第3話

 ロイドによって「対価を得てまじないを行う行為」を禁止されてしまったマチルダではあるが、皮肉なことにマチルダのまじないを求める人は増える一方だった。

 どうやらマチルダがロイドの恋人になった――ふりであることはまだ余所にばれていないので、そう見える――ことによって、マチルダのまじないの効力が証明されたような形になっているらしい。あのロイド様の恋人になれるなんてさすがは「宮廷のキューピッド」だと。もちろんこれはまじないの結果でも何でもなくて、そのまじないを巡るあれこれの中で、互いがなんとか折り合いをつけた結果でしかないのだが。

 そもそも、ロイドがまじないを売るなと権高に高圧的にマチルダ一人に命じたところで、まじないの需要がなくなるはずもない。人の望みがある限り、ままならない状況がある限り、まじないは求められ続ける。

(それに、私だってまじないから離れるわけにはいかないのだし……)

 恋人のふり契約が――どちらかの申し出がない限り――無期限だとはいっても、本当に無期限で続くわけがない。いつまでもこんな状況が続くわけがないのだから、あっさり切られた時にマチルダのまじないが人々に忘れ去られていては困るのだ。いただいたお金でしばらくは保つにせよ、ずっとそのままというわけにもいかない。

(それまでに充分すぎる額を稼いでおけばいい……? ……いやいやそれを考えては駄目だ……)

 無尽蔵の金袋、それこそ昔話の魔法の袋のようなロイドだが、彼のお金をこんなふうにいただき続けることは不健全だ。

 マチルダにだってなけなしのプライドがある。自負がある。まじないを役立てて、その対価としてお金を頂いてきた経験がある。

 ロイドがそのことを危険視して、それをさせたがらないのは理解できるのだが、いつかどこかできっちりと折り合いをつけなければならない。恋人契約は、それまでの期間限定だと――少なくともマチルダの方は――思っている。

(ロイド様の方も……言葉通りの無期限とは考えておられないはずだわ。ご自身のお立場もあるのだもの。でも、さしあたりの時間を確保して……私と恋人のふりをして……監視以外にいったい、何をたくらんでいるのやら……)

 絶対に何かあるはずだ。マチルダはそう思っている。

 なぜかロイドは恋人のふりと言いつつやけに甘く接してくるし、ドレスもお菓子も目が回るくらい贈ってくれるのだが、ほだされてなるものか。まじないによって対価を得る行為を馬鹿にされたことも、決して忘れはしない。

 そんなわけで、今日もマチルダはまじないの相談を受けている。

 相談者はマチルダと同じ年頃の年齢の貴族令嬢、カトリンだ。ふわふわとした金髪が特徴的でかわいらしい。

「……でも、本当にいいんですか? お代をお受け取りにならないなんて……」

 カトリンが困惑したように言う。マチルダは頷いてみせた。

「お得意様がたへ、今だけのサービスと思っていただければ。その代わり、いつものようにきめ細かな対応はできません。そこをご了承くださるなら」

 お得意様と言いつつ、カトリンからの依頼を受けるのは初めてだ。だが何にせよ、扱いは変えない。これからお得意様になってくれるかもしれないのだし。

 ロイドはあれからマチルダをお茶会や夜会などに伴うようになった。ドレスをオーダーメイドで作るだけでも疲労困憊だったし、マナーや教養や貴族の人間関係などを詰め込んだりしていると、まじないの素材を集めたりする時間が取れない。過去のものを切り崩して使ったり、簡易的なものになったりせざるを得ない。個人個人に合わせた細かい対応をしていられない。

 だが、令嬢はほっとしたように頷いた。

「そういうことでしたら。それでももちろん、効果は疑っておりませんわ。何といってもマチルダ様は、あのロイド様を射止められたのですから」

「あ、あはは……」

 マチルダは笑ってごまかした。まじないで縁ができたというところだけを見れば大きく外れてもいない。良縁というよりも悪縁のたぐいではあるし、まじないが叶ったのではなく目をつけられたという内実はとても話せないが。

 ……なんとなく、彼女の言葉に含みがあるように感じたのだが、気のせいだろうか。心なしか視線でも、値踏みされているような……?

(外見は平凡、財産は雀の涙、爵位は貴族の端くれの端くれみたいな男爵令嬢ごときが、あのロイド様と……? とか思われていそうかも……)

 そうだとしたらその疑いは正しいのだが、説明するわけにはいかない。マチルダは気づかなかったふりで受け流し、笑顔で言った。

「では、これを。あなたにとって、最上の結果になりますように」

 頼まれたまじないを髪飾りにかけ、令嬢に返す。髪に差すと、令嬢はほんのりと頬を染めて微笑んだ。

「ありがとうございます。他ならぬマチルダ様のおまじないですもの、二重に安心ですわ。……きっと効きますわね」

(ん? ……んんん?)

 やっぱりなんだか引っかかる気がして、マチルダは内心で眉を寄せた。それに、二重にというのがどういう意味なのかも分からない。

(どこがどうとは言えないけれど……なんだか引っかかる……)

 その違和感の正体を掴めないでいるうちに、令嬢は「ごきげんよう」と去っていった。


 その違和感のひとつは、早々に解決した。

 ロイドと共に出席した夜会で、カトリンの思い人らしき人を見つけたのだ。まじないをかけた髪飾りを使ってくれている。その彼女が頬を染めて話しかけていた相手は……

(……もしかして、カーティス兄様!?)

 マチルダの父方の従兄、カーティスだった。久しぶりに見かけた彼は穏やかさが増し、いかにも優しげな好青年だ。結婚したという話は聞かないから、まだ独身のはずだ。カトリンが思いを寄せている相手は彼だったらしい。

(なるほど、だから「二重に」ね……)

 マチルダのまじないの効果を信じてくれているというのが一つ。思い人の血縁だからというのがもう一つ。そういうわけだったのだ。

「……どうかしたか?」

 二人のことに気を取られ過ぎていたらしい。そんなマチルダの様子をロイドが見とがめて声をかけた。

 夜会の少し抑えられた照明のもとで見る彼も、相も変わらず美しい。華美ではなくオーソドックスな格好をしているのに、その造形の完璧さが際立っている。睫毛や鼻筋の影の濃さが絶対におかしい。

 かく言うマチルダも、彼の見立てたドレスや侯爵家の侍女の化粧のおかげで見違えるほど化けている。奔放にうねっていたチョコレート色の髪は上品に纏められて飾り櫛で引き立てられ、裾を引くドレスの色合いと調和して、ロイドの隣に立っても逃げ出したくならないくらいにはなっている。並び立つなど無理だし、引き立て役になっている感は否めないが、とりあえず何とか立っていられてはいる。

「いえ……従兄がいたので」

 マチルダは答えた。まじないの依頼主がいたので、とは言えない。

「なるほどな、血縁者か。挨拶してくるか?」

「いえ、大丈夫です。お邪魔のようですし」

 マチルダは首を横に振った。従兄とは特に関係が良くも悪くもない間柄なので、会えて嬉しいと駆け寄って喜ぶようなことはしないし、気を遣って挨拶に行くようなこともしない。近くを通りかかって互いに気づいたら会釈して立ち話を交わすかもしれない、そのくらいの関係性だ。

「そうか……」

 マチルダは何気なく答えたつもりでいたが、ロイドはなぜか、なおもこちらを見ている。

(まさか……何か感づかれた……!?)

