第6話 予約席 片桐様
この頃、雨予報が出るものの雨が一滴も降らない暑い日々が続いていた。
市内南側の区にはかなりの雨量が降っているらしかったが、喫茶つむぎがある区ではまだ雨は落ちてこない。
まだ、6月だというのに連日30度超え。北の大地だからといっても暑すぎる。
喫茶つむぎのエアコンは、稼働中、ずっと小さく唸っている。ちょっとした怪談話のBGMみたいだ、とひよりは思った。
なんなら物理的に室温を下げることも、できないことではない。らしい。どうやってかはわからないが。というか、知りたくは、無い。
学校帰りに通ってくるひよりにとっては、空調管理されている店は、本当のオアシスのようなものだ。
マスターに教わりながら、細々とした店のセッティング方法も学んできた。
喫茶つむぎには現実のお客様が来ることはとても稀なこと。
その代わりと言ってはなんだが、目に見えないお客様が多く滞在している、ようだった。
ひよりにはそこのところはまだまだ、わからないところだが。
目の端、ふとした瞬間。何者かが通り過ぎ……名前を、呼ぶ。
バイトを始めて、一つだけ強く注意されたことがある。
「名前を呼ばれたら、呼んだ人が誰か確認するまで答えないこと」
店員なのだから、呼ばれたら答えないわけいかないと思うので、ひよりはそういうと、理由は言ってはくれなかった。
けれどもマスターはいつになく真顔で言った。
「いいかい。絶対にだ。呼ばれたら、まず“誰が”呼んだのか、確認すること。いいね?」
*
”予約席 片桐様”の札は半月を過ぎてもそのまま一番奥のボックス席に載せられたままだ。
もし、本当に誰かが来るのなら、ホコリをかぶった札が目に入ったらがっかりするだろうと、テーブルを拭くたび、ついでのように予約札も拭いている――そんな自分の行動にも、少し戸惑っていた。
何度か事情を知っているだろうしずにもそれとなく話を聞こうとしたのだが、そのたびにはぐらかされる。
「毎年、こうだよ」としか言ってくれない。
もしかしたら、実際そう、なのかもしれないけれど。
本当に気になるんだ。コレ。
*
翌日。
朝からそれなりの雨が降っている。
どういう原理かはわからないけれど、連日の暑さが落ち着いて、(肌寒いくらいだ)。
いつもは夏服でも暑かったのに、今日は寒い。
火曜日は掃除当番だ。教室の清掃を終えてバイトに向かう。
校舎を出て、いつもの十字路を北に向かう。
そこに、人影があった。
傘を指した初老の男性。
「すみません。ここいらに喫茶店かなにかありますでしょうか」
声は、雨音に混じってもなお、耳に残るほど落ち着いていた。
「あ、あります。私も今向かうところなんです。よかったらご案内しましょう……か?」
喫茶つむぎの方を指で指し示した時、先程の男性がいないことに気付いた。
「え?……えと?あれ?」
そこには自分以外、誰も、いない。
胃がキュってなって、息が詰まって反対に呼吸が荒くなる。
「うわぁ……とうとう、見ちゃった???」
ひよりは、何度も深呼吸を繰り返した。まずは落ち着きが肝心だ。
うん、まずはマスターに。マスターならきっとわかってくれる。
そう、独り言を呟きながら、雨の中急いだ。
*
「……そう。そうだったの。おめでとう」
その言葉には、どこか少し、敬意のようなものが混じっていた。
「おめでとうって……それどころじゃないです。すんごく怖かったんだから」
「……そうだよね。ボクも初めて見た時はほんとに怖かったもの」
「え、マスターもそんな時あったんですね」
「……それはそうだよ。ボクもひよりさんよりもっと心霊アンチだったから」
「でも、今は?」
マスターは人の良さそうな笑顔で笑った。
そんな時、カランとドアベルが一つ音を鳴らした。人影は無い。
「明日、予約席の札外せると思うよ。多分ね」
*
翌日は、からりとこの時季らしい気候が戻ってきたようだ。
湿度もほどほどで気温もちょうどいい。
あの十字路も今日は誰とも会うことなく、通り過ぎた。
本当に昨日のはなんだったんだろう……。
ひよりはまっすぐ店に向かった。
喫茶つむぎの前には、年の頃は三十を超えているだろうか、スーツを着た男性が店の方を見ながら立っていた。
ひよりは訝しげに男性を見たが、そのまま店に向かった。
「あの、すみません。ここって今営業しているんでしょうか?」
「あ。はい。喫茶つむぎ。喫茶店営業していますよ」
「ああ、そうなんだ」
男性は、ひよりのあとについて歩いてきた。
ああ、人だったんだ。って思うのと同時に、珍しいってひよりは思った。
「おはようございます。マスター。お客様ですよ」
「……いらっしゃいませ。ひよりさん。来たばかりで済まないけれど、片桐様の席にお通しお願いします」
「え?」
ひよりが思わず聞き返したとき、男性は首を傾げた。
「……どうして俺の名字知ってるんですか」
男性は驚きつつも、ひよりの案内に従った。
*
席についた片桐様は、ブレンドコーヒーを注文する。
マスターは静かに、けれど神事のような手つきで香り高いコーヒーを丁寧に淹れている。
粉に湯を落とすたび、ほのかに立ち上る香りが、店内の空気に静かに広がっていく。
ひよりは、その間に着替えを済ませてきた。
通常であれば、このあと、清掃に入るが、今日はちょっと大目に見てもらおう。
(……大丈夫、だよね?)
