花天月地【第91話 願うということ】

七海ポルカ

第1話


 


 騒がしく響く足音。


 徐庶じょしょはその気配に目覚めた。


 椅子に座ったまま寝ていた彼は目を覚ますと、自分の手が側で眠っている陸伯言りくはくげんの腕に置かれたままになっていたことに気付いた。

 陸議りくぎは静かな表情で眠っていて、また魘されるようなことは無かったらしい。

 安心して眠っているように見えた。

 少しホッとしてそのまましばらく、彼の寝顔を見つめたままになった。



 バン! と扉が合図もなく開かれ、数人の兵が入って来た。


 うとうとしていた徐庶は当然だが、その音にまだ眠っていた陸議と司馬孚しばふも叩き起こされて、驚いた顔をしている。

 徐庶は咄嗟に陸議の腕を押さえていた自分の手を引いた。


 魏兵達は入って来て、部屋全体を見回した。

 そして三人を確認すると何か、怪訝そうな顔を浮かべた。


「あの……皆さん、どうなさったんですか……?」


 司馬孚しばふが不思議そうに尋ねると、入って来た四人の兵は顔を見合わせてから、誤魔化すように身を正した。

 司馬孚が、遠征軍総大将司馬仲達しばちゅうたつの実弟であることは誰もが知っているからだ。


「大変失礼いたしました。こちらの勘違いでありました。失礼致します」


 兵達は出て行くが徐庶は立ち上がった。

 入って来た四人は明らかに徐庶の方を見たのだ。

 何か、徐庶の姿を見つけた時に、そこに彼がいると思わなかったような、そういう驚きの表情を見せた。


「徐庶さん?」


「待って下さい!」


 徐庶は部屋を出て行った兵士達を呼び止めた。

 徐庶に呼び止められた兵達は、やはり気まずそうな顔を浮かべた。


「私に何か用があったのでは?」

「いえ。そのようなことは。我々の単なる勘違いです」


「――では何かあったのですね。話してください」


 司馬孚しばふと陸議も遅れて、部屋を出て来る。


「今は急いでいますので」


 徐庶は直感が働いた。


「私はまだ魏軍の軍師です。砦内で何か起きたなら貴方たちには私に報告する義務がある」


 兵士達は答えに窮したようだった。

 話を聞いていた司馬孚が歩み寄って来る。


「皆さん。話してください。徐庶殿は信頼出来る方です。それに私は司馬将軍の実弟。こちらにおられる陸伯言りくはくげん殿は副官でいらっしゃる。ここに魏軍の敵は一人もいない」


