第1話 赤の大地 前半
左には「記憶」。
中央には「肉体」。
右には「魂」。
三つの札がぶら下がった改札は、どれも心臓の鼓動みたいにわずかに脈動して見えた。
近づくほど、喉の奥に冷たい指を突っ込まれたみたいに呼吸が浅くなる。
そして理解する。
――どれを通っても、俺は何かを差し出す。
最初に脳裏に浮かんだのは「記憶」を選ぶ未来だった。
ここから脱け出すために捧げる記憶を考えた。
たとえば、昨日の晩飯、学生時代の黒歴史をいくつか捧げる程度で済めば……。
でも、本当にそれで済むか?
“記憶”って曖昧な言葉は、たいてい一番大きなものを指す。
祖母が病室で見せた虚ろな瞳を思い出す。
看護師に優しく笑いかけながら、十秒後にはその笑顔を向けた相手を忘れてしまう祖母の横顔。
――記憶が削げた人間は、見た目が残っても“その人”じゃなくなる。
俺は舌を噛む。
ここで“俺”が薄くなるのは、死ぬのと同じだ。
少なくとも、俺にとっては。
次に「肉体」を仮置きする。
指先の皺、胃の重み、靴紐のほどけやすさ。
どれも俗っぽいが、その感覚は現実と俺を縛りつける頑丈な鎖のはずだ。
中学の頃、部活で膝を壊してリハビリ室に通ったことを思い出す。
思い通りにいかない身体に、どれだけ悩まされたか。
――――行動をやめた理屈屋なんて、机に縛られた囚人だ。
肉体を差し出したら、ここから出た先でどうやって生きる?
何を失うかもわかったもんじゃないのに。
ましてやこんな場所で、何がいるかもわからないのに。
今どき、B級映画の設定でも成り立たない。
残るは、「魂」。
曖昧で、測れない。
具体的な痛みの想像が追いつかない。
だからこそ、最も危険だとも言える。
だが、未知であるがゆえに、切り分けが効く可能性もある。
たとえば、財布の中身を小銭から切り崩すみたいに。
大学のゼミで、社会保障の講義にかぶれて「取り返しのつかない損失」と「可逆的な損失」をノートに書き分けていた俺は、今も癖が抜けていない。計算できない損失でも、区分はできる。
記憶は取り返しがつかない。
肉体も、程度次第で取り返しがつかない。
魂は――定義が曖昧なぶん、もしかしたら“薄く削る”余地がある。
理屈の上では、そう思えた。
問題は、心臓の鼓動がうるさすぎて、理屈が紙の上でしか響かないことだ。
俺は唇を噛み、霧の匂いを肺いっぱいに吸い込む。
金属と古紙と、冷えた地下水の混ざった臭い。
怖い。
はっきり言って怖い。
でも、怖いからこそ、選ばなきゃいけない。
――何かを捨てなきゃ、ここから一歩も進めない。
右の改札の札、「魂」がぬらりと揺れた。
まるで、笑ったみたいに。
「……賭けるなら、ここだろ」
自分の声が、霧の中で異様に平たく響いた。
足は勝手に動いた。右の改札へ。
吸い込まれるように、俺は“魂”を通った。
瞬間、胸の奥で何かが外れた。
冷たい針を百本まとめて刺し、そのまま引き抜かれたみたいな鋭い空虚。
肺が一拍遅れて動き、目の前の景色が白くフラッシュする。
膝が笑う。
吐き気が込み上げる。
声を出そうとして、喉が音を忘れる。
――落ちた。
足元がなくなり、世界がひっくり返る。
霧と鉄の匂いが遠のき、代わりに乾いた土の臭いが喉に絡む。
胸の奥の穴はそのまま残り、そこから冷たい風が出入りしているみたいに体温が逃げていく。
立っていた。
赤い大地の上に。
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