 マチルダは心の中で焦りを募らせた。

 実は、カーティスは……マチルダの、初恋の相手なのだ。


「おい、もしかして……」

 ロイドはマチルダに視線を据え、声を低めた。

「話し相手の女性に、まじないをしたのか?」

「そっち!? …………あ」

 口が滑り、ぽろりと余計な言葉が零れた。そういえばロイドはマチルダのまじないが――魔法の力が――見えるのだった。さらに力を籠めれば瞳が淡く光り、まじないをかけた髪飾りも光を纏うはずだが、さすがに人目のあるところではそんなふうにはしていない。

 普段の彼がどのくらいまじないの効果が見えているのか、力を入れずとも見えるものなのか、気にはなったが尋ねている場合ではない。彼が笑顔のままひんやりとした怒気を滲ませはじめたからだ。

 ロイドが少し、距離を詰めてきた。

「そっち、とはどういう意味だろうか。他にまだ何か隠し事があるんだな? 勝手にまじないをしたことについては後でゆっくり問い詰めさせてもらうことにして、まずはそちらについて聞こうか?」

(うわあああしまったあああ…………!)

 マチルダはだらだらと冷や汗を流した。背中が開いているドレスでなくて本当に良かった。悲惨なことになっていたに違いない。

 そのままじりじりと無言の攻防を繰り広げ――マチルダの笑みは引きつっているし、ロイドの笑みはひたすら美しくてひたすら怖い――、押し出されるように無人のバルコニーの手すりに追い詰められ、手すりの柱の装飾に手をついたロイドの腕の中に閉じ込められるような体勢で迫力のある甘い笑みを向けられ、とうとうマチルダは白旗を上げた。

(……申し訳ございませんでした……)

 自分ごときが麗しき侯爵様に隠し事をしようなんておこがましい考えだった。そんな自虐的な諦めとともに一通りのことを白状させられ、ぐったりとしたマチルダは呻いた。

「うう…………」

(どうしてこんな体勢で別の男性への初恋話を白状する羽目になっているの……)

 目の前にいるのが今彼でもなければ、従兄は元彼でもない。どうしてこんな縺れたことになっているのか。ロイドは形の上でだけ今彼ということになっているが、双方ともにそんな気持ちは微塵もないはずだ。……ない、はずだ。

(どきどきすることがないとは言わないけれど……だって仕方ないじゃない!? 免疫のない私に、こんな反則的な美青年が甘く接してくるなんて……!)

 それだけではない。今もそうだが、違う意味でもどきどきひやひやさせられているので、もはや感情がごっちゃになっている。そういえば、美女を惚れさせるなら闘技会を一緒に見るといいなどと言われているそうな。はらはらどきどきの感情と恋情とは近いのだとか何とか。

 それはともかく、そもそも、従兄への初恋は苦い思い出だ。若気の至りと言うには若すぎるというか幼すぎるが、マチルダは彼に対して――とんでもない失敗をしでかした。その戒めで、マチルダは誰にも恋をしないと決めている。

 その初恋の頃はマチルダにまじないを教えてくれた曾祖母も存命だったが、その後しばらくして亡くなってしまった。老衰で、天寿を全うした穏やかな亡くなり方だったが、それでも悲しい記憶として染みついている。幼かったこともあって記憶が色々とおぼろげなのだが、従兄への失恋と曾祖母の逝去は強烈だった。マチルダの失恋と曾祖母の寿命の間には何の関係もないのだが、一連の出来事のように負の感情が刻み込まれている。

 それは幼いマチルダの一方的な片思いだったため、カーティスの側は何も知らないのが不幸中の幸いだ。……こうして今、ロイドに知られて――白状させられて――しまったのだが。

「………………ふうん」

 マチルダを追い詰めて問い詰めておきながら、ロイドは面白くもなさそうに鼻を鳴らした。

「私よりもああいう男がいいのか?」

「小さい頃の話ですってば! どうしてそこで張り合うんです!?」

 軽口をたたき合うと少しだけ調子が戻ってきた。マチルダは深く息を吸った。

 そして気づいたのだが、ロイドの眉が不可解そうに少し寄せられている。広間のカーティスたちの方へ視線を流しながら、何やら腑に落ちない様子になっている。

(……何だろう……? でも、余計なことは聞けない雰囲気だし……)

 別にマチルダの男の趣味を疑われているわけではないだろう。どうも納得できないといったロイドの様子に、マチルダは少しだけ首を傾げ、口をつぐんだ。


 その場ではそれだけで終わったが、後日ロイドはマチルダが勝手にまじないをしたことをきっちりと咎めた。

 だが、契約違反ではない。対価を頂いていないのだから。もちろん彼が何を考えてマチルダにまじないを禁じたのかは理解しているし、今度のことが彼の意向にそむくものだとはマチルダも承知しているが、こちらにも言い分がある。

「今はロイド様が恋人役として私を雇ってくださっていますが、いつまでもこの状態が続くとはとても思えません。私はまじないを売る基盤を失うわけにはいかないし、先祖から受け継いだものを役立てたいし、お金以外にも大切なものがあるんです」

「言い分は分かるのだが……」

 開き直ったマチルダの主張に、ロイドは腑に落ちないといった様子だ。

 そこへ、侯爵家の使用人が絶妙なタイミングでお茶を運んできた。

「ああ、ありがとう。そこへ置いてくれ」

 所作も完璧、茶器の選び方にも工夫が見て取れ、もちろん気配りも完璧。思わずマチルダは言った。

「さすがは侯爵家ですね。使用人の方も行き届いていて」

「そうだろう。代々仕えてくれている者も多いし、教育もしっかりとしている」

 マチルダは意を得たりと頷いた。

「そう、それです。そういうことなんです。彼らは誇りを持って侯爵家で働いている……賃金は大事だけどそののためばかりでなく、そうやって前を向いて生きているんです。人を使う側のロイド様にはぴんと来ないのかもしれませんが」