 穏やかな声だがはっきりと司馬孚がそう言うと、兵士達は拱手きょうしゅし控えた。


「はっ。明け方に、砦で療養中の黄巌こうがん殿が逃亡しました。

 黄巌殿は徐庶殿と懇意になさっていたので、もしやこちらに匿われているかと」


風雅ふうがが⁉」


 陸議も驚いた。


「何かの間違いでは……」






「――いや。間違いじゃない」






 兵達が振り返った。


 向こうから、賈詡かく郭嘉かくかがやって来る。


「すぐに馬を出して追え。奴はあの傷だ。そう遠くには行けないはず。

 西の平原を行くほど馬鹿じゃないだろうから、北の林を重点的にな」


「はっ!」


「賈詡殿、郭嘉殿、何故風雅ふうがが……」


「さてな。まあ増やした警備に勘付いたんだろうな。

 勘のいい奴だ。やはり単なる涼州の民ではないというのは本当らしい」


「単なる涼州の民ではないというのは……?」


 司馬孚しばふは尋ねた。

 司馬懿しばいには黄巌が【馬岱ばたい】であるということは報告済みだったので、実弟の司馬孚が知っていても問題ないと判断し、賈詡が答えた。


「あいつは素性を偽っている。本当の名は【馬岱】といって、元涼州連合りょうしゅうれんごうの長だった馬超ばちょうの従弟だ」


「えっ⁉」


 黄巌とも親しく話したことのある司馬孚は驚いた。


「そ、そうなのですか?」


 徐庶は黄巌とは友人だったので、徐庶もそのことを知っているのだろうかと思い、司馬孚は徐庶を見たが、徐庶は彼にしては険しい表情で、賈詡と郭嘉の方を見ている。


「……賈詡殿、何故風雅ふうがに追っ手を差し向けるのですか」


 賈詡は泰然と腕を組んだ。


「そら、逃げたからな」


「彼は元々魏軍の捕虜ではないはず。涼州騎馬隊とも縁を切って久しい。彼は完全に涼州の民です! 砦から去ったのなら追撃する必要は無い」


「あいつが涼州騎馬隊と縁を切ってるかどうかはこれから俺達が判断する。

 もっと言うと俺は涼州を侵攻するのに、あいつを利用したいと考えてる。

 黄巌でも馬岱でも、別にどうでもいい。

 涼州の民であることでも、今の俺達には利用価値があるんでな」


「だが彼は逃げたなら、これ以上魏軍に協力はしたくないという意思表示です!

