自称魔法使い×借金まみれ青年の同居生活【2-1】スローライフは魔法より手強い
翌日、ケーキみたいな甘い匂いで目が覚めた。
起きて居間兼キッチンに向かうと、いたのは自称魔法使い。
キッチン奥にある居間では、ソファーに座る短髪の後頭部が見える。
向井だ。彼は、壁にかけられた薄型のテレビを見ていて、一人用のコーヒーテーブルを使っていた。
火鉢っぽい丸い陶器。白地に青の絵付けがされたその上に、ガラスがはめられていて天板代わりになっている。古道具屋とかにありそうな代物だ。
ツバサは、シェアハウスの管理者に挨拶がてら詫びる。
「おはよう⋯⋯ございます。寝坊した。ごめん」
「ん。おはよう」
しれっとした顔でアレクセイは、おにぎりを握っている。
ツバサは目を合わせづらい。
昨晩、あの後、湯冷めして、布団の中で身体を震わせていたら、あいつが懐に入れてくれたのだ。
もちろん、「お願い。アレクセイ」と言わされた。
しかも、布団に入り、少し暖を取らせてもらった後にだ。
その後、互いの体温が気持ちが良くて、なんとなく身体を弄り合う感じになって、あっちがこっちの額にキスしてくるものだから、こっちはあっちの鎖骨に唇を押し付けてやったら、あっちの唇が眉間、鼻と落ちてきて、こっちも喉仏、顎と唇が上がっていって、やがて唇が合わさっていた。
温泉でしたような小手調べのようなキスではなく、ちゃんと舌が絡み合うようなタイプのヤツ。
それをアレクセイは、「舌を尖らせてみろ。うん、上手だ」とか「ほお、口蓋が感じるのか」とか、色々言いながら、ツバサの口内を楽しむものだから。
あ~。腹立つ!腹立つ!
会話は全部小声だった。
他の六部屋は居間兼キッチンを挟んで真逆にあり、わざわざこっちにやって来なければ、声は聞こえようがないが、いきなり、誰かに襖をガバッと開けられたらと思うと、ツバサは気が気じゃなかった。
でも、妙に興奮したのも事実。
「時間帯的にもう昼食みたいなものだが、一応、食え」
出てきたのは赤と青の派手な絵柄の皿に乗せられた海苔で包まれた俵型のおにぎり。
そして、具だくさんの味噌汁。ぷりっとした黄身が綺麗な卵が落とされている。
おにぎりの中身は、桜色が美しい鮭だった。
部屋に戻りかけていた向井がやってきて、
「お!いいねえ、オレにも一つ」
「そう言うと思って、多めに作っておいた」
とアレクセイが勧める。機嫌がよさそうな感じだ。
ツバサもしんなりした海苔が漂わせる匂いに食欲がそそられる。
「塩気があって旨い」
「青森県産の鮭だ。向こうでは、辛塩といって塩分濃度八%にして食べる。関東の甘塩は三%だから、いかに塩辛いかわかるだろう。だから、鮭はおにぎりに少量しか入れていない。味噌汁は昨日のバーニャカウダの残りの野菜を入れた。一度茹でたのを再度、味噌汁に使ったから、歯ごたえがないかもしれない。ちなみに、椀は向井の手作りだ」
「え?!」
日曜大工が趣味だと聞いていたが、木工までやるらしい。
「俺、椀って百均のプラスチックのものしか使ったことがない」
(あ、この言い方は失礼だったかな?)
