貴族令嬢は、真実の色を知らない
トムさんとナナ
貴族令嬢は、真実の色を知らない
## 第一章 街角の画家
春の陽だまりが石畳を温める午後、アリシア・ドゥ・ヴァンドーム侯爵令嬢は、いつものように護衛のガルと執事のセバスチャン、そして侍女のマリーを従えて街を歩いていた。
「お嬢様、そろそろお屋敷にお戻りになられては」
セバスチャンの声が背後から聞こえるが、アリシアの足は自然と街の一角へと向かっていく。
そこには小さな広場があり、いつも同じ場所で絵を描いている青年がいるのだ。
「少しだけよ、セバスチャン」
アリシアがそう答えた時、彼の姿が見えた。
エティエンヌ・マルトー。
街の人々は彼を「貧乏画家」と呼ぶが、アリシアにはそんな呼び名などどうでもよかった。
彼が筆を握る手、キャンバスに向かう真剣な横顔、そして何より、彼の描く絵の美しさ。
今日も彼は噴水の前に小さなイーゼルを立てて、色とりどりの絵の具を混ぜながら風景を描いている。
アリシアは遠くからその様子を眺めながら、胸の奥で何かが温かくなるのを感じていた。
「あの方の絵は本当に美しいわね」
独り言のつもりだったが、マリーの耳に届いてしまった。
「お嬢様? あの汚らしい格好の男のことでございますか?」
「汚らしいだなんて! 彼は素晴らしい芸術家よ」
アリシアの頬が薄紅色に染まるのを見て、マリーとセバスチャン、そしてガルは顔を見合わせた。
「まさか、お嬢様があのような身分の低い者に...」セバスチャンが小声で呟く。
「これは大変なことになりましたね」マリーが心配そうに首を振る。
「俺が今すぐあの男を...」ガルが拳を握りしめるが、セバスチャンに制止される。
「いえいえ、ガル様。もっと上品に、お嬢様のお心を画家様から遠ざける方法を考えましょう」
三人の密談を知らず、アリシアはエティエンヌの絵に見入っていた。
彼の描く色彩は、まるで魔法のように鮮やかで、見る者の心を捉えて離さない。
「もう少し近くで見たいわ」
アリシアがそう呟いた瞬間、セバスチャンの頭に電球が点った。
「お嬢様、それでしたら私にお任せください。きっと素晴らしい鑑賞の機会をご用意いたします」
翌日、エティエンヌが いつものように絵を描いていると、突然立派な馬車が止まり、燕尾服を着た執事が降りてきた。
「エティエンヌ・マルトー様でいらっしゃいますね」
「は、はい...」
エティエンヌは筆を持ったまま固まった。
こんな上流階級の人間が自分に何の用があるのだろう。
「私はヴァンドーム侯爵家の執事、セバスチャンと申します。我らが令嬢様が、あなた様の芸術作品を大変お気に入りになられまして」
セバスチャンは懐から重い革袋を取り出した。
中から金貨がちゃりんちゃりんと音を立てる。
「つきましては、この金貨百枚で、あなた様の作品を全てお譲りいただけないでしょうか」
エティエンヌの顔が青ざめた。
金貨百枚は、彼が一年かけても稼げない額だった。
しかし、彼にとって絵は命よりも大切なものだった。
「お断りします」
「ほう、では二百枚では?」
「金額の問題ではありません。私の絵は売り物ではないのです」
セバスチャンの目がきらりと光った。
これは思った以上に手強い相手かもしれない。
「では、三百枚...いえ、五百枚ではいかがでしょう」
「お帰りください!」
エティエンヌが立ち上がって叫んだ時、偶然通りかかったアリシアが この光景を目撃してしまった。
彼女には、セバスチャンが親切に画家の絵を購入しようとしているように見えた。
「あら、セバスチャン。もう交渉が済んだの?」
「いえいえ、お嬢様。こちらの画家様は、なかなか商売上手でいらして...」
エティエンヌはアリシアを見た。
美しいドレスに身を包み、宝石を身につけた典型的な貴族令嬢。
彼の心に怒りが湧き上がった。
