第16話


 薄暗い階段を駆け下りる。コンクリートを踏みしめるたびに、軽い足音が小さく響いた。はやる気持ちと、やけにうるさい心臓の音に急かされて、足が前へ前へと進んでいく。

 目的地は一階。ルークが襲撃に合ったっていう館長室付近。

 ショウマさんの提案した作戦は、いたってシンプルだった。

 一、私が謎の人物の気を引く。

 二、その間にルークが詐偽の証拠を掴み、退路を確保。

 三、脱出。

 以上、スリーステップ。

「アイツの動きは、やけに素早かった。パワーよりも、技巧とスピード。ミラージュと似たタイプだと思う」

 ルークはそう言っていた。けれど、私には戦闘の心得なんかない。ちゃんと対応しきれるだろうか。正直、不安。

 そこにプラスして、ショウマさんから気になる情報を聞いた。

 ――警備員の姿が見えない。

 薬で寝コケている人たち以外、みんな居なくなってしまったんだとか。それは、ルークが謎の人物Aに襲われるより少し前。私が点検口に登った頃の話らしい。あのとき接近してきた警備員たちは、撤退する途中だったのかも。

 だとしたら、展示室に突入してきた警備員の存在に疑問が残る。

 どうしてあの二人は残っていたのか。何か理由があるはず。うんん。その理由の前に、何が起こっているのか、だ。

 不自然なことが、あまりにも重なりすぎている。その割りに、ネックレスの奪還は計画通りにできたのだから、気味が悪い。

 奇妙な寒気に震える背を壁に付けて、周りの確認をする。

 目的地に到着だ。

 全面ガラス張りの窓からは、美術館自慢の中庭が見える。凝ったデザインの街灯がいくつか灯っていて、その柔らかい光が、フロアにも射し込んでいた。そして、いくつか置かれたテーブルが影を作って、その存在を主張している。

 このエリアはカフェスペースで、紅茶と季節のタルトセットが美味しい。カレンさんいわく、雑誌に取り上げられたこともあるとか。

 日中は穏やかながらも、活気のある場所。今はその面影はないけれど。静まりかえっていて、うすら寒い。知ってるのに、知らない場所みたい。

 ――夜の美術館ってこんなに不気味なんだ。

 今さらだけれど。

 いつか観たホラー映画でこんなシーンがった気がする。いや、あれは美術館じゃなくて博物館だったけ?

 ……どっちでも良いか。こんなときに思い出すことじゃない。

 ところで、謎の人物Aはどこ?

 適当に歩き回ってみる。隠れる必要はないから、堂々と。

 柱やカウンターの陰、テーブルの下まで。思いつく限り探してみたけれど、全然見つからない。とうとう、フロアの端まで来てしまった。

 反対側、かな。とにかく戻ろう。

 きびすを返すと、黒い人影が目の前に立ってた。

 いつの間に!

 急いで相手から距離をとる。

「そんな。カメラには、誰も……」

 ショウマさんの呆然とした声が聞こえた。

 つまり、カメラの死角を移動しつつ、私の後をつけてきたってこと?

 本当にホラー展開だ。

 ジリジリと後退しつつ、相手を観察する。

 身長は多分、170センチくらい。すらりとしたパンツに黒いジャケット。顔は、この暗闇と目深に被ったキャップのせいで見えない。でも体格的に、女性だと思う。

 無造作に突っ立っているように見えて、全く隙がない。ピリピリとした緊張感が、肌に突き刺さる。

 ――怖い。

 顔が見えないせいで、何を考えているのか、読み取れない。足が、震える。

「――ナイトが動き出した。可能な限り、その人の注意を引いて」

 インカムからショウマさんの指示が聞こえてきた。

 返事をする余裕なんかない。

 相手から目を反らさないようにするので、もう精いっぱいだ。

 ――落ち着いて、私。しっかり相手を観察して。

 不意に、相手の体がふわりと揺れた。離れていたはずの距離が一気に詰められる。

 は、速い……!

 女の人は右足にぐっと力を込めた。

 とっさに腕でガードをするも、強力な蹴りにバランスを崩して倒れ込んでしまう。慌てて立ち上がったけど、次々と蹴りを仕掛けてくる。

 すんでの所で避けられてるけど……。これじゃあ、体勢を立て直すことができない。

 加えて、だんだん息も切れてきた。

 極度の緊張と、既に消耗していた体力。そりゃ、限界も来る。

 トン、と壁が体にあたった。もうこれ以上は下がれない

 ――それなら、イチかバチかだ。

 相手の回し蹴りを避ける瞬間、軸足を払う。

「――くっ!」

 だいぶ無理な姿勢からだったけど、だからこそ、不意を突けたみたい。女性はバランスを崩して、床に倒れ込んだ。その隙に、来た道を全力で戻る。

 カフェスペースなら、障害物が多い。距離をとりつつ、時間稼ぎができるはず……!