「……そういうものか」

 ロイドは少し考える顔になり、しかしやはりすぐには納得しがたかったらしい。にやりと笑ってこんなことを言った。

「まあ、君の考えも少しは分かった。……だが、普通はこういう状況になったら、私を籠絡しようと動くものではないか? 金貨一枚どころでなく美味しい思いができると思わないか?」

「…………ロイド様の周りの方と一緒にしないでほしいのですが」

 誘うように色気を滲ませたロイドを半眼で見返し、マチルダは不服さを隠さずに応じた。

 たしかに、お金や地位目当てで彼に近づく女性は多いだろう。マチルダが想像もできないくらいいるのだろう。ロイドはそうした経験のもとで価値観を育ててきたのだろうし、貴族らしい考えだとは思う。

 だがいかんせん、マチルダは小市民なのだ。自分の足で立っていたいのだ。

 マチルダとの価値観の相違について考えあぐねているらしいロイドだったが、ややあって口を開いた。


「じゃあ、互いの価値観を知るためにデートをしよう」

「………………」

 なにが「じゃあ」なのか分からないし、結局そこへ行きつく過程も分からないが、マチルダに拒否権は無い。勝手にまじないをしたことを咎められた直後でもある。

「……お手柔らかにお願いします……」

 マチルダは溜息ひとつで諦め、応じた。


 かくして、相変わらず何を考えているのか分からないがひたすら甘く接してくる彼と、再びのデートと相成った。夜会などに共に出席することは何度もあったが、こうして二人だけで街に出かけるのは二回目だ。

 行き先はもちろんロイドが指定し、馬車に乗った二人は港町に降り立った。王都は山の方なので海は久しぶりだ。マチルダはこの辺りに少し縁があるので慣れてはいるが、ロイドは物珍しげに辺りを見回している。確かに、用がなければわざわざこの辺りまで足を延ばすことはないだろう。王都でほとんどの用が済むのだから。

 マチルダは振り仰ぐようにして尋ねた。

「ロイド様、どこに行きますか?」

「どこでも。君の行きたいところへ」

 ロイドは特にこだわりもなさそうに答えた。

 この港町を選んだのはロイドだというのに、特に見たい場所もないようだ。だったら何故ここを選んだのだろうとは思ったが、蒸し返して藪蛇になるのも避けたい。マチルダは大人しく口をつぐんだ。

 少し土地勘があるので、ロイドを連れて坂を下る。港からほど近い場所に広場があり、そこではたいてい何かしらが行われているので、とりあえずそこに行けばいいだろうとの判断だ。市が出ていたり、祭りがあったり、ちょっとした大会があったりもする。

 広場が近づいてくると、なんだかいい匂いが漂ってきた。

「あ、ロイド様、美味しそうな匂いがします!」

 広場で大きな鍋が焚火にかけられ、熱々のスープが売られている。どうやら豊漁を祝う催しの一環らしく、魚介類をふんだんに入れてスパイスを効かせた郷土料理のスープが安くふるまわれている。スパイスを多用するのは南国との交易が盛んな港町ならではだ。

 いい香りに食欲が刺激され、久しぶりに食べたくなる。この地方に来る機会があると、決まって食べたものだ。

 さすがにこういったものまでロイドに買わせるつもりはない。マチルダは二椀を求め、片方をロイドに渡した。ロイドは戸惑いながら受け取った。

「そこらで売っているものを食べるのか……? 直接……?」

「……喫茶店で普通に飲食していらっしゃいませんでした?」

「ああいった店は規制を守っているし……そもそも立って食べるというのは……」

 なんとなくマチルダは合点がいった。ロイドは買い食いや立ち食いといったものを知らないのだ。貴族なのになじんでいるマチルダがおかしいといえばその通りではあるが、根っからの平民気質はいまさら変えられない。

 マチルダは笑顔で勧めた。

「私は昔から食べていますが、今まで問題があったことはないので大丈夫です。まあまあまあ、騙されたと思って、ぐいっと」

「だから君はなんでいちいち酒飲みみたいな調子になるんだ……」

 ぼやきつつ、案外素直にロイドは口にした。そして目を見開いた。

「……美味しい」

 そのまま、たちまち一杯を空にしてしまう。

「そうでしょう!」

 意を得たりと、マチルダは思わず笑顔になった。それを見たロイドが目を細める。

 家で作るのとは違う、分かりやすい美味しさがこういうところの料理にはあると思う。その場の雰囲気も極上の調味料だ。

「もう一杯買ってきましょうか」

「いや……」

 断ったものの未練がありそうだ。それならとマチルダは何の気なしに自分の椀を差し出した。

「食べかけでよければ…………って失礼しました! つい妹たちと同じようにしてしまって」

「……いいのか?」

 怒っていないらしい。ならばいいいのだが、

(もしかして今こそ、あーんをすべき……?)

 ちらっと思ったが食べる邪魔になりそうなので控えた。餌を食べている犬と一緒にしたら失礼だが、手を出したらうなられそうな気配があったのだ。気のせいなのだろうが。

「……すまない、全部食べてしまった」

 じっと見ていたから誤解されたらしい。いかにもすまなさそうに謝られ、マチルダは首を横に振った。

「いえ、そこまで空腹だったわけではないので大丈夫です。私は食べ慣れていますし、少し味わえれば充分なので」

「でも君は……食べ物に執着があるのだとばかり」

 マチルダは瞬いた。確かにケーキの時は惜しいと思ったのだが、スープは未練なく差し出せた。

(……別に甘いものばかりが好きなわけではないけれど……)

 このスープは高価なものではないが、港町ならではの味付けで、普段は口にできないものだ。確かにもっと惜しく思っても不思議ではないが……

(……ロイド様が、嬉しそうに食べるから)

 喜んでもらえるなら食べてもらおうと自然に思えたのだ。

(…………普段いろいろ頂いているし! こういうときくらいは譲らないとね!)