(この女が、俺の絵を金で買おうとしているのか)
「お嬢様、失礼いたします」
エティエンヌは絵道具を乱暴にまとめると、足早にその場を去って行った。
後に残されたアリシアは、ぽかんと口を開けたまま彼の後ろ姿を見送っていた。
「あの...私、何かしたかしら?」
「いえいえ、お嬢様。きっと緊張なさったのでしょう。明日はもう少し上手くいくはずです」
セバスチャンの自信満々な笑顔を見て、アリシアは首をかしげた。
なぜだか不安な予感がする。
## 第二章 善意という名の災難
翌日、エティエンヌが広場で絵を描いていると、また昨日の執事がやってきた。
しかし今度は一人ではない。
厳つい護衛らしき男が三人も付いている。
「画家様、昨日は失礼いたしました。今日は別のご提案があります」
ガルが前に出ると、太い腕を組んで威圧的にエティエンヌを見下ろした。
「俺はガル。ヴァンドーム家の護衛隊長だ」
エティエンヌの手が震えた。
護衛隊長? 一体何のつもりだ。
「お嬢様はな、お前の安全を心配してらっしゃるんだ。こんな人通りの多い場所で絵を描いていて、もし何かあったらどうする?」
「は?」
「だから俺たちが、お前を守ってやることになった」
ガルが指を鳴らすと、護衛たちがエティエンヌの周りに陣取った。
完全に包囲されている。
「ちょっと待ってください。私は別に守ってもらわなくても...」
「いいや、お嬢様のご命令だ。これからお前がどこに行こうと、俺たちが付いていく」
それから一週間、エティエンヌの生活は地獄と化した。
朝起きると護衛が家の前で待っている。
絵を描きに行けば周りを囲まれ、パンを買いに行けば店主が怯えた顔で無料で差し出してくる。
まるで自分が危険人物扱いされているようだった。
「頼む、もうやめてくれ。私は普通に暮らしたいだけなんだ」
「だめだ。お嬢様のご命令だからな」
ガルは全く聞く耳を持たない。
そんなある日、アリシアがひっそりと広場を訪れた。
エティエンヌの絵を見るのを楽しみにしていたのだが、そこには異様な光景が広がっていた。
護衛たちに囲まれたエティエンヌが、まるで檻の中の動物のように絵を描いている。
「あら? あの護衛たちは何をしているの?」
マリーが慌てたように答える。
「あ、あれでございますか? ガル様が画家様の安全を守っているのでございます」
「安全を? でも画家さん、とても嫌そうに見えるけれど...」
「そ、そんなことございません! きっと緊張していらっしゃるのでしょう」
アリシアは首をかしげたが、護衛たちが自分の指示で動いているとは思いもしなかった。
その夜、アリシアは一人で部屋にいた。
「画家さんの絵が見たいわ。でも最近、なんだか元気がないように見える...」
アリシアのその呟きを、偶然通りかかったマリーが聞いてしまった。
「お嬢様が画家の元気を心配している...これは何か励ましの品を送らねば!」
マリーは善意で動いた。
翌朝、エティエンヌの元に豪華な花束と、宝石をちりばめた絵筆セットが届けられた。
しかし、配達方法が問題だった。
マリーは取り巻きのメイドたちと共に、エティエンヌが絵を描いている最中に大げさに登場し、まるで施しでも与えるかのように贈り物を放り投げた。
「ヴァンドーム侯爵令嬢様からの贈り物よ! ありがたく受け取りなさい!」
周囲の人々がざわめいた。
エティエンヌの頬が屈辱で真っ赤になる。
「受け取れません」
「何ですって? 侯爵令嬢様の好意を無下にするの?」
「私は物乞いではありません!」
エティエンヌは立ち上がると、絵道具をまとめて立ち去ろうとした。
しかし、護衛たちが行く手を阻む。
「おい、お嬢様からの贈り物を受け取らないのか?」
「俺は貴族の飼い犬になるつもりはない!」
その時、アリシアが現れた。
