第15話

その日、琴子は博物館の中で琴子は手にした小さな温湿度計を見ながら、各展示室を巡回していた。

古い土器や絵画などは湿度の変化に敏感で、毎日2回の計測が義務付けられていた。記録用紙に数値を書き込み、異常値がないかチェックする。

問題がないことを確認し、琴子は次の作業に移る。


収蔵品データベース入力の準備として、在庫確認と状態記録を行うため、保管庫へ向かった。

いつもと同じように、はにわのキーホルダーが揺れる鍵で保管庫を開ける。

いつもの保管庫のにおいがした。

(やっぱり落ち着くなぁ)

琴子はノートとペンを取り出し、確認作業を始めた。




空気が、突然、変わった。




琴子は手を止めた。ペンを持つ指先が微かに震える。


(また……?)


一昨日の面霊の時と同じ、重苦しい気配。

でも今度はもっと濃く、悪意に満ちている。なにか、その悪意が直接琴子に向くような、不思議な感じ……



保管庫の奥から、じわりじわりと黒い霧が立ち上っていた。



「朧(おぼろ)……」

琴子は小さく呟いた。


面霊より上位の怪異である。

霧はゆっくりと人の形を取り始める。

ぼんやりとした輪郭だが、確実に琴子の方を見ている。



琴子は即座に手のひらから札を出し、結界を張った。

だが、狭い保管庫では思うように動けなさそうである。


(颯も結もいない……

私、ひとり……

考えている暇はない)


琴子は手のひらから鈴を出し鈴の音で空気を震わせた。

光がほとばしり、直衣姿の琴子が現れ出た。



――ざわ……ざわ……



次の瞬間、朧は刃の形を取り、ギラリと光る眼を持つ異形となった。呻き声のような音が響く。


(来る!)


「暁ノ祓!」


刀はびゅっうとものすごい風を起こし琴子の頭上を通る。今の力技の祓法は全く効果がなかった。相当なエネルギーがこの刀に宿っている。


(力では……かなわないかもしれない)

圧倒的な力の前で感じる無力感を琴子は本能的に感じた。


(来る!)


「薄羽天舞!」

琴子の美しい声が蝶を生み出す。何千の蝶が一つになり、まるで天を衝くかのような大きな蝶となり、その儚くも美しい祓いで刀のエネルギーを受け流し、刀の目貫を捉える。瞬間、刀は消えた。



「いやぁ、さすがだねぇ、お嬢さん」


突然、男が現れた。禍術師だ。低い笑い声が、頭の奥で響く。ひどい頭痛がする。


「……やはりしるしを持つ人間は違うなぁ。力同士の闘いだと僕に敵わないとわかったみたいだねぇ。そう、僕はものすごぉく強いんでね。」


冷たく笑うその顔は、息をのむほど美しかった。氷のような眼——翡翠のような瞳だ。

銀髪の髪が光る。


「しるしを持つ人間が合わさると、鍵が揃ってしまうんだよねぇ……お嬢さんに恨みはないけれどまぁ」


男は指を鳴らした。ぱちん、と乾いた音が響く。


「羅生門影(らしょうもんえい)!」


羅生門に棲みついた鬼のように、それは影から現れた。

と同時に、琴子は手の中に清鈴杖を握る。



「……ぐ……」

鬼の形をとった朧の腕が清鈴杖を掴む。


(やはり力では負ける……)





——清心流は押し返すのではない――




不意に父の言葉が響く。




そうか――――!




先ほど刀を受け流したように、鬼の力を流し、今度はさらにそこへ香煙ノ式神を呼び起こし、鬼の口に流し込んだ。


鬼の身体の中で煙が塊となり、内側で輝く。衝撃波と共に鬼の身体は内側から消滅し、琴子は後方へ吹き飛ばされた。


銀髪の男はにやりと笑いながらすうーっと姿を消した。


空気が突然軽くなった。



「はぁ……」

琴子はため息をつきながら結界整術を解く。



(鍵が揃ってしまうってなんのことだろう)




琴子はしばらくうずくまって動けなかった。

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