第3話

山の神様が帰られた次の日、茶屋には朝から柔らかな日差しが差し込んでいた。

私は昨日いただいた黄金の木の実を使って、新しくお茶請けの焼き菓子を作っていた。

木の実を細かく砕いて生地に混ぜ込むと、釜から何とも言えない香ばしい香りが漂ってくる。

きっと、今日のお客さんも喜んでくれるだろう。


そんなことを考えていると、ふと、店の隅の方から小さな視線を感じた。

昨日や一昨日に限った話ではない。

ここ最近、ずっと感じている気配だった。

それはとても小さくて、臆病で、そして少しだけ寂しそうな気配。

私がその方向に目をやると、さっと柱の陰に隠れてしまう。


私はその正体に、もう気づいていた。

この茶屋にいつの頃からか住み着いている、恥ずかしがり屋の座敷童子だ。

悪さをするわけでもなく、ただ遠くからこちらの様子をじっとうかがっている。

きっと、私やここを訪れるお客さんたちと、仲良くなりたいのだろう。

でも、恥ずかしくて一歩が踏み出せないでいる。

その健気な気持ちが、私には痛いほど伝わってきた。


無理に声をかけて驚かせてはいけない。

私は気づかないふりをして、自分の仕事に戻った。

まずは、長机を拭くことから始めよう。


「ふう。この机は大きいから、一人で拭くのは少し大変ね」


わざとらしく、独り言を呟いてみる。

そして、机の半分だけを拭き終えたところで、薬草畑の様子を見に行くふりをして、少しだけ店を離れた。

五分ほどして戻ってくると、案の定、机の残り半分が綺麗に拭き上げられていた。

誰も見ていないところで、そっと手伝ってくれたのだ。


「あら、まあ。いつの間にか綺麗になっているわ。どなたか存じませんが、ありがとうございます」


私はにっこりと微笑み、綺麗になった机の上に、小さな湯呑みと焼き菓子を一つ置いた。

座敷童子への、ささやかなお礼だ。

そしてまた、私は帳場に戻って自分の仕事に集中するふりをした。

しばらくすると、ことり、と小さな音がして、机の上の湯呑みとお菓子はいつの間にか消えていた。


こんな風な、声なき交流が何日も続いた。

私が「そろそろお湯を沸かさないと」と言えば、いつの間にか囲炉裏に薪がくべられている。

私が「茶葉の整理をしなくては」と言えば、棚の桐箱が種類ごとにきちんと並べられている。

その度に、私はお礼のお茶とお菓子をそっと置いておく。

姿は見えなくても、確かにそこにある温かい心遣いが、私を優しい気持ちにさせてくれた。


この子の優しさは、私だけではなく、もっとたくさんの人に伝わればいいのに。

この子が、恥ずかしがらずにみんなの輪の中に入ってこられたら、きっともっと世界が広がるはずだ。

そう思った私は、一つのことを思いついた。


「そうだわ。小さなお客さんたちのための、お茶会を開きましょう」


私がそう呟いた瞬間、柱の陰で揺れていた気配が、ぴたりと止まったのが分かった。

興味を持ってくれたのかもしれない。


「森の小さな精霊さんや、あやかしたちを招いて。みんなで美味しいお茶とお菓子をいただけば、きっと楽しいわ」


これは、座敷童子のための、そして森のすべての小さな住人たちのための、ささやかな宴だ。

私は早速、お茶会の準備に取り掛かることにした。

まずは、森のみんなにお知らせをしなければ。

私は小さな紙に「あしたのひるすぎ、こもれびぢゃやで、ちいさなおちゃかいをひらきます。どなたでもどうぞ」と書き、店の入り口に吊るした。

そして、風の精霊にお願いして、この知らせを森の隅々まで運んでもらうことにした。


「風の精霊さん、お願いできますか?」


そう囁くと、さわやかな風が吹き抜けて、知らせの紙を優しく揺らしていった。

きっと、森中にこの知らせを届けてくれるだろう。


次に、お茶会の飾り付けだ。

鈴虫の精霊が残してくれた虹色の露を窓辺に置けば、光が当たってきらきらと輝くはずだ。

この前、豆狸たちが集めてきてくれた、ハートの形をした可愛い葉っぱをお皿代わりにしよう。


そんなことを考えていると、店の戸がからりと開いて、豆狸の一家がやってきた。


「ハルさん!お茶会を開くんだって!?」


ぽん太くんが、目を輝かせながら駆け寄ってくる。

どうやら、風の知らせがもう届いたらしい。


「ええ、そうなの。もしよかったら、あなたたちも手伝ってくれないかしら?」


「もちろんだとも!面白そうなことには、首を突っ込まないわけにはいかないでさあ!」


ぽん吉さんが胸を張り、おぽんさんもにこにこと頷いている。

頼もしい助っ人の登場に、私も嬉しくなった。

私たちは早速、役割分担を決めた。

ぽん吉さんとぽん太くんは、森で木の実や綺麗なお花を集めてきてくれることになった。

おぽんさんは手先が器用なので、私と一緒にお菓子作りを手伝ってくれる。


そして、柱の陰の座敷童子も、いつもより少しだけ近くで、そわそわしながら私たちの様子をうかがっているのが分かった。

その気配は、期待と不安で揺れているようだった。


「さて、何を作りましょうか」


おぽんさんと二人、腕まくりをして調理台に向かう。

小さなお客さんたちが食べやすいように、一口サイズで見た目も可愛いものがいいだろう。