 チラリと振り返ると、女の人はすごいスピードで私を追いかけてきた。もう体勢を立て直してる。分かってはいたけど、一筋縄じゃいかないか。

 開いていたはずの距離が、ぐんぐん縮められる。

 それでも追い付かれる前にカフェスペースに到着することができた。近くにあったテーブルを飛び越えて、女性と相対する。

 テーブル同士は比較的近くにあって、通路が狭い。つまり、振りの大きい動作はできない。そして、挟んでしまえば、距離を縮めるために何かしらの予備動作が必要になる。

 飛び越えるのか、それとも回り込むか……。

 どちらにしろ、攻撃されるまでの時間稼ぎができるというわけだ。

 それに攻撃も、しっかり見れば捌ききれるって、さっきので分かった。

「ミラージュ。ナイトからの要請だよ。三分、時間を稼いで欲しいみたい」

「任せて」

 額に流れる汗を、人差し指で拭う。

 三分くらいなら、なんとかなりそう。

 うんん。してみせる。

 ふぅと小さく息を吐き出して、体から余計な力を抜く。女性がわずかに身じろぎした。

 来る。

 私はペーパーナプキンのスタンドを手に掴み、中身を足下にぶちまけた。

 そして女性がテーブルを越えてくる直前、別のテーブルの上へと飛び移る。

 うーん。罪悪感。

 クロスがかかってるとはいえ、テーブルの上に登るなんて……。しかも、土足。足跡、ついちゃってるかも。片付ける方、ごめんなさい。

 一方で女の人はというと、着地地点のペーパーナプキンで足を滑らせていた。

 それを横目に、さらにテーブルの上を移動する。その度に、コツリ、コツリと軽やかな音が鳴った。 

 ふふ。飛び石みたい。

 後ろめたさは消えないけれど、これはこれで結構、楽しい。

 女の人もテーブルに上がり、こちらに手を伸ばして、捕まえようとしてくる。

 それをかわして。また、飛び移って。

 スカートのレースがふわふわと踊る。

 体力は限界に近いのに、身体が軽い。猫にでもなった気分。

 一本足のカフェテーブルは、足場としては最悪。動くとグラグラと不安定に揺れる。

 けれどそれすら、スパイスだった。どんどん気持ちが高ぶっていく。

「楽しそうなところ申し訳ないけど、ナイトの脱出が完了した。撤退の時間だよ。非常口に向かって」

 ショウマさんの声が聞こえてきた。

 もう?

 ずいぶんとあっという間。名残惜しいけれど、仕方がないか。

 再び伸ばされた手の下を掻い潜って、テーブルから飛び下りる。すれ違いざま、ふわっとシトラスの香りが鼻をかすめた。

 完全に予想外の動きだったのか、女性の反応が遅れる。

 今だ!

 テーブルクロスを、思いっきり引っ張った。

「いっ……!」

 完全にバランスを崩した女の人は、椅子を巻き込みながら卓上から転げ落ちる。ドン、ガシャン、と大きな音がした。

 うわ、痛そう……。じゃなくて、行かなくちゃ。

 私は非常口へと駆け出した。ダメージを負っているとはいえ、あのスピードは健在のはず。それなら今のうちに、少しでも距離をとりたい。

 暗闇の中を、ひたすらに進む。少しして、追いかけてくる足音が聞こえてきた。でも、振り向いてなんかいられない。ただただ、足を前へ動かし続ける。

 息が上がる。肺が限界を訴えてくる。それでも身体は軽やかだ。

 勢いはそのままに、最後の曲がり角を曲がる。

「ミラージュ!」

 ドアの開いた非常口と、そこから顔を覗かせたルークが視界に入った。

 良かった。本当にケガはしてなそう。

 その姿にホッと胸をなで下ろす。そして、最後の力を振り絞って、スピードを上げる。外へと飛び出すと同時に、ルークが素早く扉を閉めた。

 カシャンと、小さな音がする。

 ショウマさんが遠隔で鍵をかけたみたい。

 扉の向こうから、忙しなくドアノブを回したり、叩いたりする音が響いてくる。

 うわ……。すごく不気味。

 ルークの顔も引きつっている。

 その様子を眺めていると、インカムからカレンさんの声が聞こえてきた。

「お疲れさま、二人とも。周りに人はいないけど、早めにそこから離れて、戻ってきて」

「うん」

「そっちもお疲れ。また後でな」

 通信を切って、ルークと顔を見合わせる。

「――んじゃ、家に帰るか」

 どこか疲れた様なルークの言葉に頷いて、並んで歩き出す。

 冷たい風が、すっかり熱くなった頬を撫でた。

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