マスターはほんの一瞬だけ、目を合わせたように見えた。
それが「許可」だったかどうかは、結局わからないけど。
マスターの淹れてくれるコーヒーは、本当に美味しいんだよなぁ。
席に運ぶときについついそんなことを考えてしまう。
ひよりは慎重にテーブルにコーヒーカップを置いた。
片桐様は、静かにカップを口に運んだ。
「……美味しいですね」と深い息を一つつく。
「……こんなこと、信じてもらえないとは思うんですけど、聞いてくれますか」
片桐様は声を落として語り始めた。
一週間前、めったに夢を見ないのに突然一昨年亡くなった父親の夢を見たそうだ。
とある喫茶店。探して行ってほしいという取り留めもない夢だった。
店の名前しかわからない。場所もわからない。
起きた瞬間、鮮明な夢の記憶だけがあった。
だけれども、何を?どう探せばいいんだろう。
それから毎日。父の夢を見た。
そして、昨日というか昨晩。
帰宅すると、玄関先に濡れたこうもり傘が一つ立てかけられていた。
けれど、それは自分のものではない。
誰のものかも、置かれた理由もわからない。
そのまま、見て見ぬふりをして家に入った。
その晩も夢を見た。
父は、まるで長年の重荷がほどけたような、柔らかい笑みを浮かべていた。
生前にも、あんな顔を見たことがなかった。
『晴彦!見つけたぞ!ここに行ってくれ!』
夢の中に地図があった。地図には光る点が乗っていた。
キラキラと光る点はこの、喫茶つむぎの場所だった。
「と、いうわけなんです。俺でさえ意味がわからなくて。急にこんな話しされて困ると思いますけど」
「……いいえ。お話しいただけてありがとうございます。一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「あ、はい。どんなこと、でしょうか」
苦虫を噛み潰したような顔で片桐様はマスターを見た。
「……お母様は、何歳の時お亡くなりになりましたか?」
「え。なんで?」
「……晴彦。小さいときに、置いていってごめんなさい。という女性の声が、しています」
「──どうして、俺の名前まで」
「……小学校一年生だったんですね。入学式の時は参加できなかったこと、悔やんでいらっしゃいます」
「──。」片桐様は声にならない声をあげた。
「……数年前、没後のお母様が来店されて、この時期にはずっとお待ちしていたのです」
マスターは、言葉を一度止めると、続けた。
「きっと、ここのコーヒーを気に入るだろうと、仰っていました」
「どう、して。この時期ってわかっていたのですか」
「……本日、お母様の御命日ですよね」
*
数日後の土曜日、花束を抱えた片桐様がまた現れた。
それは、遠目にもわかるほど手入れの行き届いた、白いユリだった。
「よかったら、この花、備えさせてもらってもいいですか。母の好きだった花なんです」
マスターは何も言わずに、ゆっくりと頷いた。
言葉はいらない。すでに、全てが通じていた。
ひよりは、言葉にならない胸のつかえを抱えながら、慌てて倉庫へと駆けた。
手が震えて、花瓶を掴むのにも少し手間取った。
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