「この前、星屑の金平糖を少しだけ分けてもらったの。これを白玉団子に乗せたら、きっと綺麗よ」


「まあ、素敵だねえ。それじゃあ、あたしは得意のくるみ味噌を作って、お団子につけるのはどうだい?」


「いいわね!甘いのとしょっぱいの、両方あったらみんな喜ぶわ」


私たちは次々とお菓子の献立を決めていった。

七色の泉の水を煮詰めて作った、透き通るような寒天。

山の神様にもらった黄金の木の実を入れた、小さなカステラ。

考えるだけで、わくわくしてくる。


「お茶は、どうしようかしら。みんなが好きなのは、やっぱり甘い蜜露草のお茶かしら」


「そうだねえ。でも、特別な日だから、何か特別なものがあっても良いかもしれないよ」


おぽんさんの言葉に、私ははっとした。

そうだ。お祖母様が残してくれた古いレシピ帳に、特別な日のお茶のことが書かれていたのを思い出した。

それは、満月の夜にしか咲かないという「月光花」の蜜を数滴だけ入れた、特別な紅茶。

飲むと心がぽかぽかと温かくなり、誰もが優しい気持ちになれるという、不思議なお茶だ。


「月光花の蜜を使いましょう。あれなら、きっとみんなを笑顔にしてくれるわ」


私は戸棚の奥から、大切にしまっていた小さな小瓶を取り出した。

しかし、蓋を開けてみて、がっかりした。

中身はもう、ほとんど残っていなかったのだ。

年に一度、満月の夜に森の奥で花を摘み、少しずつ集めていた貴重な蜜。

次にとれるのは、まだずっと先のことだ。


「どうしましょう……。これでは、みんなに行き渡らないわ」


私が困っていると、レシピ帳を一緒に見ていたおぽんさんが、ある一文を指さした。


「ハルさん、これを見てごらんよ。『月光花は、常世の森の奥深く、七変化の泉のほとりにて、稀に季節外れの花を咲かすことあり』だってさ」


「七変化の泉……」


お祖母様から、その泉のことは聞いたことがある。

季節や見る者の心によって、水の色が七色に変わるという不思議な泉。

森のかなり奥深くにあるため、私はまだ一度も行ったことがなかった。


「でも、森の奥は迷いやすいと聞くわ。私一人で行けるかしら」


不安を口にすると、いつの間にか木の実拾いから戻ってきていたぽん吉さんが、心配そうな顔で言った。


「ハルさん、一人で行くのかい?森の奥は、いたずら好きのあやかしもいるって話だぜ。あっしが一緒に行きやしょうか?」


ぽん吉さんの申し出はありがたかったけれど、お茶会の準備で忙しい彼らの手を、これ以上煩わせるわけにはいかない。


「ありがとう、ぽん吉さん。でも、大丈夫よ。森は私の友達だもの。きっと、道は教えてくれるわ」


私はにっこりと微笑んで答えた。

不思議なものたちの姿が見え、その心が分かる私にとって、森は決して怖い場所ではない。

むしろ、たくさんの友人たちがいる、心安らぐ場所なのだ。

私はみんなのために、そして、柱の陰でこの話を聞いているであろう、小さな友人のために、泉へ行く決心をした。


「それじゃあ、少しお店を空けますね。お茶会の準備、お願いできるかしら?」


「おう、任せときな!ハルさんが戻ってくるまでに、最高の会場にしといてやるぜ!」


ぽん吉さんが頼もしく胸を叩く。

私は水筒に冷たい麦茶を入れ、腰に薬草を摘むための小さな籠を下げた。

簡単な旅支度だ。


「いってきます」


みんなに手を振り、私は店の戸を開けて、森へと続く小道へ足を踏み出した。

柱の陰から、心配そうな、それでいて少しだけ期待に満ちた小さな視線が、私の背中に送られているのを感じながら。


森の中は、ひんやりとした空気が心地よかった。

木々の隙間から差し込む光が、地面に美しい模様を描き出している。

鳥のさえずりや、遠くで聞こえる沢のせせらぎが、私の歩みに合わせて優しい音楽を奏でてくれているようだった。


しばらく進むと、道が二つに分かれていた。

お祖母様からもらった地図には、泉への道はこちらで合っているはずだけれど、どちらに進めばいいのか、少し迷ってしまう。

私が立ち止まっていると、どこからか小さな風が吹いてきた。

その風は、私の頬を優しく撫でると、片方の道の草をさわさわと揺らした。

まるで、「こっちだよ」と手招きをしてくれているかのようだ。


「ありがとう、風の精霊さん」


私は小さくお礼を言うと、風が示してくれた方の道を選んで、再び歩き始めた。

森は奥へ進むにつれて、少しずつその表情を変えていく。

見たこともない鮮やかな色のきのこや、触れるとほのかに光る苔が、あちこちに見られるようになった。

空気も、より一層澄み渡っていくのが分かる。


私は足元に咲く小さな花に挨拶をしたり、枝で休んでいる虫の精霊に微笑みかけたりしながら、泉を目指して歩き続けた。

心は不思議と穏やかで、不安は少しもなかった。

きっと、この道の先には、素敵な出会いが待っている。

そんな確信があったからだ。

七変化の泉は、一体どんな色で私を迎えてくれるのだろうか。

私は期待に胸を膨らませながら、さらに森の奥深くへと足を進めていった。

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