 彼に喜んでもらいたいからだなんて気のせいだ。マチルダはぶんぶんと首を横に振った。


 辺りは騒がしいほどに賑やかだ。だがその中に子供の泣き声が混ざっているのに気づき、思わずマチルダは辺りを見回した。

 鳴き声の主はすぐに見つかった。どうやらはしゃぎすぎて転んだらしい子供が膝を擦りむいて泣いている。親が近くにいないのか、子供たちだけで来たのか、ともかくも面倒を見る大人はいないらしい。

 マチルダは早足に近づいた。膝をつき、子供と目線を合わせる。

 安心させるようににっこりと笑いかけて言った。

「痛いよね。でも大丈夫。おまじないをしてあげるね」

「え……!?」

 目をぱちくりさせる子供の視線を誘うように人差し指を立て、くるくると回して弾き飛ばすしぐさをしながら唱えた。

「痛いの痛いの、飛んでいけ!」

 唱え終わると、子供は驚いた顔になった。涙も引っ込んだ様子で立ち上がる。

「すごい、いたくない! お姉ちゃんありがとう!」

 さっそくそのまま駆け出そうとする子供を引き留め、マチルダは広場の隅を指した。そちらに水場があり、手を洗えるようになっている。

「痛いのがなくなっても、傷口はちゃんと洗ってね。洗っても痛くないから、大丈夫だからね」

「うん! 分かった!」

 洗っても痛くない、の言葉が効いたらしい。子供は素直に頷いてそちらへ走っていった。

 子供の背中を見送るマチルダの背後に影がさす。

(…………しまった……)

 マチルダはおそるおそる振り返った。案の定、ロイドの姿がそこにあった。そういえば彼のことをすっかり忘れていた。まじないを止められていることも忘れていた。

「……これは、その……」

 焦るマチルダに、ロイドは軽く息をついた。

「……。そのくらいのことを咎めるほど私も狭量ではない」

「すみません……。せめて、一言断ってから行くべきでした」

 悪いことをしたとは思っていないが、彼の意に沿わないことをしたとは思っている。目の前で堂々と自分の意向をないがしろにされたのだから、不愉快になって当たり前だ。

 子供を放っておく選択肢はなかったから、せめて一言、ロイドに断ってから行くべきだった。これくらいのことにも目くじらを立てる人ではないと、もう分かっている。だからこそ、こちらも彼の意向を少しでも尊重する姿勢を見せるべきだったのだ。

 ……それに、まじないをむやみに使うことを危険視する彼の懸念が正しいことも分かっている。

 反省したマチルダに、ロイドは表情をやわらげた。そしてこんなことを言った。

「……まじないも、使う人次第なのだな」

「……ロイド様?」

「君も、そのまじないも、優しいものだと思う。そういったものばかりであれば、魔法の力も害はないと思えるのだが……」

「…………」

 マチルダには何とも答えられない。


(まじないも使う人次第……それはそう。物心つく頃に、私は曾祖母に教わった……)

 幼い頃のおぼろげな記憶だが、まじないのことを色々と教えてもらった。だが、いかんせん幼かったので、あまり覚えていないし理解もしていなかった。成長して文字が読めるようになってから、曾祖母や、さらにその祖先が書き残したものを読んで記憶を補完している部分も多い。

 その曾祖母から、一つだけ、厳しく教えられたことがある。

(それは……)

「そういえば、君はどうしてそんなにお金に執着するんだ?」

 ロイドの声がマチルダの回想を遮った。マチルダは瞬いて意識を現実に引き戻し、答えた。

「お金があれば……できることが増えますから」

 貧乏男爵家のリーランド家では他の貴族のように華やかに着飾って出かけたりすることが少ない。そのことがマチルダはたいして気にならなかったが、すぐ下の妹のアリサは泣いた。「どうしてうちにはきれいなドレスがないの、着られないの」と。

 お金があれば妹たちのしたいこともさせてあげられる。生活も楽になる。ごく幼い頃からそれを実感してしまったせいで、それに加えてまじないの才というお金を稼ぐ手段をも持ち合わせていたせいで、マチルダはこうなった。別にこのことを卑下したり得意に思ったりすることはないが、いまさら変えられるものでもない。

 ついでに言えば、ドレスがないと泣いていた妹は自分で作るようになった。姉妹そろってしたたかに育ったものだ。

 アリサのドレス作りにはいつも助けられている。……服を買いに行く服ではないなどと言われたりもしたが。

 そういったことを――服を買いに行く服云々は措いておいて――簡単に話すと、ロイドは感心したあと、何とも言い難い表情になった。

「……それは……何というか、すごいな……。貴族であれば、今あるお金をどうやって増やそうかと考えるものだが、そもそも元手になるお金がなかった、と」

「平民はこういうものですよ」

「君はいちおう貴族だろう」

 間髪入れずに返したあと、ロイドは息をついて表情を緩めた。

「なんとなく分かってきたと思う。君のことが。根っからの平民気質なんだな」

「……分かってくださってありがとうございます……?」

 なぜだろう、素直に喜べない。その通りではあるのだが。

「ここの活気を見ていても分かる。みんな地に足をつけて生きている感じがするな」

 豊漁を祝っているのは、漁師や商人や、この港町で生きる町人たちだ。みなそれぞれ懸命に生きている。貴族はそんなことを気にしたりしないものだが、ロイドは真剣な、どこか眩しげな眼差しで人々を見ている。

 マチルダは瞬き、思わずしげしげとロイドを見てしまった。

(…………悪い人ではない、というか、実はけっこう柔軟でいい人なのでは……? 責任感も強いみたいだし……)

 いくら王国の忠臣とはいえ、魔法やら魔女やらなど訳の分からないものから王国や王家を代々守ってきたというのは、貧乏籤に近いところがあるのではないだろうか。その引き換えとして地位や名誉があるのだろうが、今回のマチルダのことも、彼が何も言わなければ発覚しなかったはずだ。気づかなかったふりを決め込んで貰うものだけ貰っておくこともできたはずだが、彼はそうしなかった。マチルダと接触をはかって、きちんと見定めて、対応しようとしている。

(貴族の義務とか、矜持とか……そういうものもありそうね……。……末端貴族の私にはちょっと分からない領域のことだけど……)

 きっと彼は根っからの貴族なのだ。持てる者の義務を、当たり前のように果たそうとしている。だけど、だからこそ、相容れないとまでは思わない。彼は彼で筋の通った考え方をしているし、悪い人ではない。

 そんなロイドが苦笑して言った。

「……しかし困ったな、君のそういうところが可愛い」

「悪い人ではなくて悪い男だとか、そういことですか!?」

「いきなり何だ!?」

 心の声が出てしまい、ロイドが怪訝そうな声を出した。だがこういう反応になっても仕方ないと思う。そちらこそ、いきなり何を言い出すのか。

「いや本当に、困っている。君が意外すぎるほどいい子だから、心が揺らいでいる。惑わされそうだ」

「お気を確かに!?」

「……それはこういう場面で使う表現ではないと思うのだが……」

 ロイドの苦笑が深まった。そんな表情であっても、いちいち絵になる。

(困っているのは……こちらも同じよ!?)