彼女は騒ぎを聞いて慌てて駆けつけたのだ。
「皆さん、何をしているの?」
アリシアを見たエティエンヌの目が、憎悪に燃えた。
「あなたですね、俺を弄んでいるのは」
「え?」
「金で絵を買おうとし、護衛で監視し、施しのような贈り物で屈辱を与える。あなたは俺を何だと思っているのですか?」
アリシアは目を丸くした。
そんなつもりは全くなかった。
しかし、客観的に見れば確かにそう見えてしまう。
「そんな...私はただ...」
「もう二度と俺の前に現れないでください」
エティエンヌは絵道具を担いで去って行った。
護衛たちが後を追おうとするが、アリシアが手で制した。
「やめて。もう、やめて」
アリシアの目に涙が浮かんでいた。
## 第三章 フィルターの向こう側
それから一週間、アリシアは部屋に閉じこもっていた。
窓から見える街の風景も、いつもの美しさを失ったように見える。
「お嬢様、お食事の時間でございます」
マリーが心配そうに部屋に入ってくる。
「マリー、聞かせて。あの時、私は本当にひどいことをしたの?」
「そんな、お嬢様! あの画家が身の程を知らないだけでございます」
「でも彼の目...あんなに悲しそうだったわ」
アリシアは立ち上がると、窓辺に歩み寄った。
「私、これまで自分の目で何かを見たことがあるのかしら」
「お嬢様?」
「いつも誰かが先回りして、誰かが整えて、誰かが説明してくれて。私は本当の彼を知ろうともしなかった」
アリシアの決意が固まった。
「マリー、今日は一人で出かけるわ」
「そんな、危険でございます!」
「大丈夫よ。私にも足があるし、目があるし、自分の言葉があるもの」
マリーが慌てて執事を呼びに行こうとするが、アリシアはもう部屋を出ていた。
アリシアは生まれて初めて、たった一人で街を歩いた。
護衛も執事も侍女もいない。ただ一人の女性として。
最初は不安だったが、歩いているうちに不思議な解放感を覚えた。
街の人々の声、商人の売り声、子供たちの笑い声。
今まで気づかなかった街の生の音が聞こえてくる。
エティエンヌのアトリエは、街外れの古い建物の一角にあった。
アリシアは扉の前で深呼吸をすると、勇気を振り絞って扉を叩いた。
「誰だ?」
中から警戒したエティエンヌの声が聞こえる。
「あの...アリシア・ドゥ・ヴァンドームです」
しばらく沈黙が続いた後、扉がゆっくりと開いた。エティエンヌが顔を出すが、その表情は相変わらず冷たい。
「護衛はどこです?」
「一人で来ました」
「嘘だ。どうせその辺に隠れているんでしょう」
エティエンヌは辺りを見回すが、本当に誰もいない。
アリシアが一人でここまで来たことに、彼は驚きを隠せなかった。
「信じてもらえないかもしれませんが、お話があります。中に入れていただけませんか?」
エティエンヌは迷ったが、彼女の真剣な表情を見て、仕方なく扉を開けた。
アトリエの中は、絵と絵の具の匂いに満ちていた。
壁には彼の作品がところ狭しと並んでいる。
アリシアは息を呑んだ。
どの絵も、見たことのないような色彩と表現力に満ちている。
「素晴らしい...」
「何の用ですか」
エティエンヌの声は冷たいままだった。
「謝りに来ました」
アリシアは深く頭を下げた。
「私のせいで、あなたに嫌な思いをさせてしまって。でも本当に、私はあなたを困らせるつもりはなかったんです」
「はあ? あなたが指示したんじゃないのですか?」
「私は...私は確かに、あなたの絵が素晴らしいと言いました。もっと見たいとも言いました。心ばかりの贈り物をとも言いました。でも」
アリシアは顔を上げた。
その目には涙が浮かんでいる。
「でも、私は金でしあなたの絵を買えとは言っていません。護衛で監視しろとも、施しのような贈り物をしろとも言っていません」
