第4話 生と死の淵で

 スースーの願いがかなって、秋休み明けからリュウくんが完全に普通クラスに通うこととなった。

 そして我が医院では、シンレイ先生が前立腺がん手術を受けることとなり、医療福祉大の泌尿器科に入院した。短期の入院ということだったが、余裕を持って、医療福祉大から健診センターのいつものバイトに加えて医院にも医師の派遣をしてもらうこととなった。ということで、スースーの化粧が濃くなった。

 シンレイ先生は、月曜夕方に入院して、火曜日に約四時間のダビンチ手術を受けたのだが、翌週の月曜には、これから退院するぞ、と電話が入った。

 午後の診療の始まる二時少し前に、シンレイ先生が笑顔で現れた。

 先生、

「片山さん、心配しなくてもいいよ。ちゃんと紙オムツ付けてるからね、高性能の。なにせまだ、ゆく川の流れは絶えずして、の鴨長明状態だから。彼も前立腺を病んでいたのかな。ハハハハ」

変な想像させないでください。

 一時間ほど先生が健診センターのレントゲンをチェックしたところに、なんとあのフランス人形のような顔の、ちょっとふっくらとした若い女性が、医院に入って来た。

 フランス人形、

「父がいつもお世話になっています。娘のマーガレットです。迎えに来ました」

流暢な日本語だ。えっ、えええ。

 スースーが診察室から出てきて、

「マーガレットちゃん、久しぶり」

続けてスースー、

「お父さんの世話をしに来たのね。偉い。さっ、先生、無理しないで帰ってくださいね」

 スースーにせき立てられて先生は帰って行った。


 私、

「今までずっと、シンレイ先生は独身だと思っていました。家族がいたんですね」

 スースー、

「50歳過ぎてから日本に帰ってきて、20歳若いアメリカ人女性と結婚したみたいよ。会ったことないけど。大宮で英会話教室を開いていて、大学生のお嬢さんが、たまにお父さんの顔を見に来るのよ」

 シンレイ先生の小綺麗できっちりしているところは、独身生活の長い紳士にしか見えない。家庭生活を送っている匂いがないのだ。お嬢さんがいたなんて、驚きだ。


 その翌週の月曜日には、シンレイ先生は通常診療に戻った。

 その日の朝、先生、

「片山さん、言っておくけどもうオムツしてないからね。変な想像しないでよ」

変な想像させないでよ、ですよ。

 先生、続けて、

「バッチリだよ、バッチリ。トイレが、こんなスッキリ済むなんて十年ぶりかな。三輪そうめんが稲庭うどんになったんだぞ」

やめて下さい、そんなたとえ。

 さらに先生、

「こういうときは、悩まずにさっと手術を受けるべきだよ」

失礼ながら、私の参考にはなりません。

 先生、付け足して、

「あっ、そうだ。四時にキッカワ整形の吉川君が診察に来るからね。よろしくね」

はいはい。


 四時前に、痩せてヒョロっと背の高い六十歳ちょっとの男性が現れた。マイナカードで受け付けると、吉川さんであることがわかった。もう患者は他にはいないので、すぐに診察室に入ってもらった。

 リリナのAI文字起こしをチェックする。

 吉川さん、

「私も先生と同じ日に退院できました。入院中も相談したことなんですが、私がこれからも整形外科医院の診療を続けて問題ないかということなんです。自分自身は、入院前と同じように考えられるし、ここ二週間のリハビリで体もほぼ問題なく動くようになりました」

 吉川さんが続ける。

「ただこの一ヶ月間の入院中、最初の十日間は全く意識のない状態でしたから、何かしら重大な機能障害が残っていれば、医師を続けるのは問題かなと思いまして」

 シンレイ先生、

「化膿性中耳炎をこじらせて、脳髄膜炎になったんだったね。意識のない状態というのは、どうだったの、全く記憶が飛んでいるのか、それとも朦朧として部分的に覚えているのか」

 吉川さん、

「長い夢を見ていたような感じです。いわゆる臨死体験に似ているような。だからDMTの研究をなさっていた先生に相談に来たんです」

 シンレイ先生、

「よく私の研究のことを知ってたね。

 私は心肺蘇生で生還した患者の約二割が、いわゆる臨死体験をしたと言っていることに興味を持ってね。心肺蘇生中の患者の血液を分析したり脳波を取ったりいろいろしてみたんだよ。

 結局、低酸素状態の肺が作り出すジメチルトリプタミン、いわゆるDMTが低酸素から脳細胞を守りながら幻覚を引き起こしている、という結論となった。

 もともと、DMTはアマゾンのシャーマンが儀式の前に飲むアヤワスカの成分であることは知られていたし、ハンガリーの精神科医が筋肉注射で幻覚を起こす研究が知られていたんだけれども、臨死体験との関わりの研究の一部をしたのが私なんですよ。

