第5話 お隣さん
十一月になった。那須はすっかり秋色となる。我が家の右にはハウチワカエデが並び、その大きな葉が黄緑色から黄色、朱色とグラデーションに色づいている。私は、真っ赤に染まったモミジよりも、この方が好きだ。冷たい風が吹き抜けて、ハウチワカエデの葉がヒラヒラと翻る。葉と葉の間からお隣が見えた。
あれ、お隣の建物の周りに足場が組まれている。九月に売り家の標識が外れて、誰かが買ったのかなとは思っていた。その新しい住民のための修繕工事が始まったのだ。我が家もお隣の家も、茶色のレンガ模様のサイディングに、平屋にしては高い切り妻屋根で、屋根の色は緑色。同じ頃に同じ工務店が作ったのだろう。ただサイズが全然違う。我が家は二人暮らし用、お隣は四人家族用といった感じだ。
私は仙台の姉にどうしても会いたくなり、土曜、日曜とそれに続く文化の日の連休を利用して、車で仙台に向かった。出かける間際にちらりとのぞくと、お隣では雨樋の修繕と屋根の塗装工事をしていた。
途中でサービスエリアに寄りながら、約三時間で姉の住む仙台の六丁の目のマンションに着いた。姉たち夫婦の営む神田印刷を、すぐに見下ろせる場所に姉家族は住んでいる。
いつも通りに定番の御用邸のチーズケーキを姉に渡した。姉はすぐに湯を沸かして、
「ちょうどいただいたばかりの美味しい紅茶があるのよ」
と言って、お茶を入れ、チーズケーキと一緒に出してくれた。とても美味しい。お茶の入った缶に、
姉のアクアが言う。
「アグニ、どうしたの急に。リリナは学会で出かけていて帰って来ないわよ」
私、
「お姉さんに会いに来たのよ。お姉さん夫婦が元気で暮らしているかどうか、ご機嫌伺いに」
姉、
「私はこの通り。人間の成長が止まっているけど、体はまだまだ育ち盛り、困ったもんじゃ焼き」
私、
「お姉さん、まだもんじゃなんか食べてるの」
姉のアクア、
「ジャンクフードって美味しいのよね。もう一度、高校生に戻りたいわ」
いつもの口癖だ。
私、
「お兄さんはどうなの」
と振ると、姉、
「相変わらず元気、元気。三年前に大腸がんの手術をしたなんてすっかり忘れているようよ。今日は、従業員に時間外させられないって言って、一人で会社に行って、旅行会社の春旅行のホームページ作りよ」
私、
「印刷会社もすっかり様変わりね」
アクア、
「そうよ。昔ながらの紙に印刷なんて、七十過ぎた鶴田さんが一人で工場の隅っこでやってるだけよ。営業が注文を受けた印刷物のほとんどは外注で、名刺やハガキだけ鶴田さんがやっているの」
そうなったのか。
姉が続けて、
「ホームページ作りを始めたのは、リリナが二歳の頃だから、もう二十五年近くなるのよ。今じゃ、システムエンジニアを十七人雇って、地元の温泉旅館や旅行会社のホームページ管理や予約システム管理をしているけど、手一杯で新しい仕事を受ける余裕がないみたい」
盛業で何より。
姉、
「リリナが小学校の頃から、工場に出入りして、コンピュータの並ぶ仕事場の片隅で遊んでいたから、自然とコンピュータに興味を持ったんだよね」
続けて、
「リリナが、情報工学に進むと決めたときは、そりゃ神田が大喜びで、口に出さなくてもリリナを後継者にと考え出したのは分かったわ」
さらに、
「問題は生成AIなのよ。もう数年で誰でも簡単にホームページ作りが出来る時代が来る、と神田は言うの。その時代に会社が生き残るには、ネット攻撃に対する万全のセキュリティと、SEO対策つまり検索に引っかかりやすくする技術、それから便利な予約システム作りで勝負するしかない、と言うの。そこをリリナに期待しているのよ」
姉がこんなに難しい話をするとは。門前の小僧になっている。
私、
「リリナが博士課程を終わるのは、あと一年でしょ」
姉、
「今のところ、家に戻る素振りもないけどね」
神田さんが私のために仙台牛を買ってきてくれて、その夜は三人でしゃぶしゃぶと赤ワインを味わった。胸のわだかまりが少し晴れた。
休み明けに診療所に行くと、先生が私の顔を見るなり、
「片山さん、若くなったね。目が大きくなってるよ」
と言い出す。
スースー、
「先生、片山さん、最初っから若いんです。まだ、五十になってないんですよ」
先生、
「そうだった、シシュウキ前だった」
また、わけわからんことを言い出す。
私、
「聞きたくないけど一応聞いておきます。何ですか、シシュウキって」
先生、
「そりゃ、秋を思う時ってことでしょ」
私、
「そんなことだと思った。さっ、仕事仕事」
最近、私が仕事に身が入らずにぼうっとしていた様子を、先生が気にかけていたのだとわかった。もう大丈夫、このまま生きてゆく。
