で、瞑想を続けていた。

 彼女は、自らの意識を森の奥深くへと沈め、病の発生源を探ろうとしていた。

 だが、彼女の耳に聞こえてくるのは、もはや歌ではない。

 それは、無数の生命が、声もなく苦しむ、静かな断末魔の叫びだった。

(…分からない。どこから来るのかが、全く分からない。まるで、森全体が、内側から、均一に腐っていくかのよう…)

 彼女のクールな表情にも、焦りの色が濃く浮かんでいた。


 リィナは、病に倒れた者たちの看病に奔走していた。

 彼女は、大地から微かな生命力を汲み上げ、それを分け与えることで、彼らの魂と肉体の絆が完全に断ち切られるのを、必死に防いでいた。

 だが、それは、焼け石に水でしかなかった。

 日に日に衰弱していく仲間たちの姿に、彼女の心もまた、すり減っていく。


 三人の奮闘も虚しく、状況は悪化の一途を辿っていた。

 そんな、絶望が森を覆い尽くそうとしていた、ある夜のことだった。


 ◇


「——無駄なことだ」

 冷たく、そして嘲笑うかのような声が、橋の建設現場に響き渡った。

 三人が声のした方角を振り返ると、完成間近の橋のアーチの上に、一人の男が立っていた。

 黒いローブで全身を覆い、その顔は、かつての英雄の一人、賢者アルドゥスを模した、不気味な仮面で隠されている。

「お前は、誰だ!」

 ゴリンが、手斧を構えながら叫んだ。

「我らか。我らは、忘れられた者。真実の歴史の番人だ」

 男は、芝居がかった仕草で、ゆっくりと仮面を外した。

 その下から現れたのは、エレジア王国の貴族の紋章を身につけた、壮年の男の顔だった。

 その瞳は、狂信的な光を宿している。

「我らは、偽りの平和を打ち破り、大陸に真の秩序をもたらす者。お前たちが言うところの、『旧英雄派』の残党だ」

「旧英雄派…!」

 リィナの顔が、恐怖にこわばった。

 アルドゥスの野望に加担し、大陸を戦乱に陥れた者たちの、生き残り。

「なぜ、こんなことを…」

「なぜだと?」

 男は、心底可笑しいというように笑った。

「この橋こそが、その答えだ。ドワーフとエルフが手を取り合い、人間と交易を始める。それは、各種族が混じり合い、堕落していく、混沌の時代の始まりに他ならない。我らは、それを正しに来たのだ。アルドゥス様の、そして、真の英雄たちの、崇高なる理想のために!」

 男は、懐から、黒く輝く水晶を取り出した。

 それは、かつてリィナたちがサイラスの村で見た、絶望の苔を操っていたものと同質の、しかし、より強力な呪いを秘めた古代遺物アーティファクトだった。

「この森は、間もなく完全に沈黙する。お前たちのその、脆い友情ごっこと共にな!」

 男が水晶を掲げると、橋の基礎部分に仕掛けられていた同質の水晶が共鳴し、禍々しい紫色の光の奔流を放った。

 その狙いは、森ではない。この場の調和の中心である、ゴリンとライラ、ただ二人だった。

「危ない!」

 リィナが叫ぶが、もう遅い。

 光の奔流は、ゴリンとライラの体を、抗う間もなく貫いた。

 だが、何も起こらなかった。

 痛みも、衝撃もない。

 ただ、一瞬だけ、二人の意識が、真っ白な光に包まれただけだった。

「…なんだ…?」

 ゴリンが訝しげに呟いた、その瞬間。

 彼の足元が、ぐらりと揺らいだ。

 いや、揺らいだのは、世界の方だった。

 彼は、立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。

「ぐっ…!なんだ、これは…!」

 隣で、同じようにライラも、膝をついていた。

「ハハハ!愚かな者どもめ!」

 男は、高らかに笑った。

「その呪いは、肉体を破壊するものではない。魂と肉体を結ぶ『絆』そのものを、内側から断ち切るのだ!お前たちは、間もなく、自らの魂の重さに耐えきれず、抜け殻となる!」

 男は、目的を達したとばかりに、再び仮面をつけると、闇の中へと姿を消した。

 残されたのは、激しいめまいに襲われ、意識が遠のいていく、ゴリンとライラだった。「ゴリンさん!ライラさん!」

 リィナの悲痛な叫びを最後に、二人の意識は、完全に闇の中へと沈んでいった。


 ◇


 最初に目を覚ましたのは、ゴリンだった。

(…体が、軽い…)

 鉛のように重かった倦怠感が、嘘のように消えている。

 それどころか、体が、羽のように軽かった。

 彼は、ゆっくりと体を起こし、自らの手を見つめた。

 そして、絶叫した。

 そこにあったのは、岩のようにごつごつとしたドワーフの手ではない。

 白魚のようにしなやかで、日に焼けていない、エルフの、女の手だった。

「な…ななな、なんだ、これはーーーーっ!?」


 その絶叫で、隣で倒れていたライラも、目を覚ました。

(…体が、重い…)

 全身が、まるで鎧を着せられたかのように、重く、そして固い。

 彼女は、のろのろと体を起こし、ゴリンの絶叫に、不機嫌な視線を向けた。

「…うるさいわね、石ころ頭。一体、何を騒いで…」

 だが、その口から発せられたのは、彼女自身の澄んだ声ではなく、聞き慣れた、不機嫌で、そして恐ろしく低い、ドワーフの男の声だった。

 彼女は、恐る恐る、自らの顔に手をやった。

 指先に触れたのは、滑らかな肌ではない。

 編み込まれた、硬い髭の感触だった。

「……………」

 クールな彼女も、さすがに言葉を失い、そして、数秒後。

「いやあああああああああああーーーーっ!?」

 森中に、乙女のものとは思えぬ、野太い絶叫が響き渡った。


 リィナは、目の前で起きている悪夢のような光景に、ただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 ゴリンの姿をしたライラが、自らの髭を引っ張りながらパニックに陥り、ライラの姿をしたゴリンが、慣れない体で走り出そうとして、見事にすっ転んでいる。

「落ち着いてください、お二人とも!」

 リィナの悲痛な叫びは、二人のパニックに、全く届いていなかった。


 旧英雄派の呪いは、彼らの魂と肉体の絆を断ち切ることに、半分だけ成功し、そして、半分だけ失敗した。

 二人の間に芽生えていた、あまりに強い絆が、呪いの効果を捻じ曲げ、魂が肉体から離れる寸前に、最も近くにいた、互いの器へと、その魂を無理やり結びつけてしまったのだ。


 こうして、前代未聞の、最も厄介で、そして最も滑稽な、精神の入れ替わりが、誕生した。

 森が、刻一刻と死に近づいていく中、二人は、自らの自己同一性アイデンティティそのものを失うという、最大の危機に直面していた。

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