 妙に甘く接してきたり、かと思えば自然体でからかってきたり、いろいろと揺さぶられている。社交界では彼の洗練されすぎたエスコートが心地よくさえ感じてしまって怖いし、かと思えば今日のようにマチルダにいろいろと任せてくれることもある。何でもかんでも主導権を握ろうとしない、自然体で肩の力の抜けた鷹揚さは彼の余裕によるものなのだろう。

 しかもこんな、意味深なことを言ってきたりもする。真に受けたりはしないが……少しだけ、彼の本音を感じ取れないこともない。ほんの……少しだけ。

(でも……駄目)

 マチルダは恋をしないと決めている。

 恋をすることを、自分に許さないと決めている。


 もちろんマチルダのそんな内心をロイドが知るはずもない。不意に沸き起こった歓声に彼の注意が逸れた。

 マチルダも釣られてそちらへ目をやると、何やら色々と見世物をやっているらしい。手品師が何もないところから花束を出したらしく、わっと観客が沸く。手品師はさらにその上にスカーフを掛け、観客が注目したのを見計らってスカーフを取り去った。花束があったはずの手には鳩が留まり、驚いたように羽ばたいた。観客がさらに沸いて歓声を上げる。

 手品師の横には玉乗りがいて、大きな玉に乗りながら器用にジャグリングをしている。そしてさらにその横では人形芝居が行われている。なんとなく人波に押されて歩きながら話すうちに移動していたようで、人が集まる場所に行きついていた。

 せっかくなら何か見ていこうか。声をかけようとロイドを振り仰いだマチルダは、彼が険しい表情になっているのに気づいて驚いた。彼がこんなふうに負の感情をあらわにするところは珍しい。

 彼の視線を辿ると、占い師が水晶玉を前に客の未来を占っているところだった。フードで顔が隠れているし、声もあまり聞こえない。知り合いというわけではなさそうだが……

(……ロイド様がこんなにあからさまに嫌悪感を表情に出すなんて……)

 それこそマチルダに対して、自分はまじないごとが大嫌いだと言い放った時くらいだ。高位貴族ゆえだろう、彼はあまり個人的な好悪の感情を表に出さない。とくに悪感情の方は。礼を失するというのもあるだろうし、弱みを見せないという意味もあるだろう。

 その割にマチルダのことは色々とからかったりしてくるが、それも好悪というより、むしろよけいに本心を見えなくしている気がする。

 それはともかく、占い師のことだ。

「……ロイド様? お顔が怖いのですが」

「……あ? ……ああ、すまない」

 短く謝り、ロイドはこの場を離れようとした。別に反対する理由は無いから引き留めずについていくが、それはそれとして、この態度はどういうことだろうか。

「…………ロイド様?」

 マチルダは圧力をかけた。逸らされたままの視線を捉えようとする。

「仲睦まじい恋人として、隠し事なんてなさいませんよね? 私にあれほど突っ込んでおいて、それはないですよね?」

「君のそれ、わざとか!?」

「?」

 マチルダは首を傾げた。ロイドは「言葉の選び方……」と頭を抱えている。わけがわからない。

 あれほど突っ込みを入れてマチルダの初恋話をあれこれ聞き出しておきながら、自分はだんまりなんて、そうは問屋が卸さない。弱みがあるなら、聞かせてもらおうではないか。

 ロイドは折れた様子で、溜息をついて話し始めた。

「……まあ、そのうち君も知ることになるだろうし、隠せるものでもないから話しておく」

 マチルダは頷き、口を挟まずに聞いた。彼が話すことによると、ロイドが小さいとき、ロイドの母親が怪しげな占い師を贔屓にしており、占いやまじないに傾倒していたのだという。お金を使うだけでは飽き足らず、果てには実生活に影響が出るほどになったそうだ。家族の行動をも制限したり、知識のない領地経営に口を出そうとしたり、行動が目に余るようになり、結局離婚に至ったのだという。当時、社交界では醜聞としてかなり騒がれたのだとか。……もちろんマチルダは年齢的にも、末端貴族という立場的にも、その話を聞いたことがなかったのだが。きっとロイドが当主として優秀すぎるせいで風評が薄れているのだろう。

 ……それにしても、そこに至るまで……さぞかし大変だっただろう。いくらロイドとはいえ子供だったのだし、頼るべき母親がそうなってしまい、果てには離婚まで至ってしまうとは。

 貴族は平民よりも離婚する者の割合が低い。それは結婚が人どうしというよりも家どうしの結びつきであるためで、気が合わない場合も離婚はせずにお互い愛人を作るなどして婚姻関係自体は維持していく場合が多い。その道を選ばずに離婚に至ったということは、相当なことだ。

 まして、侯爵家の話だ。アルバラ侯爵家それ自体だけの問題ではなく、妻の側の家にも影響は及んだだろうし、周囲も大変だったことだろう。そんな中で子供だったロイドにどんな視線が向けられたか、どんな重圧がかかったか、想像することすらできない。

 もしかすると、彼がまだ独身を保ってなかなか結婚しないどころか婚約者さえいないのは、そうした経験が尾を引いているせいなのかもしれない。

(……それは……私には、想像もつかない……。……下手なことも、言えない……)

「………………」

 マチルダは言葉が見つからない。彼がまじないを憎んでいたのは、そうした過去の経験があったからなのだ。

 ロイドは重い口調で言った。

「そうした迷信は人を狂わせる。しかも迷信は……力を持つことさえある。でたらめなまじないが魔の力を帯び、人の心の隙間に忍び込み……現実的な力をふるうことさえある。無害な迷信なんて無いんだ。そこにあるのは、有害な実際の力か、まだ力を持つに至っていない虚構。そのどちらかだ」

 しかも、とロイドは言葉を続けた。

「そうしたまがいものに紛れて、中には君のまじないのような本物もある。君ほどではないが多少なりとも魔法の力を持つ者もいる。ついでに、野心のある者もいる……侯爵家の力を目当てに寄ってくるような」

「…………それは……確かに、厄介ですね……」

 実際にそうした者が侯爵家の権力を狙ってきたことがありそうな口ぶりだ。もしかすると、母親が傾倒していたという占い師がそうした野心家だったのかもしれない。それはまじないにもいい思い出がないわけだ。

 マチルダは野心家ではないが、ロイドに思いを寄せる女性たちにもまじないを施してきている。彼の心を変えるようなものではないが、お近づきになれるようにとかけたまじないがロイドにとっては鬱陶しく厄介なものであった可能性は否めない。

 実母は占い師に傾倒して身を滅ぼした過去があり、自身には「宮廷のキューピッド」によるまじないのために煩わしいことが増え……それは怒りたくもなるだろう。実際にマチルダの魔女の力を目にして、対処しないといけないと苛立ったりもしただろう。

(うーん……事情を聞いてしまうと申し訳なくなってきてしまうわ……)

 最初はただただ失礼で傲慢で顔と家柄と財産だけが取柄の者だと思ってきたが、彼は彼で色々と抱えていたのだ。

 彼の立場を考えれば、マチルダに対する態度はかなり抑制的で融通の利いたものである気がする。頭ごなしの傲慢さも、最初よりは反発も少なく理解できてくる気がする。

 王国を脅かしかねない魔女の力。それに監視者として関わらざるを得ない立場。個人的な事情で関わりたくないなどと我儘が言えるはずもなく……

(……それなのに、これだけわざとらしく甘い態度を取ってくるのってやっぱり色々おかしいわね!?)