エティエンヌの表情が微妙に変わった。
「では、あれは...」
「周りの人たちが、私の気持ちを察して勝手にやったことです。私はそれに気づくことすらできませんでした」
アリシアは目を拭いながら続けた。
「私は今まで、自分の目で物事を見たことがなかったんです。いつも誰かが私のために考え、誰かが私のために行動してくれて。でも、それが あなたを傷つけていたなんて」
エティエンヌは黙って彼女の話を聞いていた。
「私、本当のあなたを知りたいんです。あなたの絵に込められた思いを理解したいんです。もし、もし私を許してくださるなら...」
「あなたは」
エティエンヌがゆっくりと口を開いた。
「本当に一人で来たんですね」
「はい」
「貴族令嬢が、こんな薄汚いアトリエに」
「薄汚いだなんて、とんでもない。ここは創造の場所です。こんなに美しい絵が生まれる場所が、汚いわけがありません」
エティエンヌの心の中で、何かががらがらと崩れる音がした。
## 第四章 真実の色
「あなたは...本当にあの侯爵令嬢ですか?」
エティエンヌの声に困惑が混じっていた。
「ええ、でも今は、ただのアリシアです」
アリシアは微笑んだ。
その笑顔は、宮廷で見せる作られた微笑みではなく、心からの自然なものだった。
「私、あなたの絵を初めて見た時から、胸がどきどきして。どうしてあんなに美しい色を作り出せるのかしらって」
エティエンヌは驚いた。
これまで多くの人が彼の絵を見たが、色について言及したのは彼女が初めてだった。
「色...ですか」
「ええ。特にあの夕焼けの絵。オレンジとピンクと紫が混じり合って、まるで魔法みたい」
エティエンヌの頬が薄っすらと赤くなった。
彼が最も自信を持っている技法について、彼女は正確に理解していた。
「あの絵は...光の加減を何度も観察して描いたんです」
「やっぱり! きっとたくさん勉強されたのでしょうね」
エティエンヌは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「勉強なんて大それたものじゃありません。ただ、好きだから描いているだけです」
「好きだから」アリシアがその言葉を繰り返した。
「素敵ね、好きだからという理由」
二人の間に、今度は温かい沈黙が流れた。
「あの、もしよろしければ」エティエンヌが恐る恐る口を開いた。
「今度新しい絵を描く予定なんです。もし...もしお時間があるようでしたら、見に来ていただけませんか?」
アリシアの顔がぱあっと明るくなった。
「本当ですか? ぜひお願いします!」
しかし、その時アトリエの扉が勢いよく開かれた。
「お嬢様! こんなところにいらっしゃったのですね!」
セバスチャンとマリー、そしてガルが息を切らして入ってきた。
「大変失礼いたしました、画家様。お嬢様をお騒がせして」
セバスチャンが深々と頭を下げると、マリーも続いた。
「まったく、お嬢様たら。こんな危険な場所にお一人で」
「危険って何よ。ここは素晴らしいアトリエじゃない」
「お嬢様、お戯れを。こんな場所」
「マリー!」
アリシアの声に、マリーがびくっとした。
これまで聞いたことのない、強い調子だった。
「画家さんの前で、そんな失礼なことを言わないで」
マリーは目を丸くした。
お嬢様がこんなに毅然とした態度を取るなんて。
「でも、お嬢様...」
「私はもう子供ではありません。自分で判断できます」
アリシアはエティエンヌの方を向いた。
「すみません。また私の周りの人たちが...」
「いえ」エティエンヌが首を振った。
「彼らも、あなたのことを思ってのことでしょう」
エティエンヌの目が、アリシアをじっと見つめた。
「でも、あなたは一人で来てくれた。それが...それがとても嬉しいです」
セバスチャンとマリー、ガルは顔を見合わせた。
