法と人の狭間で
秋山水酔亭
第一話 監視国家の夜明け
第一部:監視国家の夜明け
都市は眠らない。いや、正確には、眠りを許されない。巨大なクリスタル製の監視塔が、その尖塔を夜明け前の鉛色の空に突き立て、無数の視線と電波を都市全域に張り巡らせている。その光景は、秩序という名の重厚な鎧を纏った巨大な機械生命体のようでもあった。
オルドは、その機械生命体の神経細胞の一つとして、今日もまた、完璧なルーティンをこなしていた。白い制服に身を包んだ彼は、監視員という職務に就いてまだ数年だが、既にその頭角を現し、国家の監視機構における若きエリートとしての地位を確立していた。彼の職場は、監視塔の上層階にあるメインコントロールルーム。壁一面を埋め尽くす巨大なスクリーンには、都市のあらゆる区画、あらゆる住民の活動がリアルタイムで映し出されている。
「今日の犯罪予測はCセクターにて軽度の不法侵入が2件、Dセクターにて無許可集会の可能性が1件。優先度は全て低に設定されています」、機械的な音声が淡々と報告を読み上げる。
オルドは、コーヒーカップを片手に、その報告に耳を傾けながら、スクリーンに映る群衆を見下ろしていた。彼らは、決められた時間に起床し、決められたルートを通り、決められた仕事に就き、決められた余暇を過ごす。ホログラム広告は彼らの消費欲を刺激し、メディアは彼らの感情を均一化する。どこまでも従順で、どこまでも予測可能。
「大衆とは何とも愚かな連中だ」、オルドは心の中で呟いた。彼らの心には信念などなく、ただ現状維持という名の惰性だけが宿っているように見えた。彼らは、秩序がなければすぐに混沌に陥るだろう。だからこそ、自分たちがいる。自分たちが、彼ら大衆に代わってこの完璧な秩序を維持しなければならないのだ。
オルドの信念は揺るぎない。「人の価値は秩序に従うこと」。秩序に従い、システムの一部として機能することで、人は初めて意味を持つ。それ以外の価値など、存在しない。彼の冷静沈着な振る舞いは、その確固たる信念に裏打ちされたものだった。時に上官の指令に疑問を抱くこともあったが、それはあくまで秩序をより効率的に運用するための方策に対する疑問であり、この秩序そのものに対する疑いなど、その萌芽すら芽生えたことはない。今日の業務も、その確信を強めるものとなるだろうと、彼は何の疑いもなく考えていた。
都市の華やかな中心部から遠く離れた、崩れかけた建造物が密集する違法区域。そこは、監視の目が届きにくい、あるいは意図的に見過ごされている場所だった。街の光が届かない闇の中で、ウーシアは活動していた。
「おい、ウーシア! こっちだ!」
路地裏の奥から、焦った声が響く。ウーシアは、その声の主、地下組織の仲間に向かって振り返った。仲間の腕には、監視機構のドローンが仕掛けた追跡タグが埋め込まれている。そのタグが発する微弱な信号は、まもなくオルドのような監視員の目に留まるだろう。
ウーシアの表情は、常に情熱的で、皮肉を恐れない強さを持っていた。しかし、その奥には、他人を見捨てられない「どうしようもないお人よし」の側面が隠されていた。彼の信念は明快だ。「人の価値は何を為すかで決まる」。行動こそが、人を人たらしめる。訳の分からない不気味なガラクタシステムなど、彼にとっては何の意味もなさない。
「馬鹿なこと言うな! お前が行けば、全員捕まる! 俺が囮になる!」
ウーシアは、仲間を路地の奥へと押しやり、自らは開けた場所へと飛び出した。彼の動きは機敏で、都市の地形を知り尽くし、幼いころから駆け回った路地で監視を振り切ることなど、児戯にも等しい。廃墟の影を縫うように走り、崩れた壁を蹴り、錆びついたフェンスの隙間をすり抜ける。彼の脳裏には、仲間を守ること、そしてこのくだらないシステムに一矢報いることだけがあった。
