第32話
※
付近の海底には、三太君が使っていた500㎖サイズのペットボトルが転がっていて、そのすぐ隣りには、それよりも大きな、2ℓサイズのペットボトルが半分ほど砂に埋まっていた。きっと三太君は砂山へ水をかける行為をより効率的なものにしようと考えて、あのペットボトルを潜って取ろうとした際に、溺れてしまったに違いなかった。
「三太君っ!」
ぼくは三太君を水中から引き上げると、こちらを向かせて両肩を揺すった。まったく反応がない。急いで肩に担いで陸へと戻りながら姉さんに叫ぶ。
「みっちゃん救急車っ! 急いでっ!」
姉さんが慌ててバッグからスマホを取り出して画面をタップする。ぼくは三太君を砂浜の上にあお向けに寝かせると、再び両肩を揺すって大声で名前を呼んだ──何度呼んでみても反応がない。口に手のひらを近づけ、手首を握り、心臓に耳をあてる──呼吸も、脈も、心臓も、完全に停止している状態だった。すぐに人工呼吸をしなければいけない、そう思いながらぼくは、急いで三太君の上にまたがって小さな胸に両手をあてた、でも──
やりかたがわからなかった。
どうすればいいのかがわからなかった。
大まかな方法はわかっていたけれど、間違ったやり方をしてしまい、取り返しのつかない事態に陥ってしまうのが怖かった。
もしかしたらあばらの骨を折ってしまうかもしれない。折れた骨が心臓を突き破ってしまうかもしれない。余計なことをして、助けることのできた命を失ってしまうかもしれない。口から血を流している青ざめた優衣の顔が突如として目の前に浮かび上がる──ぼくは一気に、何もかもが怖くなった。怖くて怖くて、たまらなくなった。全身の力がわずか一瞬のうちに抜けてゆき、背中の皮膚のすぐ下に、冷たい何かがさっと広がってゆく。吐き気と共に込み上げてきた、今にも泣き叫んでしまいたい気持ちを必死で堪えた──そのとき、頭の中にメロディーが響き渡った。
それは耳慣れた、スティービーワンダーのステイ・ゴールドだった。
ステイ・ゴールド?
一体なぜ今、そのメロディーが?
思った直後、それが携帯の着信を知らせるメロディーだということに気が付いた。麻凪からの電話に違いないと思ったぼくは、すぐに携帯の元へと走り、手にとってディスプレイを確かめてからスライドさせた。やはり麻凪からの電話だった。
「もしもし、竺──」
「麻凪っ! 人工呼吸のやり方を教えてくれっ!」
「何なの、いきな──」
「頼むっ! 姉さんの息子が海で溺れて意識がないんだっ! 息が止まってるんだよっ!」
短い沈黙のあとで麻凪が言った。「ほんとに?」
「ああ本当だっ! だから早くしてくれっ!」
「……わかった、わかったからとりあえず落ち着いて。いい?」
答える余裕がなかった。唾を飲み、深呼吸を強引に一つした。ぼくの姿が見えているように麻凪が続ける。「そう、落ち着いて。海で溺れて、意識と呼吸がないんだね?」
「ああそうだ」
「いつ気が付いたの?」
「ついさっきだ」
「心臓も動いてない?」
「動いてない」
「いくつの男の子なの?」
「多分、六歳だったと思う」
「救急車は呼んだ?」
「今南子姉さんが電話してる。なあ麻凪、急いで──」
「いいから答えて」強い口調で麻凪は言った。「その子は今、どこにいるの? 砂浜?」
「砂浜に寝かせてある!」
「すぐ近くに平らで固い場所があるなら、まず男の子をそこに移して、あお向けに寝かせるの。なかったらそのままでいいから。どう、ある?」
見渡すと、少し離れた場所に堤防が見えた。あるよ、とぼくは言った。
「じゃあ落ち着いてそこに移動して。走らずに歩いて。寝かせるときに首を痛めないように注意するんだよ、わかった?」
「わかった!」