どうやら事態は、彼らが思っていたよりも複雑らしい。
## 第五章 取り巻きたちの大作戦
その夜、ヴァンドーム侯爵邸では緊急会議が開かれていた。
参加者はセバスチャン、マリー、ガル、そして料理長のクロード、庭師のピエールまで呼ばれている。
「諸君、事態は深刻だ」セバスチャンが眼鏡を光らせた。
「お嬢様は本気で、あの画家に恋をしておられる」
「まあ、大変!」マリーが両手で口を覆う。
「で、どうする?」ガルが腕を組む。
「俺はやっぱり、あの男を遠くに飛ばしてしまうのが一番だと思うが」
「いえいえ、暴力はいけません」セバスチャンが手を振る。
「もっと頭を使うのです」
料理長のクロードが手を上げた。
「私からご提案があります。画家というのは貧乏でしょう? だったら、美味しい料理を毎日差し入れして、太らせてしまえばいいのです。そうすれば お嬢様も興味を失うでしょう」
「なるほど!」マリーが手を叩く。
「私も協力します。最高級の食材を使って、毎日ご馳走を運びましょう」
庭師のピエールも提案した。
「私は画家の周りを美しい花で飾りましょう。あまりに豪華すぎて、彼が場違いに見えるように」
「素晴らしい!」セバスチャンが立ち上がった。
「ガル君は引き続き護衛を。私は さらに高価な道具を差し入れしましょう。これで画家は完全に場違いになり、お嬢様も諦めるはずです」
翌日から、エティエンヌの周りは さらなるカオスに包まれた。
朝から晩まで豪華な料理が届けられ、アトリエの周りは宮殿の庭園のような花々で飾られる。
高価な絵の具や筆が山のように積まれ、護衛たちは より威圧的に周囲を固めた。
エティエンヌは混乱の中で絵を描こうとするが、もはや集中などできない。
「一体何が起こっているんだ...」
しかし最悪だったのは、街の人々の反応だった。
「見ろよ、あの画家。貴族のお気に入りになって、すっかり調子に乗ってる」
「昔は質素だったのに、今じゃ王様みたいな扱いだ」
「きっと令嬢を騙してるんだ」
エティエンヌは耐えられなくなった。
これでは絵が描けない。
エティエンヌはその夜、静かに決意した。明日の朝、街を去ろうと。
## 第六章 一人の勇気
アリシアがエティエンヌの広場を訪れると、そこはもぬけの殻だった。
いつものイーゼルもない。
「あの画家さんはどこ?」
通りがかりの商人が答えた。
「ああ、彼なら街を出て行ったよ。昨日の朝早くにね」
アリシアの顔が青ざめた。
「どちらの方向に?」
「北の森の方だったかな」
アリシアは走った。靴が脱げそうになりながら、ドレスの裾を翻しながら、必死に走った。
北の森の入り口で、ようやくエティエンヌの姿を見つけた。
彼は大きな木の下で、一人絵を描いている。
「エティエンヌ!」
アリシアの声に、エティエンヌが振り返った。
「なぜ来たんですか」
「なぜって...」アリシアは息を切らしながら答えた。
「だって、私まだちゃんとお話ししていないもの」
「もう充分でしょう。あなたの取り巻きたちの親切は、もううんざりです」
「私も、うんざりよ」
エティエンヌが驚いた表情を見せた。
「私も、あの人たちのやり方にはうんざり。だから一人で来たの」
アリシアは彼の隣の地面に腰を下ろした。
高価なドレスが汚れることなど気にしない。
「聞いて。私、今まで自分で何かを決めたことがなかったの。いつも誰かが先回りして、私の気持ちを代弁して、勝手に行動してくれるから」
エティエンヌは絵筆を止めて、彼女の話に耳を傾けた。
「でも、あなたの絵を見た時、初めて自分で感じたの。この美しさを、この感動を、誰かに説明してもらわなくても理解できた」
アリシアの声が震えていた。
「だから、あなたが街を出ると聞いて、放っておけなかった。私の本当の気持ちを、直接あなたに伝えたかった」