 追って捕まえても、友好的な協力関係は築けません」


「その場合は【馬岱ばたい】として俺が長安ちょうあんに連れて行くよ。

 別に馬一族の一人だからといって、すぐに処刑したりはしないから安心しな。

 だが場合によっては成都に行った、涼州騎馬隊の牽制に使えるかもしれない。

 利用価値がある限り利用したいんでな。

 覚えておけ。徐元直じょげんちょく

 お前が涼州騎馬隊を南に逃がしたことで、

 尚更俺は逃げた馬岱を捕らえる気が出て来てる。

 俺を怒らせるとこういうことになるってことをな」


 賈詡が徐庶を強く見据えてから、身を翻した。


「地の利じゃあいつが優位だが、俺なら奴を追えるかもしれん。

 どうせ今日祁山に行くつもりだった。そのついでに一駆けしてあいつを連れ戻してやる。

 郭嘉! そいつらのことをちゃんと見ておけよ!」


 去って行く賈詡に軽く手を挙げてから、郭嘉は通路の壁に背を預けた。


「郭嘉殿……」


「君自身が言ってたことだよ。徐庶君。だから理解は出来るだろう。

 賈詡かくは偽られることが大嫌いなんだ。

 彼自身は他人を好きに謀るけどね。

 他愛ないことなら笑って済ませるけど、涼州騎馬隊が馬超と合流して成都入りしたことは、一線を越えてる。

 いずれ必ず定軍山ていぐんざんや涼州平定に彼らは祟るだろう。

 賈詡はそれが許せない。

 過ぎ去ったことはもうどうにも出来ないから賈詡は君の謹慎も解いたけど、黄巌こうがんが逃亡したのは賈詡の逆鱗に触れる行為だ。

 馬超ばちょうは戦場の天才みたいなところがあったけど、従弟の方は勘はあまり良くないみたいだね」


「……」


「安心しなよ。黄巌が例え長安に連れて行かれても、処刑されるようなことだけはどのような差配になろうと、私が食い止めてあげよう。それだけは約束してあげるよ」


「そんな約束……」


 意味が無い。

 長安ちょうあんで命を握られたまま生きることは、自由を愛する黄風雅こうふうがには死にも等しい。


「……ではお願いします。私も風雅を追わせてください。彼を見つけ説得してここへ戻って来ます」


 陸議と司馬孚しばふが驚いた顔をして、徐庶を見た。

 郭嘉は腕を組んだ。


「君が出て行くまでもないよ。賈詡が本気の目をしていた。

 あれは鼻の利く犬だから、きっと無事に彼をここへ連れ戻すさ。戻って来たら話はさせてあげるよ」


 郭嘉かくかは預けていた背を起こして、のんびりした足取りで歩き出す。


「郭嘉殿!」

「! 徐庶さん!」


 思わず、郭嘉の肩に手を伸ばそうとした徐庶に、陸議は声を出して止めていた。


「――、」


 徐庶の手は、郭嘉の肩を掴めなかった。

 届く前に郭嘉が手にした短剣を閃かせて、徐庶の二の腕に押しつけたのだ。

 伸ばしていたら、自ら刃に突き刺さっていただろう。


「私をそういう風に呼び止めていいのは女性だけだ」


 郭嘉が顔は微笑んだまま刃の背を徐庶の皮膚に強く、押し込んで来た。

 はっきりと「黙れ」という郭嘉の意図が伝わっただろうが、徐庶は刃を押し当てられたまま、今は俯かず郭嘉の方を強く見据えて来た。


「お願いします。賈詡殿達が彼を追って仮に風雅ふうがを見つけられたとしても、彼は黙って引きずられて来るようなことはしない。攻撃を加えたら必ず交戦することになる!」


「賈詡だって魏の砦から力ずくで逃走するような男が、声を掛ければ黙って付いて来るなんて思ってないよ」


「風雅は重傷を負っています! 戦えば死ぬかもしれない。利用価値があるから捕らえて自分達で保有するという目的と一致していません。交戦状態になったら双方に犠牲が出る!」


「話の分からない男だな。君は。

 死んだらその時はその時だとはっきり言わなければ伝わらないのか?」


 郭嘉は優しい顔はしていたが、口調は厳しかった。


「そういう生きるか死ぬかという塩梅なら、うちでは賈詡が一番上手くやる。

 それで馬岱が死ぬならその程度の男だったということだ。

 我々は【馬岱ばたい】が欲しいんじゃない。

 馬岱に利用価値があるかどうか、これから長安に連れて行って判断するところだよ。

 だから魏軍は砦で彼に手厚い治療まで施した。

 つまりこれで長安に連れ戻す過程で逃亡した馬岱が死ぬなら、それでも構わない。

 ただ一つ、今回のことで分かったことがある。

 馬超とも涼州騎馬隊とも縁を切っているというのは恐らく本当だ。

 自由を求めて魏の砦から逃げたなら、かつての涼州連合の長である一族とも思えない短慮だからね。虜囚になって尋問を与えられてるというのならまだしも、そうではなかったのだから」


「しかし明らかに見張りを増やして彼を監視させていた。

 自由の身ではない。あれは虜囚にも等しい扱いです」


「君が余程黄風雅に信頼されていなかった面もあるのでは?」


 徐庶は息を飲む。


「君が側にいる限りは下手な手は打たずにいられると、そう信じ切れなかったんだろう。

 彼とは賈詡も私もまだ話してもない。

 ――随分と短気な男だね。

 私が同じ立場だったら逃げるにしても完全に傷が完治してからだ。

 それまでは友好的に魏軍が接して来るのを利用し、関係を築き内情を探るくらいする。

 そうすればいずれ馬超や涼州騎馬隊と合流した時に、有益な情報をもたらせるからね。

 

 あの男はただ逃げた。


 私が賈詡を止めなかったのは現時点でも大分馬岱には興味を失ってるからだ。

 馬岱が連れ戻されようと、私は彼への拷問には意欲的ではないよ。

 あの様子じゃきっと大した情報なんて持ってない。

 この件に私は巻き込まれる気はないんだ。

 よって、これ以上君の話も聞きたくない」


「郭嘉殿、お願いです。風雅ふうがは魏軍に害をもたらす気はない。

 ただ平穏に涼州で暮らしたいだけなんです。どうか私に話をさせて下さい」


「それは賈詡が帰って来たら彼に頼んでよ。賈詡も鬼じゃない。君の態度と説得次第では情けを見せる可能性はある。私に願うより、ずっとね」


 郭嘉は向こうにいた四人ほどの見張りを、手で招いた。

 兵がやって来て、郭嘉に一礼する。

「郭嘉殿。お呼びでしょうか」

「うん。司馬懿殿と賈詡殿には私から報告をしておくから、徐庶君を地下牢に入れておいてくれ」


「!」


「徐庶殿を……、よろしいのですか?」


 兵達は少し戸惑ったようだが、郭嘉は微笑んだ。


黄巌こうがん君を賈詡将軍が連れ戻すまでだから、少しの間だよ。

 以前も徐庶君は密かに砦を抜け出したらしいからね。

 私は同じ轍は踏まないんだよ。

 君も軍師なら、信頼する相手を見誤っては駄目だ。――連れて行け」


 郭嘉は軽く首で徐庶を示した。

 兵達が徐庶の身体を押さえ込む。

 抵抗はしようと思えば出来たが、徐庶はしなかった。

 しても利にはならないからである。

 