二週間たってもお隣の工事は続く。足場はまだ外されていない。今日は屋根の上に職人さんが二人も登っている。
あれ、お隣の家の前にスースーの車だ。散歩ついでに、
「こんにちは」
と声をかけてみたが、車の中には誰もいなかった。ハイラックスだけじゃなくて、隣に止めてある軽トラックにも那須ストーブと書いてある。ちょうど一人、足場から降りてきた。
「鈴木です。いつもうちの鈴子がお世話になってます」
と挨拶する。屈強で角刈りの頭にも筋肉が盛り上がっている男性、シワだらけの顔もたくましい。そうだスースーのご主人だ。
私、
「お世話になっているのはこちらの方ですよ」
となんとか取り繕うと、
「片山さん、おたくのペレットストーブの調子はいかがですか」
と聞く。
私、
「初めての寒い季節ですけど、タイマーのおかげで朝から温かいし、お湯も沸かせて本当に助かっています」
そうだ、ご主人はペレットストーブを入れる時に来てくれたんだ。
ナナさんから那須の仕事の話があった時に、私が望んだのは朝日岳が見えるところに住みたいということと、火の見える生活がしたいということだった。中古別荘が安く手に入ったのは大助かりだったが、薪ストーブを入れるかどうかで迷った。迷ったというよりも、資金が全く足りなかったし、調べれば調べるほど女の一人暮らしに合わないことがわかり、それでも諦めきれなくて悔しい思いをしたのである。
ところが職場の看護師、スースーが薪ストーブ屋さんの奥さんと聞いて、思い切って相談してみた。すると彼女が、
「そりゃ、ペレットでしょ」
と言い出す。続けて、
「薪ストーブもペレットストーブも値段は四五十万で同じだけど、薪ストーブは煙突工事にさらに百五十万はかかるからね。それに、一人暮らしで夜と週末だけ使うんでしょ。いちいち火を起こして暖まるまで大変よ、薪ストーブじゃ。薪の準備も重労働だよ」
それはわかっている。
さらにスースー、
「今どきのペレットストーブはファンヒーターと同じだよ。タイマーでオンオフ出来るし、温度設定も自動。ペレットを一日一回入れるだけ。ペレットもホームセンターで配達してくれるし。女の一人暮らしにぴったりよ。天板で料理できるのを選べばいい」
結局、スースーの勧めで、私はペレットストーブを入れた。本当に便利だ。そして火が見える。
もう一人足場から降りてきた男性が、
「片山さんですか。いつも龍太郎がお世話になってます。父のコイイチロウです。魚の鯉で、鯉一郎ですよ」
私の目の前にいる男性が、あまりにもハンサムで息が止まってしまった。手ぬぐいで長い髪を後ろにまとめ、高く太い鼻、くっきりとした目、浅黒い肌、お父さんに負けず体育会系だ。私は、体育会系に弱いのだ。
私、目をそらして、
「煙突工事ですか」
と聞いてみたら、鯉ちゃんが、
「そうです。二重煙突の屋根抜き工事です。部材が重くて大変なんですよ。この建物は屋根が高くて煙突だけで七メータ、今屋根で防水工事と雪割りを作っているところです」
よくわからないが、見るからに大変そう。
鈴木さん、
「鯉一、そろそろ上に上がってくれ」
鯉ちゃんは足場をスイスイと登っていった。
鈴木さん、
「いい男でしょ」
どう答えたらいいものか、耳が熱くなる。
鈴木さん、
「今年のストーブ工事は、これが最後なんですよ。冬の間は店仕舞い。私も息子も、十二月になったらスキースクールでインストラクターなんです。三月までね。妻も週末は手伝ってくれる」
そうだったのか。
「今、鯉一には上級の個人指導しかさせてないけど、前は初級クラスもさせていたから、モテすぎて色々問題が起きたんです」
鈴木さんが続ける。
「咲子さんが出ていったのは、鯉一がスクールの生徒さんと出歩いてばかりで、発達障害のリュウを咲子さんだけに押し付けていたからなんですよ。咲子さんが悪いんじゃない」
鈴木さんは、冷静な目でものを見ている。
「妻は、いまだに咲子さんを恨んでいるけど、私は感謝しているんだ。咲子さんがすぐに次のお相手の子を妊娠してくれたから、私がお願いに行って、こちらでリュウを引き取ることができたんです。良かったんですよ、これで」
いろいろある、誰にでも、いろいろあるのだ。また、私の胸がいっぱいになった。
その一週間後の日曜日、すっかり足場が外れたお隣に、また那須ストーブのハイラックスが来た。今日は、薪ストーブの搬入だろう。遠慮せずに野次馬をすることとした。
私から声をかけた。
「こんにちは」
鈴木さんが答えて、
「今日はストーブの搬入ですよ」
ピンポン。
ちょっと遅れて、荷台に薪をいっぱい積んだ軽トラックも来た。鯉ちゃんだ。思わず笑顔になる。
鯉ちゃん、
「片山さん、今日もおきれいですね」
