第2話


 砦の外に出て、外から部屋の前に戻って来た。

 郭嘉かくかはゆっくりと歩きながら、地面の方を見ている。

 逃亡の痕跡を探しているのだ。


 郭嘉が徐庶じょしょを投獄するとは思わなかった。

 徐庶は包み隠さず郭嘉に本音を見せたから、部屋に戻っていろでいいはずだ。

 牢に入れたということは、場合によっては徐庶が砦を出て行動すると見たのだろう。


 つまり郭嘉は言葉では「信頼されていない」と言ったが、

 黄巌こうがんと徐庶の繋がりは、極めて強いと見ている。

 黄巌を助けるためには徐庶は自らの懲罰を顧みず行動すると判断したのだ。


 警戒されているがある意味、徐庶という人間の意志の強さを、郭嘉が感じ始めているのだろうと思う。


 そうであるならば郭嘉に徐庶を助けてほしいと願うのは無理だ。

 彼は説得出来ない。陸議はそう判断した。


 張遼ちょうりょうは涼州の人間に無意味に攻撃を加えることには否定的だった。

 黄巌の身も、司馬懿しばい賈詡かくに対して庇ってくれたこともある。

 

(黄巌さんが本当に単なる涼州の民なら、あの人に助力を頼めたかもしれない)


 だが難しいのは、彼が【馬岱ばたい】ということだ。

 つまり政治的、軍事的に、魏軍に利用価値があるかもしれない。

 しかもこの場合郭嘉は明確に「命は奪わない」と口にしていることから、軍事に関わりある相手では、張遼もさすがに判断は軍師に委ねるはずだ。


 黄巌もそういうことが予想出来たから、多分逃げたのだ。


 賈詡は他愛ない領域のことならば堅苦しく考えないでいてくれるが、馬岱の取り扱いは軍事や対蜀戦線に関わるとなると、さっきのように本腰を入れる。

 黄巌がここに来た当初よりも事態が複雑になってる今では、自由にしてやってくれと言った所で「俺にそれを決める権限はない」とはぐらかされるだろう。

 賈詡も明確に黄巌の命を奪うことが目的ではなく、利用することが望みの最優先ではあると思うが、黄巌があくまでも逆らうなら容赦はしないはずだ。


(黄巌さんが危ない)


 彼は地の利がある。

 涼州の険しい地形も、風のように歩けるし、特に地理を詳細に把握していた。

 だが今は深手を負っている……。


 そして涼州出身の賈詡は、魏軍では最も涼州を熟知した男だった。

 黄巌であっても彼の追撃から逃れるのは困難である。


 砦の壁沿いを歩いていた郭嘉が、立ち止まりあるところで上を見上げていた。

 司馬孚しばふと陸議は顔を見合わせてから、近づいて行く。

 何かあるのかなと司馬孚は上を見上げた。

 陸議りくぎは足下を見た。

 そしてハッとする。

 血だ。

 白い雪の上に少しだが血の跡があった。

 今度こそ上を見上げる。


「どうやら壁伝いにここをよじ登ったようだね」


 郭嘉がそう言うと、司馬孚が驚いた。

「ここをですか? ですが……」


「道具も何も使ってない。所々の石が出た所に足や手を掛けて登って行ったんだろう。

 ……司馬孚殿、申し訳ないが、軍馬が揃ってるか確認してもらって来てくれるかな。

 恐らく黄巌が一頭持ち出してるはずだ。

 全て揃ってるならまだどこかに潜んでるかも。

 私としては大した手間もなく軍医を気絶させ、部屋に籠もったと見せかけて数分のうちにここを自分の力だけでよじ登るほどの身体能力と判断力を持った男が、まだダラダラとこの砦に留まっているとは思わないけれど。

 奪えそうな軍馬がいなかった場合は、日が落ちて闇に身を隠せるようになってから、自分の足で逃げる可能性がないわけではない」


「わ、分かりました。すぐに確認して来ます。軍馬が揃っていたら警戒させます」


 司馬孚が一礼して、駆けて行く。


「さすがは馬超ばちょうの従弟だ。身体能力が高い。とてもそうは見えなかったが武器を持たせても、もしかしたらそれなりに使うのかもしれない。

 徐庶じょしょ君は交戦は危険だと言っていたけれど。あれは馬岱ばたいの実力を知ってのことかも」


「……。」


 押し黙っている陸議に気付き、郭嘉は優しい声で話しかけた。


「心配しないでいい。これで仮に賈詡が手傷を負ったり討ち取られても、私は黄巌こうがん君を責めたり処刑したりはしないよ。賈詡は承知で深追いに行った。普段あれだけ俺は慎重な男だと自慢しておいて、単なる涼州の民でもないと分かってる黄巌相手に遅れを取って殺されるような奴なら、この先戦場では何の役にも立たない。

 それよりは一筋縄ではいかない黄巌君をなんとしても説得して、魏軍の役に立ってもらいたいものだけど。

 

 考え方を逆にしてみよう。

 彼の故郷は臨羌りんきょうだと言っていたね。

 探りを入れるなら馬超や涼州騎馬隊よりも、そっちの方がいい。

 彼は妻帯していない?」


「まだしていないと、聞いています」


「そうか。では妻子はいないわけだね。家族も馬超以外いないと言っていたが……。

 まあ故郷があるなら、それに等しい絆はあるだろう。

 念のため今から臨羌の方に部隊を差し向ける。具体的な村の場所が知りたいからね」


「徐庶さんがそれを話すとは思えません」


 陸議がそう言うと歩き出した郭嘉がもう一度立ち止まり、こちらを振り返って微笑んだ。


「私もそう思うよ」

 陸議は郭嘉を見る。


「――龐徳ほうとく将軍に頼もう。馬岱ばたいを見つけても決して危害は加えないし、村にも手を出すことはないと言えば、きっと張遼ちょうりょう将軍に信頼を置いた彼は話してくれる。そう思わない?」


 少し考えてから、陸議は小さく頷いた。

 郭嘉は一瞬間を置いて、陸議の方に歩いて来た。

 弱いが、雪が降っている。

 少しだけ陸議の肩に積もった雪を、手の甲でそっと避けてやった。


「……君はいい子だね。

 君は心境的には、徐庶にも黄巌にも同情しているけど、自分の立場と使命を忘れて徐庶のように我を失ったりしない。

 見かけよりずっと冷静だし意志の強いひとだ。

 私や賈詡が、今回は馬岱を殺さないと言っていることも、君が信頼してくれているのは伝わって来るよ。

 君の信頼に応えて私も言っておくけれど。

 例え長安に行っても【馬岱】には不自由な暮らしはさせないよ。

 これは軍事的な問題だから人質は取ることにはなるけどね。

 でも馬岱が私たちに逆らわず人質をきちんと出すなら、都だって彼には監視など付けず自由に出歩けるようにする。

 

 馬岱が涼州騎馬隊や馬超の側を、戦を疎んで離れたなら、いずれ涼州の平定において彼の存在が力を発揮することもあるかもしれない。

 魏と、涼州を結ぶ存在になってもらう、そういうことだ。


 色々と考えてることはある。

 馬岱殿を退屈はさせない自信はあるよ」


 陸議の瞳を覗き込んで、郭嘉は笑った。


「さあおいで。こんなところにいたら風邪を引いてしまう。

 君を寝込ませたなんて知られたら、お姉さんを悲しませてしまうよ。

 全てを私と賈詡に任せて、君は部屋でゆっくり今は休んでいて」


 

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