木漏れ日茶屋と不思議な客人
☆ほしい
第1話
夜の間に降った雨が、森の緑を一層深くしていた。
朝日が梢の隙間から差し込み、濡れた葉や土の匂いをきらきらと照らし出す。
人里とあやかしが棲まう「常世の森」の境にある茶屋「木漏れ日」の一日は、いつも静かに始まる。
「ん……」
店主のハルは、小さく伸びをしながら目を覚ました。
障子窓から差し込む光が、部屋の中の塵を金色に染めている。
鳥のさえずりと遠くの沢のせせらぎが、心地よい目覚まし時計代わりだ。
身支度を整え、店の土間へと下りる。
ひんやりとした木の床の感触が、まだ少し眠気の残る身体をしゃんとさせてくれる。
まずは掃き掃除からだ。
竹箒で丁寧に土間を掃き清め、濡らした手ぬぐいで一枚板の長机や椅子を拭いていく。
長年使い込まれた木材はつやつやと飴色の光を放ち、ハルの手の動きに合わせて心地よい香りを立てた。
この茶屋は祖母から受け継いだ大切な場所だ。
柱の一本、梁の一筋に、たくさんの温かい思い出が染み込んでいる。
掃除を終えると、次はお湯の準備だ。
店の裏手にある井戸から清水を汲み上げる。
滑車がからからと軽やかな音を立て、冷たく澄んだ水が桶に満ちていく。
この「清水の湧き水」は村でも評判の名水で、お茶の味を格段に引き立ててくれるのだ。
汲み上げた水を鉄瓶に移し、囲炉裏に吊るして静かに火を入れる。
ぱち、ぱちと薪のはぜる音が、店の空気を温め始めた。
ハルは店の入り口を開け放ち、暖簾をかけた。
藍色に染め抜かれた「木漏れ日」の文字が、朝の風にやわらかく揺れる。
店の周りには、ハルが育てているささやかな薬草畑がある。
カミツレ、薄荷、蜜露草。
どれも彼女の淹れる特別なお茶には欠かせないものたちだ。
畑に近づくと、葉に残った昨夜の雨粒が朝日に反射して宝石のように輝いていた。
「おはよう、みんな。今日もよろしくね」
小さな葉にそっと指で触れながら挨拶をすると、薬草たちが応えるようにふわりと爽やかな香りを放った気がした。
ハルには昔から人には見えないものが見えた。
それは恐ろしい妖怪や祟り神などではなく、道端の石に宿る小さな精霊だったり、古びた道具に込められた想いの欠片だったり、こうして植物たちが放つかすかな感情の光だったりした。
怖いと思ったことは一度もない。
むしろ、その存在がこの世界をどれだけ豊かで優しいものにしているかを彼女は知っていた。
囲炉裏の鉄瓶が、しゅうしゅうと心地よい音を立てて湯気を上げ始めた。
さあ、今日も一日が始まる。
どんなお客さんが来てくれるだろうか。
ハルはにっこりと微笑み、茶葉の入った桐の箱に手を伸ばした。
最初のお客さんがやってきたのは、太陽が空高く昇り、木漏れ日が最も美しい模様を土間に描き出す頃だった。
しかしそのお客さんは、からんと戸を開けて入ってきたわけではない。
ハルが茶器を整理していると、店先の植木鉢の陰から何やら小さな気配がするのに気がついた。
視線を向けても姿は見えない。
けれど、そこには確かに誰かがいる。
それはとても小さくて、臆病で、そして少しだけ悲しんでいる気配だった。
ハルは驚かせないように、ゆっくりとした仕草で立ち上がるとその植木鉢に近づいた。
「こんにちは。良いお天気ですね」
優しく声をかけると、葉っぱの陰でぴくりと何かが動いた。
それは人の親指ほどの大きさしかない、透き通った緑色の翅を持つ小さな小さな虫のあやかしだった。
秋の夜に美しい音色を奏でる、鈴虫の精霊だ。
けれど、その姿はどこか元気がない。
本来ならばきらきらと輝いているはずの翅はしょんぼりと垂れ下がり、全身を小刻みに震わせている。
恐怖からではない。
それは極度の恥ずかしさからくる震えだった。
「あらあら。いらっしゃいませ。どうぞ、中へお入りくださいな」
ハルが微笑みかけると、鈴虫の精霊はますます恐縮したように身を縮こませた。
そして、か細く頼りない声で鳴いた。
りん……。
その音は、まるで泣いているかのようだった。
澄んだ美しい音色で鳴くはずの鈴虫の、あまりにも弱々しく悲しい響き。
