1章 愚鈍なボクサーはとても強かった。

1.1 ウチあほやからようわかりまへん


 神は死んだ。

 醜い弱者根性なんて捨てて超人として生きろ。


 いまやすっかり陳腐化してしまったニーチェの格言だ。

 インテリゲンチアぶった浅学の徒がこぞって使うフレーズでもある。

 だがニーチェが『ツァラトゥストラ』で語ったそれらは、彼自身の生き様とセットで理解してようやく重みを汲みとれる。



 何度も読んだ彼の本をテーブルに置き、僕は目を閉じる。



 ニーチェ曰く。

 自己憐憫にあふれた弱者たちは成功者を妬み、その足を引っ張る行為を善だと盲信する。

 そんな弱者根性が生み出したのが、強者への憎悪を是とするキリスト教だ。

 だがそんな弱者に生きる目標を教える神も人間の造ったものだということが暴露される。


 かくして生の目標を喪失した人々は、ならばいかにして生きればいいのか?

 生きる意味をもたず空虚に過ごす者をニーチェは末人まつじんと批判する。

 そして神が死んだ時代にあるべき人の姿は、弱者の妬みなど歯牙にもかけず独り己で生の目標と悦びを創造する超人だと喝破する。


 そんな勇猛なことを、生前認められることなく精神を病んで、孤独に死んでいった男が言ったのだから感慨深い。

 わずか二四歳でバーゼル大学に古典文献学の教授として招聘されたものの、業界では斬新すぎる手法をもちいた研究を発表したせいで総スカンを喰らい、学内で孤立する目に遭う。