 ただ最後まで郭嘉に必死に訴えた。


「郭嘉殿!」


「例え君が私を信じて話したとして。

 私は君をそこまで信じていない」


 郭嘉は連れて行かれる徐庶にすれ違い様、小さな笑みと共に告げた。


 陸議と司馬孚しばふは全く口を挟めず、立ち尽くしている。

 郭嘉は振り返った。


「騒がせて、悪かったね」


 陸議の方を見た。


「昨夜、少し騒ぎがあったと聞いた。

 私の所にいる軍医が落ち着いたとは言っていたけど。

 腕が痛んだらしいね。今は大丈夫かな」


「あ……、はい……。郭嘉殿」


「なに?」


「黄巌さんは……見張りの方がかなりいたと思うんですが、どうやって逃亡したんですか?」


 郭嘉の鶸色の瞳が、不意に明るく輝いた。

 彼は微笑む。


「徐庶より、君の方が余程冷静だ」


「……いえ……何故兵の方達が私たちの部屋にまず来たのかなと……」


「彼の部屋には軍医が出入りして常駐していたんだけどね。

 外の見張りは確かに私が増員させたけど、軍医は元々馬岱と知る前から善意で置いていたものだ。

 馬岱は彼を気絶させて、扉を内から閉めた。

 外の人間がそれに気付いて扉を破ろうとした、数分のうちに窓から出たようなんだ。

 しかし窓の外には雪が積もっていて、逃げたら足跡があるはずなのに、なかった。

 だから数分後扉を破って中に入った兵達が困った挙げ句、馬岱と友人関係である徐庶が逃亡に関わってるのではと思ってここに来たんだ」


「足跡がなかった……?」


「私もおかしいと思ったんだよ。退屈だから今から部屋を見に行くところだ。

 腕が大丈夫なようなら、君も見に来る?」


「はい」


 陸議は迷わず頷いた。

 司馬孚もどうすればいいかと思っていたようだが、陸議が心配で付いて来た。


 黄巌の部屋につくと、本当に寝台は空になっていた。


 破られた扉とそれを塞いでいた椅子と寝台がずれて、転がっている。

 かなり重たいものだ。

 これを一人で動かしたのだろうか。

 黄巌は腹部に刃を突き刺されて重傷だった。

 こんな重いものを動かせば必ず傷は開く。


 郭嘉は窓辺に寄って、陸議を手招いた。


「確かに足跡はないね」


 昨日も雪が夜中に降っていたらしく、一面真っ白のままである。

 数日は降らずに雪が溶けていたのだが、また積もって来た。

 しかし、馬は走れるだろう。


 陸議も窓の外を見てみたが、ここから逃げたなら必ず足跡が付いているはずだがなかった。


 後ろを向くとついこの前、そこに寝そべって笑っていた黄巌を思い出した。


(どうして黄巌さんは逃げたんだろう)


 徐庶が何があっても助けると伝えた矢先だった。

 徐庶を信頼してなかったからだと郭嘉は指摘したが、陸議はそうは思えなかった。

 庵で話していた時のことや、その後の一連の出来事の中で黄巌と徐庶は、立場は異なったがお互いに敬意を持ち、助け合っていた。


 黄巌こうがんは徐庶が力不足だと思って逃げたのではない。



(多分、徐庶さんの負担になりたくなかったからだ)



 自分の為に徐庶が、魏軍に対して望まずして縁が深くなって行くことを、避けたのだと思う。

 自分が魏軍に利用される可能性があると理解し、徐庶の負担になる前に逃げたのだ。

 確かに逃げるなら今しかなかったかもしれない。


「陸議君。おいで。少し外から見てみよう」


 郭嘉がジッと窓の外を見ている陸議を呼んだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る