第2話
穏やかな昼下がりが、茶屋「木漏れ日」を包んでいた。
鈴虫の精霊が奏でてくれた美しい音楽の余韻に浸りながら、私は帳場で帳面を整理していた。
客人のいない静かな時間は嫌いではない。
茶葉の香りや、囲炉裏の薪がはぜる音、窓の外で風が木の葉を揺らす音。
そのすべてが、この茶屋を構成する大切な要素だった。
そんな静寂を破ったのは、遠くから聞こえてくる地響きのような音だった。
ずしん、ずしん。
一定の間隔で響くその音は、ゆっくりと、しかし着実にこちらへ近づいてきている。
ただごとではない気配に、私はそっと立ち上がり、店の入り口から外の様子をうかがった。
森の入り口、注連縄が張られた境界線の向こうに、大きな影が見える。
それは人間や普通の動物の大きさではない。
見上げるほどに巨大で、山そのものが動いているかのような、圧倒的な存在感があった。
「あら……」
私はその影の正体にすぐに気がついた。
この森と、その向こうにそびえる山々を守っている、この土地の主。
山の神様だ。
普段はめったに人里近くまで下りてくることはない。
何か急ぎの用事だろうか。
ずしん、と最後の大きな足音とともに、山の神様は茶屋の前にその巨体を現した。
苔むした岩のような肌、何百年も生きている大樹のような逞しい腕。
けれど、その表情はどこか困り果てているように見える。
ぼさぼさの白い髭をしょんぼりと垂らし、大きなため息をついていた。
「こんにちは、山の神様。ようこそいらっしゃいました」
私がにこやかにお辞儀をすると、山の神様は少しだけ驚いたように大きな目を見開いた。
「おお、ハルどの。わしの姿が見えるのか」
「はい。良いお天気ですね。どうぞ、お上がりください」
茶屋の入り口は、山の神様には少し小さいかもしれない。
けれど、神様は慣れた様子で器用に身体を縮め、土間へと上がってきた。
その姿は、大きな熊が少し窮屈そうにしているようで、どこか微笑ましい。
「まあ、どうぞそちらの長椅子へ。今、お茶の用意をしますね」
「うむ。すまんのう」
山の神様は、どっかりと音を立てて長椅子に腰を下ろした。
それだけで、頑丈な作りの椅子が少し軋んだ気がする。
私は早速、お茶の準備に取り掛かった。
山の神様のような大きくておおらかな方には、どんなお茶が良いだろうか。
少し考えて、香ばしい香りが特徴の焙じ茶を選んだ。
土の香りがするこのお茶は、きっと山の神様の心も落ち着かせてくれるはずだ。
鉄瓶から湯気の立つお湯を大きめの湯呑みに注ぎ、神様の前にことりと置く。
ふわりと立ち上る香ばしい香りに、神様の顔が少しだけ和らいだ。
「それで、山の神様。今日はどうかなさいましたか?何かお困りごとのように見受けられますが」
私の問いかけに、神様は眉を下げて再び大きなため息をついた。
「実はのう、ハルどの。わしの大事な笠をなくしてしもうてな。どこを探しても見つからんのじゃ」
「笠、ですか」
山の神様がいつもかぶっている、大きな菅笠のことだろう。
雨の日も風の日も、山の頂から森の様子を見守る神様の象徴のような笠だ。
「うむ。あれがないと、どうにも落ち着かんでのう。それに、山の天候を少しだけ整える力もあるからの。わしがくしゃみをすると嵐が来てしまうのを、あれが防いでくれておるんじゃ」
それは一大事だ。
神様のくしゃみ一つで嵐が来るなんて。
早く見つけなければ、村も森も大変なことになってしまう。
「それはお困りですね。最後に笠を見たのはいつ頃か、覚えていらっしゃいますか?」
「うーむ……」
山の神様は、長い髭をひねりながら難しい顔で考え込んでいる。
「昨日の昼過ぎまでは、確かにおったはずなんじゃ。森のきのこの子らと、追いかけっこをして遊んでおったからのう。その時はまだ、ちゃんと頭の上にあったはずなんじゃが……」
どうやら、山の神様は少し忘れっぽい性格らしい。
おおらかなのは良いことだけれど、これでは探すのも一苦労だ。