 で、先生は具体的にどのような夢を見ていたのかな」

 吉川さん、

「最初は、真っ暗な泥沼に沈み込んで身動きできないような、二日酔いのような気持ちが悪い状態が何日も続きました」

 吉川さんが続けて、

「その後急に明るい世界にポンと浮かび上がって、この世界よりももっと現実感のある綺麗な風景が見えて、自分がフワッと浮いて、いろいろな景色を眺めました。遠くに真っ白に輝く光の玉のようなものがいつも見えていました。心地よい世界でした」

すごい話しだ。

 さらに吉川さん、

「そこにずうっといるのかなと思っていたら、ある日突然私を呼ぶ妻や息子の声が聞こえて、返事をしよう、返事をしよう、と思ったら、パット目が開いてICUのベッドに寝ている自分に気づいたんです」

意識が戻ってよかった。

 シンレイ先生、

「なるほどね。低酸素状態で分泌されるDMTによる幻覚、いわゆる心肺停止から蘇生された患者の臨死体験と確かに似ている」

 シンレイ先生、続けて、

「ただ吉川さんには低酸素状態がなかったわけだから、肺からはDMTが出ていないと考えられます。

 ニューメキシコ大学のストラスマン教授が、脳底部にある松果体もDMTを作る、という研究をしています。化膿性中耳炎が脳底部に激しい炎症を起こして、松果体が刺激され、DMTが分泌されて、そのような精神的な経験をなさったんでしょうね」

難しい話。相手が医師だと通じるのかな。

 シンレイ先生、

「その後治療が功を奏し、化膿性脳脊髄膜炎が不可逆的な障害を引き起こす前に、回復したんですね。

 あなたは幸運な方だ。ご家族のお祈りが聞き届けられたんですよ」

素晴らしい。

 シンレイ先生、

「ご自分で前と同じように考えられると判断しているわけだから、前と同じように仕事をしていいんじゃないかな」

 シンレイ先生、

「私なんか、車を運転しないけど、運転免許の更新手続きで認知症検査を受けて、なんとか認知症なし。ホッとしてまだ医者やってますよ」

 これだけ難しい話ができるんだから、シンレイ先生、あなたもまだまだ大丈夫ですよ。

 吉川さん、

「ところで先生、私が見たものはあの世とか、天国とか、死後の世界とかなんでしょうか」

 シンレイ先生、

「その質問は、何度も聞かれたものです。白くまぶしく光るものは神様か、とも聞かれる。

 臨死体験を集めて、死後の世界は確かにあると結論づける人がいる。一方、DMT研究が進むと、生きている間の脳の反応に過ぎないのだから、死後の世界の存在は否定された、と短絡的に結論づける人もいる。

 私の答えはね、生者と死者の世界の間にはカーテンがあり、臨死体験も、あなたが見たような昏睡状態での夢の世界も、ぎりぎりカーテンのこっち側で見た景色だ、と言うことかな。

 その景色が、一人一人の脳がカーテンに投影して見たものだと結論づけるのは、どの景色も似すぎていてしっくり来ません。やっぱりカーテンが透明で、そばまで行った人たちが、向こうの景色をのぞき見た、という方が納得できる気もします。

 結局、私にはカーテンの向こうの世界は分からない。ただ、カーテンの向こうにも世界があると信じて、祈りながら生きていますよ。吉川さんのご家族も同じように考えて祈ったのでしょう。そして、祈りは叶えられた」


 リリナが金曜日の午後にやって来た。シンレイ先生が陽気に彼女に話をする。

「十年前から、時間がかかるもんだからね、私は座ってするようになったんだけれども、手術したら、びっくりするほど勢いが良くなってね、ウタカタはかつ消えかつ結びて、になったんだよ。私も方丈記ぐらい書けるかね」

書かないで下さい、先生。下ネタ禁止です。

 ぽつりぽつりと患者が来て、先生とスースーは診察室に消えた。リリナが受付のサーバコンピュータに自分のノートパソコンをつなげて解析を始めた。

 リリナ、

「最近、緑文字減ってきたでしょ。AIがシンレイ先生の算数ジョークぐらいは判断できるようになったのよ。ただあの予測不能の変なたとえは、まだまだ変換できないな」

 私、

「シンレイ先生向けにAI開発して意味があるの。ほかでは応用できないじゃないの」

 リリナ、

「実はね、AI文字起こしはちょっとしたオマケなの。教室でAIドクターを開発をしていて、効率のいい患者との対話の仕方、正確な診断に持って行くまでの上手な会話の研究をしているの。