メインコントロールルームで、オルドは新たな警報に目を向けた。Cセクターの不法侵入とは別に、Gセクター、違法居住区画で大規模な追跡信号が検知されたのだ。 「Gセクター、識別コードW-7734。特徴:単独行動、高い身体能力。過去のデータと照合。コードネーム『ウーシア』と一致」、システムが報告する。
オルドの唇に、微かな笑みが浮かんだ。彼の知る大多数の「愚かで、怠惰で、愚鈍な大衆」とは異なる、明確な意思を持ったイレギュラーな存在。それは、彼にとってある種の刺激でもあった。 「全ユニット、W-7734の追跡を優先。制圧コードを発動せよ」 オルドの指示が飛ぶと、都市のあらゆる場所から監視ドローンが飛び立ち、武装したパトロールユニットがGセクターへと急行する。オルドは、その追跡の指揮を執りながら、スクリーンの中心に映るウーシアの姿を凝視した。
ウーシアは、廃墟となった工場跡地を駆け抜けていた。背後からは無数のドローンが追尾し、行く手には武装した監視員が待ち構えている。彼は瞬時に状況を判断し、工場内の巨大な崩れかけた機械の隙間へと滑るように飛び込んだ。ドローンが追突し、火花を散らす。その混乱に乗じて、ウーシアはさらに奥へと進む。
しかし、その先に、白い制服を纏った人影が立ちはだかる。オルドだった。彼は、ウーシアは部下の手に余ることを瞬時に察知し、自らウーシアの拘束に向かっていたのだ。
「ウーシア、観念しろ。無駄な抵抗だ」
オルドの声は冷静で、感情の欠片も感じさせない。 ウーシアは警戒しながらも、その男の存在感に一瞬、目を奪われた。のりの効いた制服に、完璧に整えられた容姿、揺るぎない自信に満ちた佇まい。まさに「秩序の象徴」だった。
「観念する? 笑わせるな。俺は、俺の価値を行動で示す」
ウーシアは即座に反論した。 オルドは微かに眉をひそめた。その言葉は、彼の信念と真っ向から対立する。
「君の行動は、ただの無秩序な破壊だ。その行為に価値などない」
オルドは静かに、しかし素早い動きでウーシアに飛びかかった。彼は安楽椅子からモニターを眺める類の指揮官ではない。監視員として最高の訓練を受けたエリートなのだ。格闘術も一流だった。
とはいえウーシアもまた、長年の逃亡生活で培った身体能力と野生の勘を持つ、アンダーグラウンドではいっぱしの人物だ。ねじ曲がった金属製の柱を足場に飛び上がり、オルドの攻撃をかわす。互いの拳が空を切り、足が交錯する。まるで、秩序と混沌、光と闇がぶつかり合うかのような激しい攻防が繰り広げられた。
一瞬の隙をつき、オルドはウーシアの腕を掴み、地面に叩きつけた。ウーシアは痛みに顔を歪めるが、その目は決して怯んでいない。 「捕らえたぞ、ウーシア」オルドは冷たく言い放つ。 しかし次の瞬間、ウーシアは左腕に隠し持っていた電磁パルス発生装置を起動させた。袖に隠せるほど小型ながら、局地的に電子機器を麻痺させる代物だ。 「ちっ」オルドは舌打ちした。視界の端で、彼の装着している通信機器がノイズを発しているのが見えた。その隙を逃さず、ウーシアはオルドの拘束を振りほどき、崩れた壁の隙間へと滑り込んだ。 「またな、監視員さんよ!」ウーシアの声が、闇の中に吸い込まれていく。 オルドは、追跡ユニットに再接続しようとするが、通信はまだ回復していなかった。彼は、ウーシアが消えた方向を睨みつけ、唇を噛んだ。初めての拘束失敗だった。そして、この「イレギュラー」に対する、奇妙な興味が芽生えた瞬間でもあった。
それから数日後、オルドは非番の日に、珍しく市街地のカフェテラスで読書をしていた。都市の中心部は、監視ドローンこそ飛んでいるものの、比較的自由な空間が許されている。秩序の恩恵を最大限に享受する場所だ。