「きのこの子らと遊んだ後は、どちらへ?」
「それがのう……。思い出せんのじゃ。気づいたら夕方で、山の寝床におった。笠がないことに気づいたのは、今朝のことでの」
私は少し考えて、戸棚の奥から特別な茶葉を取り出した。
記憶を呼び覚ます手伝いをすると言われている、銀杏の葉を乾燥させたものだ。
これを少しだけ焙じ茶に混ぜてみよう。
「山の神様。こちらのお茶も、どうぞ。少し変わった香りがしますが、きっとお口に合うと思います」
新しく淹れたお茶を差し出すと、神様は不思議そうな顔をしながらも、湯呑みを受け取って一口飲んだ。
「おお……。これは……なんだか頭がすっきりするような……」
神様は目を閉じ、お茶の香りと味をじっくりと味わっている。
その間に、私は何か他に手伝いができることはないかと考えた。
そうだ。森のことに詳しい、あの子たちに聞いてみよう。
私は店の裏口から、ぱん、ぱんと二回、手を叩いた。
しばらくすると、近くの茂みががさごそと揺れ、三つの小さな影がひょっこりと顔を出した。
豆狸の一家だ。
父親のぽん吉さん、母親のおぽんさん、そして息子のぽん太くん。
三匹とも人に化けるのがあまり得意ではなく、中途半端に耳や尻尾が残っているのが愛らしい。
「へい、ハルさん!何かご用で?」
一番に駆け寄ってきたのは、一家の主であるぽん吉さんだった。
人の言葉を話すが、語尾が少しだけ狸っぽい。
「ぽん吉さん、こんにちは。実は、少しお願いしたいことがあるの」
私は事情を説明し、山の神様の笠を探すのを手伝ってほしいと頼んだ。
豆狸たちは森の地理に詳しく、他のあやかしたちとも顔が広い。
彼らの情報網は、きっと役に立つはずだ。
「な、なんですと!山の神様の笠が!?そりゃあ一大事でさあ!」
ぽん吉さんは目を丸くし、おぽんさんとぽん太くんも驚いた顔で顔を見合わせている。
「わかったで!あっしらに任せてくだせえ!総出で探してきやす!」
「お願いね。きのこの精霊たちが、何か知っているかもしれないわ」
「合点承知の助!」
豆狸の一家は頼もしく言うと、あっという間に森の中へと駆け込んでいった。
彼らの素早さにはいつも感心させられる。
私が店の中に戻ると、山の神様が「おお!」と大きな声を上げた。
銀杏の葉のお茶が、効き目を現したのかもしれない。
「思い出したぞ、ハルどの!きのこの子らと別れた後、わしは大きな木の根元で昼寝をしておったんじゃ!」
「大きな木、ですか。この辺りで一番大きな木というと……」
「うむ。店の裏手にある、あの楠じゃ。あそこの木陰は涼しくて、つい、うとうとしてしもうて」
茶屋の裏手にある、樹齢数百年の大きな楠のご神木。
確かに、あそこなら気持ちよく昼寝ができそうだ。
神様はそこで笠を脱いで、そのまま忘れてきてしまったのかもしれない。
「行ってみましょう。きっと、そこにありますよ」
私と山の神様は、連れ立って店の裏手へと向かった。
ご神木は今日も青々とした葉を茂らせ、どっしりと大地に根を張っている。
その姿は、まるで森のすべてを見守っているかのようだった。
私たちはご神木の周りをぐるりと見て回った。
しかし、神様の大きな笠は見当たらない。
「おかしいのう……。確かに、この辺りのはずなんじゃが……」
神様ががっかりして肩を落とした、その時だった。
森の奥から、豆狸の一家が息を切らしながら走ってくるのが見えた。
「ハルさーん!神様ー!」
ぽん太くんが一番乗りで、私の足元に駆け寄ってきた。
「風の精霊さんから聞いたよ!神様の笠、鳥さんたちが巣にしちゃってるって!」
「巣に?」
「うん!ご神木の一番高い枝のところに、大きな鳥さんがお引越ししてきたんだって!神様の笠、ふかふかで気持ちいいから、おうちにぴったりだって!」
ぽん吉さんとおぽんさんも追いついて、こくこくと頷いている。
なるほど、そういうことだったのか。
神様が昼寝をしている間に、風で飛ばされた笠が枝に引っかかり、それを見つけた鳥が巣作りに使ってしまったのだろう。