 ロイドがマチルダに一目惚れをしたなどという万が一にも有り得そうもない事情がない限り、絶対なにか意図があってのものだと思うのだが。

「あの……ええと…………」

 何をどう言ったらいいか分からないままにマチルダが口を開きかける。そこへロイドが待ったをかけた。

「この話はいったん終わりだ。今さら過去が変わるわけでもないし、説明が済んだ以上、無駄に話していても意味がない。それより」

 彼は唐突に話を変えた。


「私が君を恋人役にしたのは、まだ結婚するつもりがないからだ。いずれはしないといけないにせよ急ぐ理由はないし、下手なところと縁を繋ぐわけにもいかない。だから家格に差があってあまり結婚が現実的と思われない君の立場が都合がよかった。結婚につながりにくい、かりそめの恋人として」

 いきなり何を、と思ったがマチルダはそのまま大人しく話を聞く。ロイドは続けた。

「それに実際、困っていたんだ。私が独身だから、熱心に自身を売り込んでこようとする令嬢が何人もいる。それを角を立てず断れるように弾除けが欲しかったんだ」

 黙って聞いていたマチルダも、これはさすがに突っ込まざるを得なかった。

「いま、弾除けって仰いました!? 恋人って私が知らないだけで防具か何かだったの!? 被弾するこちらの身にもなってほしいのだけど!?」

「金貨一枚で借りられる防具だな」

 大人しく黙っていられなかったマチルダの抗議をさらりと流し、ロイドは数人の名前を挙げた。

 マチルダは瞬いた。その中の一人、カトリンという名前に聞き覚えがある。直近でマチルダがまじないをした令嬢だ。

 依頼を受けて、彼女の髪飾りにまじないを施した。彼女の思い人が、彼女を見てくれますように、というものだ。思い人の視線を惹くように、思い人の目に留まるように、願いを込めて、まじないをかけた。

 無料でできる程度のことを、という制限を自分に課していたので、いつものように思い人の名前を聞いたり、背景事情を聞いたりなどと細かい対応はしていない。個別の事情に合わせず、一般的なまじないを施すにとどめた。

 彼女は夜会でカーティスと親しげに話していたから、まじないは上手くいったと思っていたのだが……そのカトリンが、ロイドに言い寄っていた? 夜会でカーティスに頬を染めて話しかけていたと見えたのは、まさか……カーティスではなく、ロイドを意識していたから? ……ロイドの視線を、感じていたから?

(……確かに……彼女の思い人は誰なのか、確かめなかったけれど……)

 思い返すマチルダに、ロイドが視線を向けるように促す。

「見ろ、カトリン嬢があちらにいる。君はいったい、彼女にどんなまじないをしたんだ?」

 ロイドに促されて見ると、確かに、カーティスと連れ立って歩くカトリンの姿があった。ここはカーティスの家の領地だから彼の姿があることはおかしくないし、カトリンが彼と親しくしているなら一緒に歩いていて不自然なこともないのだが……まじないをして奇遇を引き寄せたのはマチルダだ。

 ここはカーティスの家の領地で、マチルダもだからこそ少し縁があって土地勘もあったりするのだが、まさかここで会うとは。……間違いなく、自分のせいだ。

 彼が唐突にこの話をした理由が分かった。マチルダは納得し、は項垂れて小声で白状した。

「……思い人の目に留まるまじないをしました…………」

「効果は確かだな」

「すみません…………」

 謝りつつ、彼女に対しての違和感を思い出す。何がどうとは言えないが、もやっとしたのだ。

 ロイドの話を聞いて考えついたのは、もしかして彼女がマチルダに対して負の感情を抱いていたのではないかということだ。ロイドを取ってしまった――と見える――マチルダへの嫉妬。

 だが我が事としての恋愛経験に乏しいマチルダには気づけなかった……ありそうだ。

(それもあるかもしれない。でも……それだけではない気がする……)

 それは言語化しようのない感覚だった。根拠も何もなく、だが何かがあるのだと、頭ではなく感覚が訴えていた。

 カトリンは最初からこちらに気づいていたらしい。ロイドの視線が向いたことを察したらしく、一緒に歩いていたカーティスを置いて、こちらへ歩いてきた。

 その姿がいきなり、ぐにゃりと歪んだ。

「!?」

 マチルダは息を呑んだ。目の錯覚だろうかと瞬いてみるが、彼女の姿がゆらいで見えている。目をこすったが、見間違いではなさそうだ。

「えっ!? どういうこと!?」

「……厄介なことになったな」

 驚くマチルダの横で、舌打ちせんばかりにロイドは言い、視線を鋭くした。魔のものを見通す彼の瞳が、淡く光っている。

 カトリンはやはり、様子がおかしい。歩くというより、もはや走っている……というより、跳躍するようにしている。人間のできる動きではない。しかもその体が淡く光っている。ロイドの視線を受けて、魔の部分が存在を主張しているのだ。

「こっちだ!」

 状況についていけずに唖然とするマチルダの手を引き、ロイドは出店のテントが連なる裏側へと駆け出した。人込みから離れる方へと走っていく。カトリンも二人の後を追いかけた。

(何なのこれ!? 何が起こっているの!?)

