第23話

 ※


「……てんな、ちゃん?」

「ジクおじちゃん、よんだ?」

 ぼくは全身にびっしりと汗をかいていた。シートを起こして身体を拭きたかったけれど、腕がまったく動かなかった。他の場所も、筋肉がなくなってしまったかのように、まったく動いてくれそうにない。かろうじて動いてくれるのは、首から上だけのようだった。

「来てくれたんだね、良かった」

 やっとのことでそうぼくが言うと、てんなちゃんは目をぎゅっとつぶり、いーっと笑った。

「さんたくんがいないね!」

「その、三太君のことなんだけど……何か、約束してる?」

「わたしたちね、けっこんするんだよ!」

「そう、なんだ……」

「ふたりだけのね、ないしょなんだよ! 三太君は、しゃべっちゃいけないんだよ!」

 笑い続けているてんなちゃんにぼくは言った。一向に引いてくれそうにない全身の汗を感じながら。「……でもね、二人は、結婚できないんだ」

「どうして?」てんなちゃんは首を傾げた。

「てんなちゃんと三太君はね、違う世界にいるからなんだよ」

「じゃあわたし、ひとりぼっちなの?」

 ぼくは何も答えなかった。見ると、足元に水が溢れ始めていた。サンルーフを巨大な魚の腹影が過っていった。車はいつの間にか、海に沈んだ状態になっていた。

「てんな、ひとりぼっちはやだー!」

 ──瞬間。片側の車輪が砂にめり込んだかのように、車体がずっと斜めに傾いだ。

「でもね、できないんだよ、三太君との結婚は……」

「なんでー!」

「だっててんなちゃんはもう……」思い切ってぼくは言った。「死んじゃってるからなんだよ」

「いーやーだー!」てんなちゃんはそう絶叫しながら、首を百八十度以上回転させた。「いーやーだー! いーやーだーいーやーだーいーやーだーいーやーだー!」

 ──突如、両脇後方から大きな音が聞こえてきて、ぼくは左右のサイドミラーを確かめた。各自のミラーには、イルカほどの大きさをした二匹の古代魚が映り込んでいて、各々がその兜のようになっている頭部の一点で、窓ガラスを割ろうとしている姿が見えた。

「……じゃあどうすれば、嫌じゃなくなるの、かな……?」

 ごっ、ごっ、というガラスが強打される音が車内には響き渡っている。振り向いて見るまでもなく、ガラスにひびが入りつつあることが音によって確認できた。

 てんなちゃんは一周させ終えた顔を正面でぴたりと止めると、ぼくの目をじっと見つめた。「じゃあかわりにジクおじちゃんがけっこんして!」

「……そうすれば、三太君との結婚をあきらめてくれる?」

「いいよ! あきらめるよ!」

「……わかった。じゃあおじちゃんと結婚しよう」

「ゆびきりできる?」

「もちろん、できるよ」

 ぼくは覚悟を決めて、てんなちゃんに小指を差し出した──そのときだった。後部座席の窓が完全に割れると共に、二匹の古代魚が大量の海水と共に車内へと侵入し、ぼくは問答無用に呼吸を停止し、突き上げられるようにまぶたを閉じた。

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