第2話 赤の大地 後半
風が吹いた。
熱はないのに、皮膚が焼けるようにひりつく。
地平線まで、鳥居が並んでいた。朱塗りではない。
赤黒く、煤けた色で、等間隔という概念をゆがめたまま無限にならぶ。
砂利の代わりに、赤黒い灰が足首にまとわりつく。
空は低く、雲は泥のように重い。
風音の裏側から聞こえるのは、鈴の破れた音。
――いや、鍵の束がぶつかる音だ。
俺は振り向いた。
そこに“何か”が立っていた。
最初、それは柱の影に見えた。
次に、壊れた案内板に見えた。
だがそのすぐ後に、服の厚みがある“人”だと認識した。
だが、どうやらそれも違うように見えた。
頭の位置には、古びた仮面が浮かんでいる。
顔に貼りついている、ではない。
仮面が顔そのものだった。
ひび割れた白い面。ひびの隙間から、黒い液が落ちていた。
二メートルを超える細長い体は、鳥居の柱と並ぶと区別がつかない。土気色に乾いた肌からは、風に混じって鉄錆のような匂いが漂っていた。
そして、右腕だけが異様に長い。
その手に握られた錆びた鍵束が、鈴のような金属音を立てて揺れていた。
十でも二十でもない、もっと多い。大小さまざま、形の揃わない鍵。
ぶつかるたびに、錆びた金属音が赤い大地を撫でた。
逃げる、という選択肢はここでもう消えていた。
足は地面に縫い付けられたみたいに動かない。
そのかわり、頭は動いた。
“これは敵か?”
“ここで死ぬのか?”
“――それとももう、死んでいるのか?”
思考は暴れながらも、どこか冷静だった。
恐怖を言語に変換しようとするもう一人の俺がいる。
仮面はゆっくりこちらを向いた。
口がある位置に、裂け目のような線が生まれ、そこから掠れ声が漏れる。
「……閉じられたものを、開く鍵。開いたものを、閉じる鍵。……どちらがほしい」
音は音として俺の耳に入らない。
胸の空洞に直接、砂を流し込まれたみたいな“理解”が落ちてくる。
俺は唾を飲み込む。
喉が乾いて、唾が刃物みたいに痛い。
「……どちら、って」
声が出た。
思ったよりも落ち着いていた。
――魂の何割かを置いてきたせいか、動揺が水位線の下に沈んでいる。
「ここはどこだ。俺は、何を閉じて、何を開けばいい」
仮面は答えなかった。
代わりに、鍵束が震えた。キー、キー、と子供が錆びたブランコを揺らすみたいな音。
長い腕が持ち上がる。差し出されるのは、鍵束そのもの。
受け取れ――そう言っている。
何の保証もない。これを握ることで、俺は何を失う?
あるいは、何かを得るのか?
胸の穴が冷たい風を吐く。そこに、別の声が落ちた。
「……足りないものを、集めろ」
俺の耳元で、俺の声が囁いた。
凍った背骨に刃先で触れるみたいな感覚。
振り返ると、俺が立っていた。
車内で窓に映った“俺”と同じ顔。
だが瞳の奥は煤けて、黒い霧で満たされている。
――お前は誰だ、という問いは、答えなくてもわかってしまう。
魂を削った胸の穴から漏れ出した、もうひとつの俺。
削った分だけ、こちら側に立っている。
「足りない?」
俺は自分に問い返すみたいに言った。
「何が足りないんだ。俺の、魂か。それとも、ここから帰るために仲間でも集めなきゃいけないのか」
“俺”は笑った気がした。口元は動かない。
でも、笑いは胸に刺さる。
「数だよ」
掠れ声が、赤い大地に吸い込まれていく。
「ここでは、数が合わないものが、はみ出す。記憶を余らせた者も、肉体を余らせた者も、魂を余らせた者も。……お前は、少し足りなくなった。だから――集めるんだ」
わかったことは、何か巨大な世界の法則に組み込まれたということだけ。いや、それから逃げられなさそうだということも。
ならば――。
俺は前に出た。鍵束へ手を伸ばす。
冷たい。握った瞬間、鍵が一斉に脈打った。
金属なのに、内部に血が通っているみたいに暖かさが移ってくる。
同時に、視界の端が震え、鳥居の列のいくつかが薄く光った。
ひとつは、息絶えかけの蛍みたいな弱い光。
ひとつは、焼ける直前の鉄みたいに赤く熱を持った光。
もうひとつは、氷の礫みたいに白く鋭い光。
鍵束が、それぞれに“合う”鍵を震わせている。
――閉じる鍵。
――開く鍵。
――向きを変える鍵。
俺は問う。
「これは、何のための鍵なんだ」
仮面は沈黙した。だが、長い腕は、俺の手を放さない。
鍵束は俺の掌に溶け、手首に沿って巻きつく。
蛇のように、骨のように。
胸の穴が、わずかに温かい。失った魂の縁が、鍵の形で塞がれる。
そのとき、遠くで鈴の音が響いた。いや、鈴ではない。
鳥居の列の奥を、何かが走る音。
首のない影が、こちらを振り向いた。数体ではない。
列を乱さずに走る軍隊のように、無数。
鍵束が震え、俺の腕ごと持ち上がる。
選べ、という意思が手首から伝わってくる。
閉じて退路を確保するか。開いて誘い出すか。
向きを変えて、別の場所に流すか。
選択の瞬間は、いつだって唐突だ。
心臓が二度、大きく鳴る。
俺は息を吐き、掌にからみついた鍵の重みを受け入れた。
「……ああ、わかった」
俺は鳥居の列を見た。光の強さ、風の向き、影の速度。
無数の情報が線になって繋がる。
「まずは、閉じる」
あんなのに飲み込まれたらひとたまりもない。
鍵束が甲高く鳴った。俺は選んだ一本の鍵を掴み、近くの鳥居の根元に差し込む。
そうすればいいことを、俺はなぜか知っているようだった。
手応えは土ではない。冷たい喉に指を突っ込むみたいな柔らかさ。
鍵はするりと入り、次の瞬間、鳥居全体が低くうなった。
無数の影がいる近くの赤黒い柱が沈み、影がひとつ、ふたつとそれに飲まれていく。
閉じられる、という感覚が、掌から肩、胸、そして空いた穴まで満ちていく。仮面が、初めて声らしい声で囁いた。
「……継承、完了」
俺は鍵束を握り直す。鍵が、俺の骨になった。
赤の大地の風が、少しだけ温かくなった気がした。
だが、影はまだ遠くに無数にいる。
ここは出口じゃない。
――入口をいくつも持った、“数が狂った駅”だ。
俺は、鍵を持った。
なら、やることは決まっている。
鳥居の列の奥で、別の光がまたひとつ、点いた。
そこへ向かって、一歩。
もう一歩。
胸の穴は、まだ冷たい風を通し続けている。
けれど、その風に、少しだけ自分の体温が混ざった。
「行こう」
呟きは、赤黒い空に吸い込まれていった。
鍵束が、小さく鳴った。
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