第31話
※
ぼくは通話ボタンを押した。「もしもし?」
一呼吸置いてから麻凪が応える。「昨日はごめんなさい」
「おれの方こそ」
昨日がなんの日だったのか思い出したよ、と言おうかと思ったけれど、やめた。代わりにぼくはこう訊ねる。「来る気にはなった?」
「……竺は、どうしてほしいの?」
「麻凪の好きにすればいいよ」
「だったら、やめようかな」
「来ないのかい?」
「だって、来てほしくないんでしょ?」
「そんなこと一言も言ってないよ」
「じゃあ、来てほしい?」
「おいおい、やめてくれよそんな子供じみた訊き方」冗談交じりのつもりで言ったのだけど、予想外にぼくの言葉は辛辣に響いた。訂正しようかどうか迷っている間に麻凪が静かなため息をついた。
「ねえ、竺ってなんで『いつも』、そういう言い方しかできないわけ?」
麻凪の言葉を聞きたくなかったぼくは、電話を一度遠ざけてから耳にあてた。「わかったわかった、じゃあ来てくれよ。お前に来てほしいんだ」
ふざけないで! 麻凪が怒鳴り声を上げ、つられてぼくも怒鳴り返す。やっぱりまた始まってしまったな、と頭の隅でぼんやりと思いながら。
「ふざけてんのはどっちだよ! ドタキャンしたり逆ギレしたり、少しはこっちの身にもなってくれよ! そりゃあ一人で船に乗ってきたことは謝るよ。確かにあれは、少し身勝手な行動だったかもしれない。あと昨日がなんの日だったのか忘れてたことも謝る。でもな、だからってこんな仕打ちはないだろう?」
「別にもうそのことを責めたりはしてないから」
思いがけない麻凪の弱々しい言葉が逆にぼくの感情をエスカレートさせた。
「じゃあ一体何が気に食わないんだ? 言ってくれよ。言ってくれなきゃ何もわからないじゃないか。おれは麻凪が頼りにしてる奴らとは違って占いも予言もできない、ごく普通の人間なんだ」
「言いたくない」麻凪の言葉の温度がグッと下がった。
「ああそうか、わかったよ。だったらそういう思わせぶりな態度をとるのはやめてくれよ。言いたくないんだったら、理解してほしいなんて思わないでくれ。顔や声にも一切出さないでくれ。なんにも言わないくせに、誰もわたしをわかってくれないなんて顔をして、悲劇のヒロインぶるのはもういい加減にしてくれ!」
「……わたしのこと、そんな風に思ってたんだね」
本当に思っていたのかはわからなかったけれど、ああ思ってたさ、とブレーキを踏めないままにぼくは言った。
しばらくの沈黙のあと、うめくような声で麻凪が言った。「竺は……竺はやっぱり、なんにもわかってない」
きつい言葉を言ってしまったことを後悔しつつぼくは言う。「そんなのはお互いさまだろう? 優衣がいなくな──」
「あの子の話はしないでって言ったでしょ!」
かまわずにぼくは言い直した。「確かに麻凪の言った通り、母親と父親では子供を失った悲しみは違うのかもしれない。けど優衣が──」
「しないでって言ってるでしょ!」
今度はぼくは口をつぐんだ。またしばらくの間沈黙が流れた。手の付けられないほどに取り散らかった、部屋のような沈黙だった。これを言ったらもうおしまいだな、そう思いながら初めの一言に力を入れてぼくは言った。
「『やっぱり』おれたち、もう別れた方がいいのかもしれないな」
「そうかもし──」
麻凪の言葉を聞き終わる前にぼくは携帯を耳から引き剥がすと、通話終了のボタンを押した。
そのときもそうだけど、振り返ってみると、一体なんであんなことであれほど感情的になっていたんだろうと思うことがある。確かに誰かの言う通り、あるがままの感情をぶつけられる相手がいるというのは、素晴らしいことなのかもしれない。些細なことでも、遠慮なしに本音を言える相手がいるというのは、素晴らしいことなのかもしれない。でもあの数日間のうちのあの日以来、ぼくは、思う。そうして、それからどうなる? と。素直な気持ちをぶつければぶつけるほどに、より深い関係になれるとでも? と。ぼくは、そうは思わない。だからあの日以来のぼくは、そう思うことを、やめようと思った。そしてこれからは、もしも自分にそういう相手がいるとしたら、ぼくは、誰よりもまずはその人に優しくしたい。気のおけない関係だからと言って、理解を求めるのではなく、気のおけない関係だからこそ、その人の存在を、覚悟を以って丸ごと呑み込み、ときには笑ってしまうほど、信じられないくらいに優しくしたい。少なくともその人を傷つけるようなことは、一度たりともしたくはないし、言いたくもない。たとえ軽い冗談であったとしてもそう。もちろんこれはぼくの考えで、誰かに強要はしたくない。何より、多くの人間に対して、この考えを滞りなく実践することは、不可能だろうとも思う。でも、たった一人にならどうにかできるような気がする。ぼくにとっては、麻凪がその人だったのだ。その後に起こった出来事のおかげで、ぼくはそのことに、はっきりと気が付いた。そしてぼくは、ぼくに願う。どうかそのことを忘れないでほしいと。たとえ身体が言うことを聞いてくれないとしても、感情を制御することができないとしても、頭だけでもいいから、どうかそのことを忘れないでと。本当の本当にお願いだから、どうかどうかそのことを、いついつまでも、ずっとずっと忘れないでいてほしいと。
「その顔は、どう見ても仲直りしてませんって感じやね」
姉さんの言葉に応えないままぼくはシートに腰を下ろし、クーラーボックスを開けた。「悪いけどビールもらうよ」
「お好きなだけどーぞ」
ぼくは蓋を開けて、一気に半分近くまで飲んだ。けれど少しもうまいとは思わなかった。ただ単に喉が痛くなっただけだった。けれどそのまま残りの全部を飲み干して、缶を砂の上に突き刺してから前を見つめた。
水平線の向こう側には、あいかわらずジャンプした二頭の鯨のような雲が浮かんでいた。波打ち際では、白い砂の上を、透明な波が規則正しく寄せては返すを繰り返していた。太陽はいよいよ真上にまで昇り詰めようとしていて、目の前にはトビラ島のような砂山が立っている──ふと、何かが足りないな、とぼくは思った。決して酔いのせいなんかじゃなく、確実に何かがその場所から消えていた。
三太君の姿がどこにも見えなかった。
「ねえみっちゃん、三太君は?」
「目の前におるやろうも」
「いない……けど?」
姉さんがシートに肘をついた。「ちょっと竺、冗談やめんさいよ」
「いや、冗談じゃなくてさ」
姉さんとぼくは同時に立ち上がった。
「三太!」姉さんが叫んだ。「ついさっきまで目の前におったとに、本当についさっきまで……三太っ!」
「みっちゃん、あそこっ!」
ぼくは海を指さすと同時に走り出していた。ニューヨークヤンキースの緑色の帽子が、海面に浮かんでいるのが見えた。最悪の予感を抑えながら、波をかき分けてその場所に近づいてゆく。こんなに穏やかな海で子供が溺れるはずなんてない、何度もそう自分に言い聞かせながら。事実波打ち際は、珊瑚に守られて充分に穏やかだった。一メートルの深さもない浅瀬が広い範囲にまで及び、天然の浅いプールを象っていた。そのことは姉さんもぼくも、事前に確認していたことだった。にもかかわらず、ぼくの抱いた最悪の予感は、的中してしまったようだった。帽子のすぐ近くに、三太君が水中に座るようにして沈んでいた。
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