 マチルダは混乱しながらも必死に走った。今はそんなことを呑気に聞いている場合ではない。呑気に考えている場合でもない。わけもわからず、ただひたすらに足を動かす。

 人間離れしたカトリンの動きだが、広場が騒がしいことや、軽業師たちが見世物を出していることなどに紛れて、そこまで人々の注目を集めずに済んでいるようだ。何かの余興かと思われたか、視線を向ける者はいたが、お祭り特有の空気がうやむやにしてくれた。みな自分が楽しむのに忙しく、なんだか少しくらい妙なことがあっても、適当に自分で理由をつけて納得している。

 しばらく走った後、ロイドはマチルダが息を荒げている様子やカトリンとの距離を確認し、それ以上は逃げられないと判断したらしく足を止めた。人が少ないところまで来られたからというのもありそうだ。

 ロイドはカトリンの方に向き直って身構えつつ、息を整えるマチルダに聞かせるように言った。

「彼女は魔に心を侵されている」

「……っ!?」

 マチルダは息を詰まらせた。彼女が尋常ではない様子であることは分かるが、ロイドが何を言っているのか分からない。混乱するマチルダに、ロイドは説明を加えた。

「警戒すべき対象は……魔は……なにも魔法や魔女ばかりではない。そういった現れ方がすべてではない。魔は人々の心の奥底に潜み、時おり顔を出す。君のように意図的に魔の力を使える者に限らず、誰しもが持っているものだ。それ自体に善悪はないが……言ってしまえば本能を助長するようなものだからな。理性の箍が外れて、攻撃的になったりもするんだ。今回の彼女のように」

(……ああ、それで…………)

 マチルダが彼女に感じていた違和感の正体が分かった、言語化しようのない何とももどかしい感覚……それは彼女の魔に触れたからだったのだ。

 カトリンがゆらりと不自然な動きをする。マチルダはふと思い至り、思わず呟いた。

「……彼女の状況は、もしかして……私が、まじないをしてしまったから……?」


「呼び水になった可能性はあるな」

 ロイドは端的に肯定し、付け加えた。

「だが、君の魔法があろうとなかろうと、無から魔は湧いてこない。彼女の心にはその時すでに魔が顔を覗かせていたんだ。……っ!」

 いきなり、カトリンが飛び掛かってきた。とっさに顔を庇うマチルダをさらに庇うかたちでロイドが腕を交差させた。袖のカフスが輝き、光の盾となって攻撃を防ぐ。魔に対する防具を身につけていたらしい。

 庇われて怪我はなかったが、その拍子にカトリンの体に少し触れ……彼女の心に、触れた。

 どくん、と、どちらのものか分からない心臓の音が鳴る。

 ――いくら見つめても、いくら言葉を交わしても、まったく届かない人への憧れ。その人が恋人だと言って連れ回しているマチルダへの不可解な思い、認めたくない嫉妬。遠回しに近づいてみた、マチルダと縁続きの青年カーティス――

 ――信じていないから今までは依頼しなかった「宮廷のキューピッド」への依頼。笑顔で心を隠すのは得意だ、恋心を悟らせはしなかった、と思う。親身になってくれて、お代もいらないと言われて、効きそうな気がして、少しだけ気が引けて、でも後には退けなくて――

 ――ちょっとした賭けをした。彼女にまじないをかけられた自分と、彼女と、ロイドはどちらを選ぶのか。もしも、彼女を選んだら――

 マチルダを庇って立つロイドに逆上し、カトリンはさらに激しさを増して襲い掛かってきた。

(まずい!)

 彼女の心に触れたマチルダには分かる。自分のものにならないならいっそ、壊してしまえと――魔に侵された心がささやくのを。

 状況の危険性はロイドも正しく認識しているようだった。素早く短剣を構えて対峙する。彼はその役目のためか、魔に対する武器や防具を色々と持っているらしかった。

 それにしても、短剣とは。マチルダは悲鳴のような声を上げた。

「何をするの!?」

「魔を切る。痛みを伴うし後遺症が残る可能性もあるが、こうなったら仕方ない」

「そんな……!」

 ロイドの答えに、マチルダはとっさにカトリンに手を伸ばした。その手が彼女に触れ、光を放つ。何か目に見えないものがせめぎ合っている感覚が体中をかけめぐる。

「魔を以て魔を祓おうとしているのか……!?」

 驚愕するロイドが言う通りなのかもしれない。だがマチルダはいっぱいいっぱいで分からない。何が何だか分からないが、できそうな気がするのだ。彼女の心と一体になってしまった魔を、それだけを引きはがすことが。

(もう少し、もう少しで彼女の心の魔を追い払えそうな気がする……!)

 しかしそこへ、タイミング悪く、声がした。――カーティスの声だ。マチルダを咎めているというより、状況が分からずに説明を求める声をかけただけなのだろう。

「マチルダ!?」

「!?」

 だがその声に、マチルダはびくっと委縮した。関係が良くも悪くもない相手だが、ひたすらタイミングが悪かった。カトリンの心の魔に触れかけたこともあり、マチルダの過去が――苦い思い出となった初恋の時のことが――鮮明に呼び起こされたのだ。

 その隙にカトリンが乱暴に腕を払った。その形相はまだ魔に支配されていることを示すものだ。

「おい、どうした!?」

 ロイドの焦った声から耳をふさぐように、カーティスから目を逸らすように、いやいやをするように、マチルダは耳をふさいで目をつむり、首を強く横に振った。

「……できない、私……人の心を変えるおまじないをしちゃいけないの……大おばあさまに約束したの……」

「どういうことだ!?」

 ロイドは焦った様子を見せつつ、舌足らずな口調になったマチルダに怪訝な顔をした。「時間稼ぎにしかならないが」とカフスのチェーンを使い、一時的にカトリンの動きを止め、マチルダの両肩を掴んで正気づかせようとした。

 マチルダはぼんやりと目を開き、つたない口調で切れ切れに吐露した。

 ――かつてマチルダは、カーティスに対してとんでもない失敗をした。とんでもなく失礼な……してはいけないことをしてしまった。

 彼に淡い恋心を抱き、初恋の彼に、まじないをかけたのだ。彼の心を――自分に向けるように。

 善悪が良く分かっていない幼い子供のまじないだったが、効力を発揮してしまった。カーティスは突如マチルダを大切に扱い始め――その様子が、まじないによるものだと曾祖母に見抜かれたのだ。

 マチルダは、人の心を変えるまじないをしてしまったのだ。

 いま思い出してもいたたまれない。曾祖母はマチルダを厳しく叱り、カーティスにかけられたまじないを解いた。

 具体的にどのように叱られたのかは記憶が曖昧だが、思い出すのを忌避してしまうくらいに堪えた。向けられていた愛情を、大切なものを、すべてなくしてしまう感覚に陥った。

 まじないのせいか叱責のせいかマチルダは具合を悪くして寝込み……やっと治ったとき、心から誓ったのだ。

 もう私は恋をしないと。

 そうでないと、恋をしてしまうと……私はきっとその人の心を求めてしまう。心を操ってまで求めてしまう、と。

 成長し、「宮廷のキューピッド」として依頼を受けていく中で、その思いはさらに強まった。恋に必死になる人々を見て……恐れたのだ。その思いの強さに……いけないことだと分かっていても手を染めてしまう、そんなふうにさせる恋というものを。微笑ましく他人事として距離を置いていた。我が事として考えようとはしていなかった。

