第7話 テスト期間は悲喜こもごも

6月最終の土曜日。


しずは、珍しく教科書の入ったバックとともに喫茶つむぎのドアを開けた。


「ああ、来週はしずさんのところは前期中間試験ですか。お疲れさまですね」


「それなりには、大丈夫なようにしているつもりだから、焦らなくてもはいいんだけど、やっぱり抜けがあったら困るからおさらいはしないとね」


「え? しずのところも試験前なの?」


ひよりが尋ねる。


「そうよぉ」


しずはいつもの気楽な感じで応えた。


その一言に、ひよりはなんだか悔しくてたまらなかった。


(あんなに余裕そうで……私も、ちゃんとやらなきゃ)


バイトを始めたひよりには、ある程度の成績が求められる。


赤点など以ての外だ。


けれども——バイトに入る前の中間テストは、それはひどいものだった。


(今回もあんなだったら……もう、目も当てられない)


「テスト期間中、帰りも早いから参るよねぇ。いつもの日替わり定食が食べられないもん」


しずがぽつりと言った。


「え、あ。そうか……私も、テスト期間は……バイト、来られないんだ」


今、気付いたひよりだった。


「そういえば、ひよりん。毎日ちゃんと勉強できてるの?」


うっ。

ひよりは言葉が詰まる。


「……できて、ないです」


「あ? マジで?」


「マジです……」


「マジかぁ……」


しずは自分の額をペシッと叩いた。


「学校も学年も違うから、テスト範囲とかわかんないけど──」


「一緒に勉強する?」


「え? え? いいの?」


「いいけど、私も私の勉強があるから教えてあげるとかは無理だよ。それでもいい?」


「願ったりかなったりです〜! 神様仏様しず様〜!!」


マスターが心配そうに口を挟む。


「しずさん。いいんですか? ご自身の勉強もあるのに」


「うん、いいの。一人で勉強してても虚しくなるだけだし」


しずは少し考えてから、ひよりの方へ向き直る。


「えっと……場所、どうしよう? ここって、訳にはいかないよね?」


「あ、ほんとだ」


「うーん……私、一人暮らしだから、うちに来てもらってもいいけど、ひよりん、帰るの大変になっちゃうよね」


(一人暮らしなんだ……やっぱりしずは大人だなぁ)


ひよりが感心していると、マスターが顔を少し歪めて笑った。


「他の方にはOKは絶対に出さないんですが……お勉強会、この店でやるのはどうでしょう。コーヒー三杯付き四時間パック、千円。いかがですか?」


「本当に? いいんですか?」


「数少ない常連さんとバイトさんのために、一肌脱ぎましょう」


「マスター!かっこいい!」


声がぴったり揃って、三人の間に笑いが弾けた。



週が明けた。


しずは試験終わりの昼下がり、翌日の科目の教科書持参で喫茶つむぎに現れ、先日まで予約席の札が置かれていた一番奥のボックス席に座った。


マスターが笑顔で声をかけた。

「守備はいかがですか?」


「もうバッチリ」しずは頼もしい笑顔である。


その数時間後、バイト自体は就労禁止と学校の規則で止められてはいるが、試験期間中のバイト先への立入を禁止するという校則はないことを、確認したひよりは堂々と店に乗り込んだ。