だからアンタは罪作りなんだよ。
私、正直に、
「どんな薪ストーブかなって、野次馬に来たんです」
鯉ちゃん、
「いいものですよ」
やった。早く暖めようとするなら鋼板製、じっくり暖かさを保つなら鋳物製でしょう。こちらも、結構勉強しています。
ハイラックスの荷台に、小ぶりの段ボールの箱があり、使い古した毛布の上に載っている。まず、鈴木さんと鯉ちゃんが、二人がかりで隣に載っていた黄色のごっつい台車を地面に降ろす。油圧式ポンプで台車の荷台の高さをハイラックスの荷台に合わせる。
鯉ちゃん、
「すっごく重いんですよ」
と言いながら、二人で毛布を引きずり、段ボールを台車の荷台の真ん中にぴったり載せた。
鈴木さん、
「この大きさでも、アップライトピアノより重いんですよ」
台車の荷台を低くしてから、地面に二列に鉄板を敷いてキャスターが転がる道を作って、慎重にゆっくり移動させる。建物の居間の掃き出し窓の外側で、一旦台車を止めて梱包を開けた。なんと、薄水色のきれいな石製のストーブが出てきた。
鈴木さん、
「ソープストーンのストーブですよ。暖かさが長持ちする最高級品です。うちからは年に一つぐらいしか出ません」
開いた段ボールをよく見ると、新屋礼治様と小さくメモしてある。えっ、まさか。シンレイ先生の本名だ。
こんな珍しい名前はシンレイ先生しかいない。シンレイは、彼が皆にそう呼んでくれと言っている愛称だ。インターン時代に深夜零時まで働く男と言われ、先輩にシンレイと名付けられてから、気に入って使っているとのことだった。彼は名刺にまでシンレイの愛称を入れている。
その時、後ろにタクシーが止まった。ええっ。シンレイ先生が降りてくる。お嬢様のマーガレットさんも一緒だ。
シンレイ先生の大きな明るい声。
「片山さん、おはよう。皆さん準備早いですね。マーガレット、鍵開けてあげて」
マーガレットさんが、玄関の鍵を開けて家に入り、居間の掃き出し窓を開け放った。
鈴木さんたちの慎重な作業で、ソープストーン製ストーブが運び込まれた。居間に作ってあったレンガ造りの炉台の上にストーブが設置され、天井から垂れている黒く太い煙突が差し込まれる。完璧な作業だ。
鈴木さん、
「これから火入れをしますよ」
先生が、
「片山さんも入って」
私、
「まさか先生が隣の住人になるなんて」
鈴木さん、
「鈴子が言ってなかったですか」
なるほど、スースーも先生も、私に内緒にしてたのか。
家の中のデザインは、我が家とよく似ていた。玄関から入った真ん中に広い廊下があり、左がリビングダイニングにカウンターキッチン。左奥がお風呂場。廊下の右に寝室が三部屋。天井がともかく高い。我が家は、廊下の左にリビングとカウンターキッチン、廊下の右に広めの寝室一つと右奥がお風呂場で、小さくてシンプル。
鯉ちゃんが薪を運び入れて、さっそく鈴木さんによる火入れと説明があった。暖まるのに二時間はかかること、その後は少しの薪で長く暖かさが保てるので、冬の間はともかく火を絶やさず、燃やし続けるのがおすすめだとのこと。誰かが、いつも家に居続けると言うことだろうか。
ストーブが美しいだけではなくて、大きなガラス扉から見える炎はメラメラとまぶしく揺れ動き、なおのこと美しい。火が燃えだして三十分たっても、ストーブの石の壁は、まだほんのりと温かいだけだった。我が家のペレットなら三十分で三百度近くにはなっている。確かにスースーの言う通り、私にはペレットがぴったりだ。結局、シンレイ先生の一人暮らしは終わるということか。
玄関がガラリと開いて、ハローと大きな声が聞こえた。白人女性が現れた。奥様だろう。タミーヒルフィガーのゴルフウェアがよく似合う、手脚の長い美人だ。
シンレイ先生が紹介する。
「妻のキャロルです」
そうでしたか。
ナイストゥーミーチューと鈴木さん、鯉ちゃん、私に握手をしてから、マーガレットとシンレイ先生にハグをした。
キャロルさん、
「炎がきれいね」
と急にネイティブの日本語で。続けて、
「日本生まれ、メイドインジャパンですからご心配なく。高校は台湾、大学はハワイですけど、それ以外はずうっと日本ですから」
と自己紹介。なるほどね。
シンレイ先生、
「片山さん、今日から妻とこの家で暮らすことになるので、よろしくね」
私、
「そうでしたか。よろしくお願いします、こちらこそ」
と答えるしかないでしょう。
驚き、桃の木、山椒の木。
読者の皆様へ
ここまでお読みいただき感謝いたします。
シンレイ先生の本名は新屋礼治でした。
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