アレクセイの表情を盗み見ると、特に問題無かったようだ。
「ネット販売もしているけれど、なかなか売れないよ」
と向井がおにぎり片手にぼやきながら、部屋に消えていく。
ツバサも食事を終えた。
「全部、美味かったよ。ごちそうさまでした」
手を合わせて、礼を言う。
「顔色が昨日より格段にいい。吹き出物も、食生活が変わればすぐ治る」
ミルクポットを冷蔵庫から持ってきたアレクセイが、グラスに白い液体を注ぐ。
「鮭おにぎりで喉が乾くだろう?ヤギミルクだ。高タンパクで、タウリン、ビタミンA、亜鉛が牛乳より豊富だ。オリゴ糖も入っている。牛乳で腹を下すタイプもヤギミルクなら大丈夫という人も多い」
飲んでみる。
「さらっとしていて軽い。ほのかに甘いな」
「飼っているメイコから今朝、搾ったものだ。アールハウスでは基本、ヤギミルク。卵も鶏舎で飼っている鶏から」
「飼っている?!え、すごっ」
食器洗いを手伝ったあと、アレクセイに家の裏に連れて行ってもらうと、ヤギは不在だった。
「草刈りの仕事に出ている」
「この家じゃヤギも働くのか?」
「なかなか稼ぐぞ」
「今の俺はヤギにも負けているってわけか」
「ツバサ」
「あ~はいはい。今の言い方はよくないな」
なんとなくだが分かってきた。
自尊心が保てなくなる状況になると、自分はそれが受け入れられなくて、皮肉っぽいことを言ってしまうらしい。
(腹立たしいな。自称魔法使いに気付かされるのは)
鶏舎には二十羽ほどの鶏がいた。
「おお~。スローライフって感じ」
ツバサは写真を撮ろうとポケットから携帯を取り出し、止めた。
その様子を、自称魔法使いがじっと見ていた。
「私にお願いはしないのか?」
「うえっ?!何だよ、急に」
確かに困っている。
延滞料金を払い、充電を完了させたのに、一向に携帯が復活しないのだ。
心の中を読まれた気がして、ちょっと焦った。
「簡単なことだ。お前、昨晩から一回も携帯をいじっていない」
ツバサはガレージに並んでいる自転車を見る。
これを借りるにも、お願いしなければならないのか。
「一番近い携帯ショップって歩いてどれぐらい?」
「ここからだと一時間半ほどだな。茅野のイオンにある」
「はあ?!」
ツバサにとって、歩くとは五分から、遠くても十五分ぐらいの距離を言う。
だから、一時間半移動しないと、携帯ショップにたどり着けないという意味が分からない。
「基本的に奥蓼科から一番近い都会は茅野。東京にあるチェーン店は、そこまでいかないとないと思ったほうがいい」
「嘘だろぉ?!」
「今日、道の駅まで納品に行く予定があるのだが、茅野まで足を伸ばしてやろうか?」
「⋯⋯ぐっ」
「素直に頼んだほうがいいぞ。じゃないと、お前を置いて私はさっさと出かけてしまう。さっさとだ!」
(嫌味な奴だあ。本当に、腹立つ!腹立つ!!)
「⋯⋯お願い。⋯⋯アレクセイ」
恥を忍んで、言うと、
「ん?どこかで声がする。空耳か」
と意地悪な自称魔法使いは空を見上げる。
「お願いっ!アレクセイッ!!」
屈服させたツバサをキャンピングカーの助手席に乗せ、ハンドルを握るアレクセイは満足そうだ。
後部座席には、大きなトレーが数個積まれている。
中に入っているのは、パウンドケーキやリンゴのタルト、素朴な見た目のクッキーなどが数十個。
これがアールハウスに漂っていた匂いの正体だろう。
「作ったの誰?」
「私だ。道の駅ビーナスライン蓼科湖に毎週金曜日に卸している」
「料理だけじゃなく、菓子作りも?そして、今日、金曜日なのか。働かなくなってから、曜日感覚がまったく無くなってた。道の駅に卸すのは、シェアハウス以外の仕事もしているってこと?」
「龍三郎から引き継いだ。奥蓼科で会社員以外の仕事をするなら、複数の現金収入が必要だから」
他に積まれているのは、二次元コードのシールが貼られた封筒が十枚ほど。
そして、段ボールが三個。
「こっちも?」
「封筒のは乾燥させたローズマリー、よもぎ、ビワの葉。段ボールは精米時に出る米ぬかが入っている。あと、自家製小麦。小麦以外は元手、タダ。フリマサイトに出品すると幾ばくかの現金に変わる」
ツバサは、自称魔法使いを凝視してしまった。
この男、どこでもたくましく生きていけそうだ。
キャンピングカーは、後部座席に売り物を積み込んでも、まだ、広々としていた。
内装は実に豪華で、薪ストーブまで付いているのだ。
「これ、昨日は気づかなかったけれど、すげえの積んでんだな。もう、住めちゃいそう。新車で買ったらすげえ値段がするんだろうなあ」
「最近、人気らしい。納車まで二年待ちとか。キャンピングカーまで持ちたいという人間は、大抵は凝り性だ。ノーマル使用で買う者はいない。オプションをあれこれ付ける。買った後も、DIYをして家みたいにする。ちなみに、この車の薪ストーブは後付だ」
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