きっと何か悩み事があるのだろう。
自分の鳴き声に自信をなくしてしまったのかもしれない。
「大丈夫ですよ。ここは、誰もあなたを急かしたりしませんから」
ハルはそう言うと無理に誘うことはせず、そっとその場を離れて帳場の中に戻った。
そして、小さな客人のために特別なお茶の準備を始めた。
選んだのは、カミツレの花と蜜露草の葉。
どちらも心を落ち着かせ、不安を和らげてくれる力を持つ薬草だ。
丁寧にすり鉢で潰し、小さな急須に入れる。
そこへ沸かしたての柔らかなお湯をそっと注いだ。
たちまち、甘く優しい香りがふわりと立ち上る。
ハルは茶器棚の奥から、特別な器を取り出した。
それは朝露の雫をそのまま固めたかのような、小さな小さな硝子の杯だ。
こんなに小さな客人のために、祖母が残してくれたものだった。
杯に、黄金色に輝くお茶を注ぐ。
湯気と共に立ち上る甘い香りが店の中に満ちていく。
ハルはそれを盆に乗せ、鈴虫の精霊が隠れている植木鉢のすぐそばの床にことりと置いた。
「どうぞ。あなたのための、お茶です。心を落ち着けて、あなたの素敵な声をきっと取り戻してくれますよ」
そう囁きかけると、ハルはまた帳場に戻り、自分の仕事に集中するふりをした。
植木鉢の陰から、鈴虫の精霊がそろりそろりと姿を現した。
小さな杯から立ち上る、甘く優しい香りに誘われたのだろう。
警戒しながらも一歩、また一歩と杯に近づいていく。
そして、おそるおそる透き通った口吻を杯の中へと差し入れた。
一口、お茶を飲む。
その瞬間、鈴虫の精霊の小さな身体がふわりと柔らかな黄金色の光に包まれた。
それはまるで温かい陽だまりに抱かれているかのような、優しい光だった。
精霊は驚いたように動きを止めたが、すぐに心地よさに気づいたのか、もう一口、また一口と夢中でお茶を飲み始めた。
ハルが心を込めて淹れたお茶が、精霊の強張った心をゆっくりと解きほぐしていく。
恥ずかしさも、不安も、悲しみも、すべてがお茶の中に溶けて温かい力に変わっていくようだった。
やがて杯が空になる頃には、精霊を包んでいた光は一層輝きを増していた。
そして。
リーン、リリーン……!
凛として、どこまでも澄み渡るような美しい鳴き声が店内に響き渡った。
それはもう、先ほどまでの弱々しい音ではない。
自信と喜びに満ちた、聞く者の心を洗うような素晴らしい音色だった。
しょんぼりと垂れていた翅はぴんと張り、きらきらと光の粒子を振りまいている。
鈴虫の精霊はハルの方を向くと、感謝を伝えるように何度も何度も美しい声で鳴いた。
それはまるで一曲の素晴らしい音楽のようだった。
ハルはにこにこと微笑みながら、その美しい演奏に静かに耳を傾けていた。
やがて演奏を終えると、精霊は深々とお辞儀をした。
そしてその場に、ぽとりと何かを一つ落としていく。
それは光を受けて虹色に輝く、完璧な球形の露だった。
普通の露ならすぐに消えてしまうだろうに、それはまるで宝石のようにいつまでもそこに在り続けた。
「ありがとう」
そんな声が聞こえた気がした。
鈴虫の精霊はもう一度ぺこりとお辞儀をすると、ぱっと緑色の翅を広げ、風に乗るようにして森の方へと帰っていった。
ハルは残された美しい露をそっと拾い上げた。
ひんやりとしていて滑らかで、中には小さな虹が閉じ込められている。
彼女はそれを、店の一番日当たりの良い棚に置いてある空の小瓶にそっと入れた。
瓶の中にはこれまで訪れた不思議な客人たちが残していった、ささやかな感謝の印がいくつも飾られている。
蒸発しない露、歌う小石、ほんのり温かい落ち葉。
どれも、ハルのかけがえのない宝物だ。
「また、いつでもいらしてくださいね」
森へ向かってそう呟くと、ハルは再び帳場に戻り、布巾を手に取った。
窓の外では、木漏れ日が優しく揺れている。
さて、次に来るのはどんなお客さんだろうか。
ハルは新たな出会いに胸を弾ませながら、穏やかな午後の時間を過ごすのだった。
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