「おいおい、こんなところで読書とは、上品な趣味だな、監視員さんよ。今日は非番かい?羨ましいねえ、公務員ってやつは」
突然、耳慣れた声が聞こえ、オルドは顔を上げた。目の前に立っていたのは、他ならぬウーシアだった。彼はフードを目深にかぶり、周囲に溶け込むようにオルドのテーブルに何食わぬ顔で座った。オルドは警戒心を露わにするが、ウーシアの表情に敵意はない。ただ、好奇心が彼の目から溢れている。
「ふむ。君のような犯罪者が、こんな場所にいるとは驚きだね」
オルドは動揺を悟られぬよう、本に視線を落としながら努めて冷静に答えた。
「世の中、何が起きるかわからないもんだろ? 偶然の再会ってやつだ。ちょっと話でもしないか?」
ウーシアはどっしりと腰掛け、店員を呼び止めてコーヒーを注文している。彼の動作には、常に計算された隙と、しかし大胆な行動力が感じられた。オルドとしては今すぐ飛び掛かりたい気持ちだったが、非番の監視員に市民の拘束権限はないし、現行犯でもないのに騒ぎを起こすことは彼のキャリアに響きかねない。
オルドは静かにホットチョコレートを一口飲むと、ウーシアに向き直った。
「何を話すことがある? 君と私では、立つべき土台が違う」
「だから面白いんじゃねえか。あんたは『秩序こそが人の価値』だと言い、俺は『行動こそが人の価値』だと言った。なあ。あんたの言う秩序ってのは、一体何なんだ?」
ウーシアはテーブルに両肘をつき、オルドの目をまっすぐに見つめた。彼の情熱的な視線は、オルドの冷たい心を揺さぶるようだった。
「秩序とは、無秩序から人々を守るためのものだ。法と規則に従うことで、社会は安定し、大衆は安全に暮らすことができる。君のような犯罪者は、その尊い秩序を乱し、社会に混乱をもたらす存在だ。君たちの行動は、何の価値も生み出さない」
オルドは抑揚のない声で語った。彼の言葉には、揺るぎない確信があった。
「安全に暮らす? あんたの言う安全ってのは、思考停止した奴隷のように生きることか? 法と規則に従うことで、人は何を失うと思う? 自由、選択、そして何より、自分自身の意志だ。俺は、そうやって飼いならされた人間にはなりたくない。俺は、自らの意思で行動し、自らの価値を証明する。それが、俺の生き方だ」
ウーシアの言葉は、オルドの冷徹な理性に対して、融解した鉄のように激しく煮えたぎっている。
「自由とは、無責任な行動の言い訳に過ぎない。君の言う『行動』は、常に誰かを傷つけ、誰かの秩序を破壊する。それはエゴイズムだ」
「あんたの言う『秩序』は、弱者を踏みつけ、権力者の都合のいいように捻じ曲げられた、欺瞞の象徴だ」
互いの思想が、カフェテラスの喧騒の中で火花を散らす。 「人の価値は秩序に従うこと」と信じるオルドと、「人の価値は何を為すかで決まる」と主張するウーシア。 彼らは、互いの中に存在する最も根源的な信念を、初めてぶつけ合った。彼らは、互いの存在を、自らの思想を映し出す鏡として認識した。憎しみだけでなく、ある種の理解と、それゆえの激しい対抗意識がそこにはあった。
「この議論に終わりはないな、監視員さん。楽しかったぜ。」
ウーシアはコーヒーを飲み干して立ち上がった。
「だが、覚えておけ。この都市の秩序は、砂上の楼閣だ。俺はいつか、必ずそれを打ち砕いてやる」
「その時が来れば、私が君を止めるとも」
オルドは静かに言い放った。 ウーシアは不敵な笑みを浮かべ、人混みの中に消えていった。オルドは、冷めきったホットチョコレートを一口飲むと、その残像を追うように遠くを見つめていた。彼は自らの心に、ウーシアという存在が深く刻み込まれたのを感じていた。
法と人の狭間で 秋山水酔亭 @heinkel
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