ぼくは元の場所に戻って三太君を抱きかかえると、走りたいのを我慢して防波堤を上がり、固い地面の上にあお向けに寝かせた。「寝かせたよ! 次は?!」
「その前に竺の電話、スピーカー機能とか付いてる?」
「多分付いてると思うけど、使い方がわからないよっ!!」たまらずにぼくは尖り声を上げた。
「わかった」あくまでも落ち着いた声で麻凪が応える。それなら電話を近くに置いて、できるかぎり大声でしゃべって。こっちも大声でしゃべるから」
「置いたよ!」ぼくは怒鳴った。「次は?!」
「じゃあ次は、男の子の額を手で押さえながらあごを持ち上げて! 気道を確保するの!」
言われた通りに三太君の額を手で押さえながらあごを持ち上げる。「確保した!」
「そうしたらあごを支えたまま鼻をつまんで、胸が膨らむのを見ながら口から息を吹き込むの! ゆっくりと、二秒くらい!」
指示通りに三太君の鼻をつまんで口を重ね合わせ、ゆっくりと息を吹き込む。小さな胸が、微かに膨らんだのが見えた。
「変化はあった?!」
「何もない! 吹き込んだ息が出てきただけだ!」
「それでいいから! じゃあもう一度同じようにして息を吹き込んで! ゆっくりだよ!」
ぼくはさっきと同じように鼻をつまんで口を重ね、ゆっくりと息を吹き込んだ。
「それが終わったら脈をとってみて! どう、ある?!」
三太君の手首を握りしめた。くそっ、なんて細い手首なんだよとぼくは思った。「ない!」
「じゃあ次は心臓マッサージ! 男の子の横に座っておでこを押さえながら、もう片方の手をみぞおちの骨に合わせて五回、このリズムで強く押すの!」
電話の向こう側で麻凪が一から五までの数字を怒鳴った。ぼくはそのリズムで三太君の胸を強く押した。「だめだ、骨が折れる!」
「折れてもいいからそのまま続けて! どう、変化はあった?!」
「ない! 何もないよ!」
「じゃあまたさっきみたいに人工呼吸をして! 今度は一回! そしてそのあと脈をとって、なければもう一度五回心臓マッサージをするの! わかった?!」
わかったよ! ぼくは怒鳴った。それからもう一度人工呼吸をして脈をとり、五回心臓マッサージをした。電話を終えた姉さんが駆け寄って来て、三太君の名前を叫びながら小さな手のひらを両手で握りしめる。
「だめだ麻凪! なんの反応もない!」
「大丈夫だよ竺! 落ち着いて! さっきと同じ手順をもう一度繰り返すの!」
人工呼吸一回。脈拍チェック。心臓マッサージ五回。麻凪に言われた通り、もう一度ぼくはその手順を繰り返した。
「だめだ!」
「ならもう一度!」
「三太お願い! 目を覚まして!」
人工呼吸一回。脈拍チェック。心臓マッサージ五回。
「反応がない!」
「もう一度!」
「三太!」
人工呼吸一回。脈拍チェック。心臓マッサージ五回。
──優衣、お願いだ。この子を助けてやってくれないか。
だしぬけにぼくは、さっきトンネル越しに見た、三太君の笑顔を思い出した。「だめだ麻凪!」
「もう一度!」
「お願い目を覚まして!」
人工呼吸一回。脈拍チェック。心臓マッサージ五回。
「くそっ! なんの反応もない!」
──なあ優衣、頼むよ。代わりにパパがそっちへ行くから、この子を助けてやってくれ。
「救急車が来るまで続けて竺! 『絶対にあきらめちゃだめ!』」
人工呼吸一回。脈拍チェック。心臓マッサージ五回。
──優衣、お願いだ。
「三太っ!」
人工呼吸一回。脈拍チェック。心臓マッサージ五回。
──どうかこの子を。
人工呼吸一回。脈拍チェック。心臓マッサージ五回。
──『優衣っ!』
どこからか、麻凪とぼくを呼ぶ優衣の声が聞こえたような気がした、その、直後だった。三太君がかっと水を吐き出したと同時に、大きくぎゅっと顔をしかめたのは。
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