 生涯女性からはモテず、求婚したルイーズ・ザロメ嬢からはフラれた挙句、よりにもよって親友のパウル・レーが彼女と恋仲になった。

 そして晩年に精魂込めて書いた渾身の書すらも、四〇冊程度しか自費出版できなかった。

 だというのにニーチェは己が非運を呪わず、成功者を恨むことすら自らに許さなかった。そんな強い男なのだ。

 そうした彼の経歴を知ってこそ、すっかり安くなってしまった「超人として生きる」という格言の重みが内腑に響く。


 四月の陽だまりの中、僕は紅茶のカップのふちを撫でた。


 ニーチェの失恋ぶりには他人事とも思えず苦笑がこぼれる。

 そしてフったザロメ嬢による鬼畜的所業にも同情を禁じえない。

 あろうことか、ザロメ嬢はその後自分とパウルとニーチェの三人での共同生活をもちかけ、実際にそうしたのだとか。

 針の筵だったはずだ。

 僕は逃げ出している。


 とはいっても。

 こうして僕が、友達のいない人間特有の一方的な親近感と敬意を寄せるニーチェであるが、彼が生きていれば僕のような末人に同類認定されることを唾棄したにちがいない。

 高校へ登校せず平日のカフェでひとり無為無目的自堕落酔生夢死に時間を空費する僕と、非業を呪わず孤立を孤高と誇った彼では、生物としての無敵耐久性能が違う。


 超人ニーチェの足許にも及ばない僕は、くくっていた髪をほどいてテーブルに突っ伏し、狭い店内を見渡す。

 トイレ横の席には今日も今日とて近所の大学生がたむろしている。


 京都訛りで話すオカルトサークルの学生たちの議題は、相変わらず真偽も定かでない都市伝説だ。


 眼鏡をかけた大学生が言う。「……そういえば最近新しく噂を聞きましてな」。

 眼鏡をかけた別の学生が問う。「今度はどんな?」。

 また別の眼鏡の学生が横槍を入れる。「もしや亀岡の山道でバイカーが人喰い怪物から襲われた、というアレで?」。

 眼鏡その一が首肯した。「そう、府道五〇号線を走っていたら、恐ろしい異形の怪物から追われたというのが……」。


 僕は、「こんな真っ昼間から大学生も暇ですね」と胸中相槌をうち、皿に残ったケーキの欠片をフォークでつつく。

 なお、他人の会話に茶々を入れて会話に加わったような雰囲気を楽しむ行為は、ボッチに与えられた数少ない娯楽として大目に見てほしい。


 眼鏡その一はなおも続ける。

 「梅が畑に向かう国道でも、軽自動車が奇妙な怪物を轢いたとの噂がある。長毛で色が薄く、されど口元は真っ赤に濡れた何かであったとか」。

 眼鏡その二が専門家然と頷く。「して轢かれた獣はその後?」。

 眼鏡その一が首を振る。「何事もなかったように起き上がり山へ逃げたという。げにおとろしき生命力かな」。

 眼鏡その三が目を輝かせる。「それでは今週の活動は、亀岡山中の謎の怪物の正体を追う、で決まりですな」。


 京都市紫の上築山町のカフェにたむろする彼らのサークルは、活動談義を聞くに、近辺で起こるオカルト話に体当たりし正体を暴くことを目的としているらしかった。


 大学の講義をサボり、昼間からなんと素晴らしき学生生活か。

 まあ、同好の士で集まり情熱を燃やしてよもやま話で盛り上がれるあたり、僕よりもだいぶ人間としてマトモな生き方である。


 オカルトサークルの会議はなおも隆盛に花を咲かす。

 「にしても古都京都では都市伝説も尽きぬものでござるな。宇宙人によるキャトルミューティレーションはいまだ耳にする」。眼鏡その二が述懐する。

 その三も頷く。「ところで、貴兄がネットオークションで買われた呪物はその後いかがで? 確か髪が伸びる一松人形でありましたよね」。

 「いやー、今度こそ本物と思ったのでござるが。またしても偽物であったようにござる。これだけ収集しても本物の呪具呪物に出会わんのなら、やはり噂も所詮……」。


 僕は眼鏡大学生たちの青春から意識を外し、スマホをいじる。

 メールボックスに新着が届いていた。

 件名を見るだけでため息がこぼれてくる。


「……ああ、面倒くさい。どうせ僕がやらなくても、何も変わらないでしょう」


 角が立たない無難なお断りの文面を考えていると、カフェの入り口で鐘が鳴った。


 入ってきたのは、四〇前半と二〇半ばの男の二人組。

 若い方が店内を興味深げに見渡す。

 歳上の方は手早く一瞥するだけで、足早にカウンターへと向かった。


「いらっしゃい。ご注文は?」


 店主のメフィーが仕込みをしながら問う。

 年上の方の男は、異国情緒あふれる亜麻色の髪の美女に尻込みすることなく返す。


「ブラックのホット二つ。それから、ちょいと聞きたいんですがね」


 男が天井を指さす。


「上の事務所に用事があるんだけども。営業時間のはずが準備中の札が出てて、事務所の人つかまんないんですよ。連絡とれたりします?」


 僕は思わず顔をあげ、男とメフィーを見つめた。


「さあ。私も上の人とはやりとりがないので」


 メフィーがにこやかに返す。


「それじゃいつ頃なら居るかとかは?」

「さあ。他所のことはなんとも」


 メフィーの艶やかな口唇が流暢に答えた。

 

 やおら、やりとりを盗み見る僕の前が塞がれる。

 見上げると、若い方の男が立っていた。


「お嬢さん、ちょっと聞いてもいいかな?」


 男性にしては少し高い、澄んだ爽やかな声。

 そしてそのまま僕の向かいに着座する。


「なんですのん?」


 僕は机に突っ伏したまま、若い方を観察する。


 短く揃えられた黒髪。

 精悍な顔立ち。

 引き締まった頑健な体。

 格闘技をやってるにちがいない、拳ダコが目立つ。

 微笑む顔は中性的な尤物ゆうぶつ然。

 街ゆく女子に声をかければ一〇人中九人は浮き足立って応じるイケメン……いやちがう。シャツのボタンが左胸で逆だ。

 男用のシャツは右胸にボタンがつく。ということは女?


 混乱する僕をよそに、イケメンあらためスーツの女性は微笑む。


「君、上の事務所のこと知ってるかな? 代表の人は男性らしいんだけど」


 綺麗な標準語。少なくとも関西圏ではない。


「さあ。ウチよぅわかりまへん。何でウチに聞かはりまんの?」

「いやね、店長さんと上の事務所の話をしてたら、君が顔をあげたから。何か知ってるのかなって。なんとなく知り合いかなって思っただけ」


 豪快だが人懐こい笑顔のスーツの女性。

 僕は内心自分の失策に毒づきつつも笑顔を返す。


「ウチあほやから、あんまむつかしいことわからんねけど。お姉さんオモロいどすな。ところであんたはんどこぞらきたん?」

「え? えっと、どこぞら?」


「ああ、堪忍え。どちらからいらっしゃったん? この辺の人やおまへんやろ?」

「ああ、そういうことね。私らは東京から来たんだ」


「へぇ。いいとこどすな。お仕事? それとも観光どすか?」

「仕事だよ。じゃないとスーツなんて着ないさ。それにしても君、よく私が女だってわかったね。いつも男と間違われるんだけど」


「全然そないなことあらへんよ? おシャンな美人さんやないですの。それで。ええスーツ着てはりますけどお仕事は何を? 近頃流行りの外資系っちゅうやつですか?」

「えーと、うん、まあそんなところかな」


 スーツの女性は首を横に振りながら不器用に笑う。

 そして指で唇を触る。


 明らかにウソだ。


 僕の質問へ、肯定の言葉とは裏腹に否定を示す無意識的な首の微動作マイクロジェスチャーは本音を示す。

 無自覚になされる制御できない身体動作は口よりも正直に本心を語る。

 手で唇を触る適応動作マニピュレーターは内心の不安を示す。

 ウソは不安を伴う。

 つまりこの女はウソをついている。


 スーツの女が示す一瞬の挙動から僕はそれだけ読み取った。

 そして彼女がウソをつこうとも、僕にはもう正体の目星はついていた。


「おい、行くぞ」


 話し終えた中年男が、一足先に店を出ていく。


「あ、はい! じゃあ、邪魔してごめんね」


 慌ただしく席を立つ彼女に、僕は愛想のいい笑みを返した。


「なんや大変そうやね。お気張りやす」

「ああ、ありがとう。それじゃあ」


 そうして二人組が来たときと同じく唐突に去っていくと、店はまた気だるい雰囲気に戻った。

 僕も作っていた笑顔を剥がし、嘆息した。


「……ああ、面倒なことなってるなあ、もう」


 メフィーが笑う。


「ふふっ。『ウチよぅわかりまへん』か。面の皮が厚いねー、


 僕はゲンナリ「お互い様ですよ」とだけ返した。


「いやー? 君と違って私はそういう存在だからウソついただけさ。君のそれとは違うね」


 メフィーは意地悪な笑み浮かべていた。








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 ご高覧いただきありがとうございます。

 ぜひ、完結までお付き合いいただけると幸いです。


 本作の他、金稼ぎ大好き少年が狐のお姉さんをお稲荷様にするためにもがくマーケティング大逆転現代ドラマも書いてます。

 こちらもご覧いただけると幸いです。

https://kakuyomu.jp/works/16818093090649617587

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