私たちは空を見上げた。
ご神木はあまりにも高く、枝葉が茂っていて、下からでは巣の様子はよく見えない。
「うーむ。困ったのう。鳥の巣を壊すわけにもいかんし……」
山の神様が再び困り顔になった。
優しい神様は、鳥の家族を追い出すようなことはしたくないのだろう。
「大丈夫ですよ。少し、お話してみましょう」
私はご神木に向かって、そっと両手を合わせた。
そして、心の中で鳥に語りかける。
「鳥さん、こんにちは。その笠は、山の神様の大切なものなのです。もしよろしければ、お返しいただけないでしょうか。代わりになる素敵な巣の材料を、こちらでご用意しますから」
私の声が届いたのか、ご神木のてっぺんの方で、ぱさぱさと羽音がした。
そして、一羽の大きな鷲が、ゆっくりと私たちの前まで降りてきた。
その足には、確かに山の神様の菅笠が掴まれている。
鷲は少し申し訳なさそうな顔で私を見ると、そっと笠を地面に置いた。
「ありがとう、鷲さん。驚かせてしまってごめんなさいね」
私がそう言うと、鷲はぺこりとお辞儀をして、再び空へと舞い上がっていった。
きっと、新しい巣の場所を探しに行ったのだろう。
「おお!わしの笠じゃ!」
山の神様は、子供のようにはしゃいで笠を拾い上げた。
少し鳥の羽がついていたけれど、破れたり汚れたりはしていない。
「いやあ、ハルどの、本当に助かったわい!お主には頭が上がらんのう!」
神様は何度も頭を下げて、感謝の言葉を口にした。
「いいえ。豆狸さんたちや、風の精霊さん、鷲さんのおかげですよ」
私は微笑んで首を横に振った。
みんなの協力があったからこそ、無事に笠は見つかったのだ。
茶屋に戻ると、私はお礼に、とっておきのお茶請けを作ることにした。
山の神様がお礼にと差し出してくれた、山でしか採れないという黄金色の木の実。
これをすり潰して、お砂糖と混ぜて餡にする。
そして、もちもちとしたお餅で包んで、きな粉をまぶした。
「黄金もち」と名付けたそのお菓子は、優しい甘さと木の実の香ばしい風味が特徴だ。
「うまい!これは絶品じゃ!」
山の神様は大きな口で黄金もちを頬張り、目を細めている。
豆狸の一家も、夢中になってお菓子を食べていた。
その幸せそうな顔を見ているだけで、私の心も温かくなる。
「ハルどのがこの茶屋にいてくれて、本当に良かった。森も村も、お主のおかげでいつも平和じゃ」
山の神様の言葉が、じんわりと胸に染みた。
私にできることは、一杯のお茶を淹れることくらいだ。
けれど、その一杯が誰かの心を少しでも軽くできるのなら、こんなに嬉しいことはない。
山の神様はすっかり上機嫌になり、笠探しの大冒険の話を何度も繰り返していた。
そのおおらかな笑い声は、茶屋全体を明るく照らしているかのようだった。
空が茜色に染まり始める頃、山の神様は「そろそろ山に帰らねば」と、名残惜しそうに立ち上がった。
「今日は本当に世話になった。この御礼は、また必ず」
そう言うと、神様は深々とお辞儀をして、森の中へと帰っていった。
豆狸の一家も、「ごちそうさまでした!」と元気に挨拶をして、ぴょんぴょんと跳ねるように帰っていく。
一人になった茶屋で、私は後片付けを始めた。
賑やかだった時間が過ぎ去り、いつもの静けさが戻ってくる。
でも、その静けさは寂しいものではない。
今日の出来事を思い出しながら、私は自然と笑みを浮かべていた。
さて、明日のお茶請けには何を作ろうか。
山の神様にもらった黄金の木の実は、まだたくさん残っている。
明日来てくれるお客さんにも、この幸せな味をお裾分けしてあげよう。
そんなことを考えながら、私はゆっくりと店の暖簾を下ろした。
木漏れ日の穏やかな一日は、こうして静かに暮れていくのだった。
また新しい一日が、新しい出会いを運んできてくれることを願いながら。
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