 すべての項目を細かく患者に入力させて診断するような、非効率で非人間的なシステムじゃ、話にならないでしょ」

 私、

「なるほどね。平成AIを令和AIにするわけね」

「まっ、そういうこと」

リリナが苦笑い。このジョーク、すべったかな。

 リリナ、

「患者とシンレイ先生のやり取りを研究の材料とすること、ちゃんと先生に承諾いただいてますからね。それからここに貼ってある紙を見て」

リリナが待合室に貼った紙を、改めて見てみた。

 表題、AI文字起こし研究にご協力を、の大書の下に、この診療所の患者と医師の会話はすべて記録されます、AI文字起こしの開発とAIドクターの開発の材料となることをご了承下さい、なお個人情報の漏洩や他目的利用はいたしません、と書いてあった。なるほどね。

 リリナ、

「今、私の研究室では、シンレイ先生のようなベテラン医師、十人ぐらいに協力してもらっているの。まだ、内科だけだけどね」


 リリナは、今週末はゆっくりできると言うので、私の家に泊まってもらった。小さなお風呂ではあるが、温泉なのでリリナは大満足だった。夕食はチーズフォンデュにして、白ワインをいただいた。野菜食中心の私と、旺盛な食欲の若いリリナのどっちも満足できる夕食だった。

 翌朝目が覚めると、寒い青空の朝だった。気温はもう十度以下だ。ペレットストーブの火を調節し、トーストを焼き、スクランブルエッグを作って、コーヒーを入れたところにリリナが起きてきた。

 私、

「私のカーディガン羽織な、暖かいから」

 リリナは、神様ありがとう、と短くお祈りしてから、いただきます、と食べ始めた。私が遠の昔に捨てた習慣だ。

 朝食後、二人で散歩することにした。澄んだ秋空で、朝日岳がくっきりと見えた。左隣の茶臼岳と並んで紅葉真っ盛りである。

 リリナ、

「朝日岳がよく見えるね、ここから」

リリナも山の名前を知っていたんだ。

 リリナ、

「だからここに住むことにしたんでしょ」

 私、

「そうなの、山がきれいだからね」

 リリナ、

「そういうことじゃなくて」

えっ、胸騒ぎだ。何かとんでもないことをリリナが言おうとしている。

 私が、

「お地蔵さんでもおがもうか」

と、話をずらそうとすると、リリナ、

「朝日岳でニーちゃんの恋人亡くなったんでしょ、滑落して」

 私の胸がワナワナと震えだした。

「そんなこともあったかしらね」


 リリナが続ける。

「私のお父さんでしょ、本当の」

「えっ」

私の頭が真っ白になる。まさか。

 リリナがキッパリと言う。

「ニーちゃんが私を産んだんでしょ」


 姉のアクアが話したんだろうか、父と母はとっくに亡くなっているし。いや、姉が言うはずがない。

 リリナ、

「アーちゃんから聞いたんじゃないよ。パパもママも過保護すぎるぐらい私を大事にしてくれている」

 リリナ、

「パスポートを取るときに、戸籍を見たら、民法817条の2、ってあったんだよ。特別養子縁組の印だと分かった」

 リリナ、

「そのあと、いろいろ調べてしまった。おじいちゃんチにあったアルバムとか、いろいろ見まくった。私が生まれた当時の新聞記事も」

 結局こういう日が来たのか。

 私、

「よく調べたのね。そのとおりよ。アーちゃんには言ってないでしょ。言わないでね」

 もう話すしかない。私は、ごくりと生唾をのみ込んだ。

「あなたを妊娠したと気づいて、彼に言おうとしたときに起きた事件なの。ショックが大きかった。シングルマザーの彼の母親も、その直後に朝日岳に車で向かって事故死。結局、誰にも言えずに、大学を休学して一人で出産した」

 一生言うつもりのなかった秘密を、私は言ってしまった。

「結婚して十年も子供ができなかったアクア夫婦が、是非にと言って、あなたを育てることになったの」

 堰を切ったように、私の口から言葉が出る。

「あなたのお見通しのとおりよ」

 リリナ、

「ニーちゃん、片山アグニさん、ずうっと大好きだった」

 リリナが急に私をギュッと抱きしめた。170センチの私よりも大きい。姉夫婦はチビだから、背の大きさだけでも分かっていたのかな。私と同じように、リリナもバスケットボールのキャプテンをしていたし。

 私もリリナを抱きしめた。

 この子が生まれた時も、この子のイギリス留学の費用を応援した時も、今日のように、何の後ろめたさも感じずにこの子を抱きしめたことがあったろうか。こうしてこの子を愛していることを隠さずにいられる日が、やっと訪れたのだ。

 リリナはもう一泊して仙台に帰って行った。しばらく私は放心状態の日々を送った。







読者の皆様へ

 ここまでお読みいただき感謝いたします。

 やっと大人の物語になってきました。今後の展開に、乞うご期待です。



 





 

 

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