「駄目なの、ロイド様が仰ったことは本当なの。私は……私のまじないは、人の心を変えてしまえる。捻じ曲げてしまえる……絶対に、それをしてはいけないのに……」


 人の気持ちや行いを変えさせるようなものは作れない、とマチルダはロイドに言った。

 作れない。作ることができない、ではなく、作ってはいけない。……作ることは、できる。できてしまう。

 そんなことをしてはいけない。

 だからマチルダは、恋をしてはいけない。

 カトリンの心に、恋心に触れて……正気づかせようとするマチルダは、本当に……彼女の心を変えようとしていないと言えるのだろうか? カーティスへの……あるいはロイドへの思いゆえに彼女を疎んじる気持ちがないと……本当に言えるのだろうか?

(駄目、できない……人の心に触れることを、してはならない……)

「……なるほどな」

 項垂れたマチルダに、ロイドが静かな声をかけた。そして唐突に言った。

「今から君に、まじないをかける」

「……?」

 少し顔を上げたマチルダに、ロイドは……その額にそっとキスを落とした。

「…………!?!?!?」

 赤くなって口をぱくぱくさせるマチルダに、ロイドは諭すように言った。

「君は確かに間違えたのかもしれない。だが人間は誰だって間違うものだ。君の場合はできることが大きすぎたから問題も大きかったが、だからといって自分に枷をかけてしまうなど、そんな重荷を負わなくていい」

「でも……! そういうわけにはいかないの……!」

「大丈夫だ、その時は大おばあさまが止めてくださったのだろう? 君が間違いそうになったら、今度は私が止めてあげよう。だから、私に恋をすればいい。恋のまじないをかけてやったから」

「…………!?!?!?!? 思わせぶりな態度はやめて! ずっとそんな態度で……からかっているの!?」

「思わせぶり、な」

 ロイドは苦笑した。

「今から君に懺悔をするのだが、私は君を落とそうとしていた。甘い言葉をかけて思い通りにしようとしていた。そうすれば監視をしやすくなるし、私の言うことを聞いてくれれば魔女の血族の手綱も取りやすくなると思った」

「!?!?!?」

 マチルダは目を白黒させた。彼の態度は確かに、絶対に何かの意図があるとは思った。だがそれは……さすがに、乙女の純情をもてあそびすぎではないだろうか。わりと最低だと思う。

 なのに、そんな彼のことが……嫌えない。

「ほらな、私だって罪深いし、間違える。君ばかりが間違えることを過剰に恐れなくていいんだ」

 ロイドはまっすぐにマチルダの目を見て言った。

「私は君が好きになった。落とすつもりだったのに、君と話したりするのが楽しかった。君の初恋の人がどんな人なのか気になってここに来ようと思ったりもした」

 そこで言葉を切り、

「だから君も私に、恋をしないか? 間違いそうになったらお互いに止め合える、そんな関係にならないか? 大丈夫だ、私は魔にあるていど耐性があるから、君にまじないをかけられても意思を完全になくしたりはしない」

 間違わない、ではなく、間違いそうになったら止め合う……その言葉はマチルダの心の中にすとんと落ち着いた。

 そして――記憶の蓋が完全に開いた。

『…………かわいいマチルダ、ばあばがおまじないをしてあげるからね。ばあばの代わりに、あなたが間違いそうになったら止めてくれる……そんな関係になれる、本当に愛する人に出会えますように……』

 厳しくマチルダを戒めて叱った後で、曾祖母はマチルダに優しくまじないをかけてくれたのだ。

 優しい魔法、魔女のおまじないだ。叶ったその時に、ようやく思い出した……

 マチルダの目から涙があふれた。

「泣いている場合ではないぞ」

 口では戒めながらも、ロイドは優しく涙をぬぐってくれた。

 今のマチルダには、二つの、二人のおまじないがかけられている。ロイドと曾祖母から愛情をもらって、勇気をもらっている。

 だから、向き合える。

 動きを止められていたカトリンが、睦まじい二人の様子を目にしたからだろう、異様な力で戒めを解き、とびかかってきた。

 ロイドがそれを押しとどめ、マチルダを見る。信頼を込めた視線に頷き返し、マチルダは手を伸ばしてカトリンに触れた。

(人の心を変えるまじない……そうではなく、人の心に触れて……魔だけを追い返す……今の私なら、それができるはず……!)

 恣意的に人の心を変えてしまうのではなく、魔に侵された心を取り戻す、そのことだけに注力する。

 依頼人にまじないをかける時と同じだ。決してひとりよがりにはならず、こちらの意思を押し付けることなく、しかしこちらの意思を忘れることもしない。相手にとって最善の結果になるように、後押しをするのだ。

 彼女に触れたときに再び襲ってきた違和感、それを手繰り、まじないをかける時のように力を込めた。

(分かるわ……恋は苦しいし、人を狂わせる。でも……あなたにも、あなたを理解してくれる人がきっといるはずだから……!)

 カトリンの帯びていた光が弱まっていき、揺らいでいた姿が定まっていく。表情もそれこそ憑き物が落ちたかのようにもとに戻っていく。

「……わたくし、いったい……?」

 そんなカトリンにカーティスが心配そうに駆け寄っていく。ロイドの気を引くためにカトリンに利用されていたらしい彼だが、彼の方には情があったのかもしれない。

 彼が彼女の理解者になるのか、それは分からない。マチルダに分かるのは、今、ようやく、マチルダのカーティスへの初恋に片がついたということだけだ。

 ふっきれた表情のマチルダにロイドもふっと表情を緩めた。

「恋人契約を、契約でなくしたいのだが。それだけでなく、監視者もやめだ。協力者にならないか? 君がいれば魔に侵された者を苦しめずに救うことができそうだ。……手当てもしっかり出そう」

 それは、願ってもないことだ。この力を役立てられる。……彼の傍で。

「受けるわ、お金のためだけでなく。……でもいいの? まじないは嫌いだったのでしょう?」

 ロイドは微笑んだ。心からの笑みだった。

「嫌いじゃなくなった。君にまじないをかけられたからかな」



――それはきっと、恋の魔法。

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魔女のおまじない さざれ @sazare220509

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