エティエンヌがゆっくりと絵筆を置いた。
「あなたの...本当の気持ち?」
「私、あなたの絵が大好きです。そして...」
アリシアの頬が真っ赤になった。
「あなたが絵を描いている姿を見ていると、とても幸せな気持ちになるの」
森の中に、鳥のさえずりだけが響いていた。
「僕も」エティエンヌが小さな声で言った。
「実は...あなたが初めて僕の絵を見てくれた時、とても嬉しかった」
「本当?」
「ええ。あなたの目が、本当に美しいものを見る目だということが分かったから」
二人の距離が少しずつ縮まっていく。
「でも、その後があまりにもひどくて...」
エティエンヌは苦笑いを浮かべた。
「金で絵を買おうとされた時は、本当にショックでした。僕の絵に値段をつけられるなんて」
「ごめんなさい。セバスチャンは善意だったのでしょうけれど」
「護衛に囲まれた時は、まるで犯罪者になった気分でした」
「あれもガルの善意だったの。でも今思えば、とんでもないことよね」
「高価な贈り物を投げつけられた時は、完全に見下されたと思いました」
「マリーの善意...でも、これも本当にひどい」
二人は顔を見合わせて、同時に笑い出した。
「私たち、とんでもない誤解をしていたのね」
「ええ、まったく」
エティエンヌは絵筆を手に取った。
「実は、この一週間で一番驚いたことがあるんです」
「何?」
「あなたが、僕の絵の色について正確にお話しされたこと。技法についても理解されていたこと」
エティエンヌの目が輝いていた。
「貴族の方で、絵画をここまで理解される方に出会ったことがありません」
「私、絵が大好きなの。宮廷画家の絵もたくさん見たけれど、あなたの絵は全然違う。もっと...生きているみたい」
「生きている...」
エティエンヌはその表現が気に入ったようだった。
「僕は、見たままの色ではなく、感じた色を描くんです」
「感じた色?」
「例えば夕日。実際の夕日はオレンジ色ですが、僕には もっと複雑な色に見える。希望の黄色、寂しさの紫、温かさの赤...それらを全部混ぜて描くんです」
アリシアは感動で言葉を失った。
「素晴らしい。それで、あんなに心を揺さぶる絵が描けるのね」
エティエンヌは新しいキャンバスを立てると、絵筆に絵の具をつけた。
「今、僕には新しい色が見えています」
「どんな色?」
「あなたと話している時の、僕の気持ちの色です」
エティエンヌが筆を動かすと、キャンバスに優しいピンク色が広がった。
その上に、希望に満ちた水色、そして安らぎの薄緑色が重ねられていく。
「きれい...」
アリシアは息を呑んだ。
その絵は、まるで彼女の心の中を覗いたような、温かくて幸せな色に満ちていた。
「これが、僕があなたといる時に感じる色です」
二人の目が合った。
その瞬間、今まで二人の間にあったフィルターが全て消えた。
身分も噂も他人の言葉も、もう関係ない。
「エティエンヌ...」
「アリシア...」
二人がゆっくりと近づいた時、森の奥から大声が響いた。
「お嬢様ああああ!」
マリーの絶叫だった。
「お嬢様を探せ! 北の森だ!」
セバスチャンの指示する声も聞こえる。
「ああ、見つかってしまった」アリシアが苦笑いを浮かべた。
「逃げませんか?」
エティエンヌの提案に、アリシアの目が輝いた。
「逃げるって?」
「僕の秘密の場所があるんです。きっと誰にも見つからない」
二人は手を取り合って森の奥へと駆けて行った。
## 第七章 秘密の場所で
エティエンヌが連れて行ったのは、森の奥にある小さな洞窟だった。
中には彼が密かに描いた絵がたくさん隠されている。
「ここは僕だけの秘密のアトリエです」
洞窟の中は、ろうそくの明かりで照らされていた。
壁には、街では見せられないような大胆な色使いの絵が並んでいる。