「おお、おかえり。テスト範囲はわかった?」


しずがひよりに問いかける。


「うん。だいぶ広くてびびった」


「え、どこからどこまで?」


ひよりは教科書をそれぞれ出して、ため息とともに範囲を見せる。


「こんな感じなんだよね」


「あ、そうなんだ」


その軽い調子に、勉強って何だっけ……という虚無感が押し寄せるひより。


「ああ、マスターひよりはもうだめです」


「まぁ、落ち着いてください。しずさんもコーヒーいかがですか?」


マスターは淹れたばかりのコーヒーを運んでくれた。


いつもの豆と違っている。


「マスター、いつものブレンドと違いますね」


「今回は中煎りジャマイカとグァテマラのブレンドにしてみました。集中力が高まるそうですよ」


「わぁ!ありがとうございますっ、集中力高まる感じします!」


「え。ひとくち飲んだだけですよね」


しずは、二人のやり取りに何処か安心したような気持ちでいた。


ひよりがバイトに来るようになってからというもの、やはりマスターは、ひよりがいるときは特に、ちょっとだけ楽しそうに見える。



「さあて。いよいよ明日は試験最終日だよ!」


しずが元気よく話す。


かたやひよりは試験勉強追い上げである。


目に見えて萎えているのがわかる。


「……いいなぁ。しずだったら将来すごい人になりそう。私、これ以上はもうだめです」


「将来……か。私、夢とかあんまないんだよね」


「え。どうして?」


しずは困ったようにまぶたを閉じた。


「そう、だね。今はまだ、今だけのことで精一杯かな」


ひよりは納得できないというように首を傾げた。


「ええーっ。学校はすごいとこだし、勉強だってできるし、しずなら何でもなれるとおもう。」とひよりは言葉を切って、続けた。


「あ、学校の先生とか、どう?勉強教えないって行ってた割に、私の勉強結構教えてくれたじゃない。先生いいんじゃない?」


ひよりは無邪気にわらった。


しずの手が、教科書のページを閉じた。


「……帰る」


「え?どうしたの?」


「……私、誰かに未来を語れるほど、ちゃんと生きてないから」


それだけ言って、しずは本当に帰ってしまった。


「……なあに、あれ?」


ひよりは憤慨している。


「……しずさんのプライベートなことだから、ボクの方からは伝えるべきだとは思わないけれど」


しすというお客様がいなくなった店内で、マスターはいつもの口調に戻した。


「……しずさん。一人暮らしって言ってたでしょう」


「ああ、あれ、すんごく羨ましい」


「家族全員、事故で亡くしてもかい?」


「え……?」


マスターの手が、そっとグラスを拭く動きを止めた。


「四年前。ある事故があったんだ。それは大きな事故でね――部活動で他の会場にいたしずさんの応援に駆けつけようと車を走らせていたときに、巻き込まれた事故だった」


「そ……んなの……」


「ご家族は即死だったそうだよ。朝はみんな生きていて、自分だけが生き残る。どれだけの痛みだろう」


ひよりは言葉も出てこない。ひよりの胸に、氷のようなものがすうっと沈んでいく。


「初めてしずさんにあった時は、本当につらそうな顔、してたんだ。でも、日替わり定食、出した時ようやく。泣きながら食べていた顔、今でも忘れられないんだ」


ひよりはすっと涙を落とした。


「……今のは。仕方ないこと、だとは思う。ひよりさんは知らないこと、だから。でも、そんな事があった、それだけは忘れないであげてほしいんだ」


ひよりは、涙を拭きしっかりと頷いた。しずが語らなかった「未来が見えない理由」が、ようやく、わかった気がした。


(次、会った時きちんと謝ろう)



次もその次の日も、しずは喫茶つむぎに現れなかった。


テスト期間中に入ったひよりは、心中それどころではなかったが、なんとか気力を振り絞って答案用紙へシャープペンシルを走らせた。


どの教科も、今まで以上の精度で枠内が埋まっていった。


(本当にしず、教え方うまいんだなぁ)


二教科終えての帰り道。いつものように喫茶つむぎへと向かう。


いつもよりも早い時間だ。


バイトは定期試験期間中は停止中となってはいるが、どうしてかあの空間にいかなければという感覚がある。


辿り着いて、マスターが出してくれるお冷を一杯飲んだ。


カバンから教科書を取り出すと、誰もいない店内で勉強を始めるひよりだった。


中学校の頃から、勉強なんて絶対にしたくないと定期試験の時も山勘で通してきたが、しずに出会って勉強することの楽しさがわかったような気がした。


ーーマスターが、ゴリゴリと音を立てて、コーヒーミルで手挽きをしている。


その時、


「……ただいま」


かすれた声が、雨のあとみたいに店内に落ちた。


しず、だ。


ひよりはボックス席から飛び出すと、まだ入口にいるしずに向かって走り出した。


そして、勢いよく頭を下げた。


「ごめんなさい!私、本当に馬鹿で!よかったら、これからもお友達でいてください!」


「……は?」


しずは面食らったように、一瞬、固まった。


そして、マスターの方を見た。マスターは手を止め、優しく微笑んでいる。


「……そっか」


少しだけ目を伏せて、しずは笑った。


「あの事、マスターから聞いたのね」


しずは首を傾げて、微笑むと頭を下げ続けているひよりの頭にぽんと手のひらを乗せた。


「ひよりとは、これからもずっと友だちだと思ってる」


手をひよりの肩にずらした。


「こちらこそ、私と友達でいてくれる?」


「しず〜」


ひよりは、しずに泣きながら抱きついた。


泣き止んだひよりのもとに、本日の日替わり定食が運ばれてくる。


「鶏の照り焼きと五目炊き込みごはん定食」


甘辛いタレで香ばしく焼き上げた鶏もも肉に、ほんのりと柚子を効かせて。

副菜には、だし香る卵焼きと小松菜のおひたし。

ほかほかの炊き込みごはんには、人参・ごぼう・しめじ・油揚げ・ひじきが彩りよく混ざり合い、噛むたびにじゅわっと旨味が広がります。


お椀には、わかめと豆腐のお味噌汁を。


ほわんと出汁の香り、わかめの香りが鼻をくすぐった。自家製豆腐が柔らかく占めてくれる。


一口味噌汁を口に含んだ、ひよりの目元にまた新しい涙が溢れてくる。


「……ほらほら、泣くのか食べるのかどっちかにしなさい」


テーブルの上のボックスティッシュをしずはひよりに手渡した。


「だって、だって……」


ひよりは声にならない。



その後ひよりは、住宅街その奥へと帰っていくしずと一緒に店を出た。


「あの、しず。本当にこの前はごめんね」


「いいよ。もう気にしてないから。それより、明日もテストでしょ。付き合うから、明日も頑張って!」


ひよりは泣き笑いの顔を見せた。

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