「すごい...これ全部、あなたが?」
「ええ。ここでなら、誰にも邪魔されずに好きなだけ絵が描けるんです」
アリシアは一枚一枚の絵を丁寧に見て回った。
どの絵も、街で見たものとは全く違う大胆さを持っている。
「この絵、まるで嵐みたい」
「それは、僕が一番つらい時に描いた絵です。黒と青と白の絵の具を、感情のままにキャンバスに叩きつけました」
「この絵は?」
アリシアが指さしたのは、暖かい光に満ちた絵だった。
「それは...」エティエンヌが恥ずかしそうに俯いた。
「あなたを初めて見た日に描いた絵です」
絵には、光に包まれた女性のシルエットが描かれていた。
金髪が風になびき、微笑みを浮かべている。
「私...?」
「ええ。あなたが僕の絵を見てくれた時の、あの嬉しそうな表情。どうしても描きたくて」
アリシアの心臓が激しく鼓動した。
「私のことを、そんな風に見てくれていたの?」
「はい。あなたは僕が今まで出会った中で、一番美しい人です。外見だけでなく、心も」
その時、洞窟の外から声が聞こえてきた。
「お嬢様、どこにいらっしゃるのですか」
セバスチャンたちが近づいてくる。
「きっとすぐに見つかってしまうわ」アリシアが困った顔をした。
「大丈夫です」エティエンヌが微笑んだ。
「この洞窟の奥には別の出口があります。でも、その前に」
エティエンヌは新しいキャンバスを取り出した。
「あなたの本当の色を描かせてください」
「私の本当の色?」
「ええ。誰かに作られたあなたではなく、本当のあなたの色を」
エティエンヌは素早く筆を動かした。
彼が描いたのは、高貴な青でも優雅な紫でもなく、暖かいオレンジ色だった。
「オレンジ?」
「あなたは太陽のような人です。周りを照らし、温かくして、みんなを幸せにする」
アリシアの目に涙が浮かんだ。
「誰も、私をそんな風に言ってくれたことがなかった」
「それが僕の見る、本当のあなたです」
二人はもう一度見つめ合った。
今度は誰にも邪魔されることなく。
「エティエンヌ、私...」
「僕も、アリシア」
二人の唇が重なろうとした時、洞窟の入り口から大きな音がした。
「見つけたぞ! お嬢様はここにいらっしゃる!」
ガルの声だった。
## 第八章 大混乱の追跡劇
「こっちです!」
エティエンヌはアリシアの手を引いて、洞窟の奥の出口へと向かった。
二人は息を切らしながら森の中を駆け抜ける。
「お嬢様ああああ!」
後ろからマリーの悲痛な叫び声が聞こえてくる。
「画家め、お嬢様を誘拐するとは!」
セバスチャンの怒鳴り声も響いた。
「誘拐って、酷い濡れ衣ね」アリシアが苦笑いを浮かべながら走る。
「僕たち、犯罪者みたいですね」エティエンヌも笑った。
二人は森を抜けて、丘の上まで駆け上がった。
そこからは街全体が見渡せる。
「きれい...」
アリシアが息を切らしながら呟いた。
夕日が街を照らし、オレンジ色の光が建物を染めている。
「あなたが描いた夕日の絵と同じ色」
「ええ。でも今は、もっと美しく見えます」
「どうして?」
「あなたと一緒に見ているから」
その時、丘の下から追跡隊の声が聞こえてきた。
「あそこだ! 丘の上にいるぞ!」
「お嬢様、ご無事ですか!」
セバスチャン、マリー、ガル、そして なぜか料理長のクロードと庭師のピエールまで息を切らして駆け上がってくる。
「皆さん、どうしてそんなに慌てているの?」
アリシアが不思議そうに尋ねると、マリーが泣きそうな顔で答えた。
「お嬢様が誘拐されたかと思って!」
「誘拐? 私は自分の意志でここにいるのよ」
「でも、お嬢様がお一人でこんな危険な場所に」
セバスチャンが心配そうに言う。
「危険って何よ。エティエンヌと一緒にいて、何が危険なの?」
アリシアの言葉に、一同がざわめいた。
お嬢様が画家の名前を呼び捨てにしている。
「お嬢様、その男は怪しい人物です」ガルが前に出る。
「きっとお嬢様を騙そうと」
「ガル、やめなさい」
アリシアの声が、これまでにないほど毅然としていた。
「エティエンヌは素晴らしい人よ。彼は私を騙したりしない」
「しかし、お嬢様...」
「私はもう、他人の言葉で物事を判断するのはやめにしたの」
アリシアはエティエンヌの前に立った。
「私は自分の目で見て、自分の心で感じたことを信じるわ」
エティエンヌも立ち上がって、アリシアの隣に並んだ。
「僕も、アリシアを信じます」
二人の決意を見て、取り巻きたちは困惑した。
これまでの作戦が全て裏目に出ていることが、ようやく理解できたのだ。
## 第九章 みんなの反省会
その夜、ヴァンドーム侯爵邸の応接室では、異例の会議が開かれていた。
参加者は当のアリシアとエティエンヌ、そして問題の取り巻きたち全員だった。
「では、改めて話し合いましょう」
アリシアがテーブルの上座に座り、エティエンヌが隣に座った。
向かい側には、しょんぼりとした表情の セバスチャン、マリー、ガル、クロード、ピエールが並んでいる。
「まず、セバスチャン」
「はい、お嬢様」
「あなたが金で絵を買おうとしたのは?」
「お嬢様が『素晴らしい絵』とおっしゃったので、きっとお求めになりたいのだと...」
「私は『素晴らしい』と言っただけよ。『買いたい』とは言っていないわ」
「申し訳ございません」
セバスチャンが深々と頭を下げた。
「次に、ガル」
「はい、お嬢様」
「なぜ護衛を付けたの?」
「お嬢様が『もっと見たい』とおっしゃったので、きっと画家の身辺調査をご希望なのかと...」
「『もっと見たい』というのは『もっと絵を見たい』という意味よ。『監視しろ』という意味ではないわ」
「すみません」
ガルも頭を下げた。
「マリー」
「はい、お嬢様」
「あの贈り物は?」
「お嬢様が『心ばかりの贈り物を』とおっしゃったので、最高級の品を...」
「『心ばかり』というのは『ささやかな』という意味よ。『最高級』の正反対のことなの」
「ああ...」
マリーが両手で顔を覆った。
「クロード、ピエール」
「はい、お嬢様」
二人が同時に答える。
「あなたたちは なぜ参加したの?」
「お嬢様を画家から遠ざけるためでございます」
正直すぎる答えに、アリシアは思わず笑ってしまった。
「皆さん、私のことを思ってくださったのは分かります。でも」
アリシアは エティエンヌの手を取った。
「私は自分で判断できる大人です。そして、エティエンヌは素晴らしい人です」
取り巻きたちは、二人の固く結ばれた手を見て、ようやく理解した。
「お嬢様の本当のお気持ちを理解せず、申し訳ございませんでした」
セバスチャンが代表して謝罪した。
「では、これからはどうするのですか?」
マリーが心配そうに尋ねる。
「これからは」アリシアが微笑んだ。
「私が自分で決めるわ。もちろん、皆さんのアドバイスは聞くけれど、最終的な決断は私がする」
「承知いたしました」
取り巻きたちが一斉に頭を下げた。
エティエンヌが恐る恐る口を開いた。
「あの、僕のような身分の者が、侯爵令嬢様とお付き合いするなんて...」
「身分なんてどうでもいいわ」アリシアがきっぱりと言った。
「大切なのは、あなたがどんな人かということ」
「でも、世間は許さないでしょう」
「世間の目より、私の気持ちの方が大切よ」
その時、ガルが立ち上がった。
「お嬢様、俺からも一つ提案があります」
「何?」
「画家殿、あなたは男らしいですか?」
「え?」
突然の質問にエティエンヌが困惑する。
「俺と決闘してください。それで勝ったら、お嬢様をお守りする資格があると認めましょう」
「決闘って、ガル、何を言っているの」
アリシアが慌てるが、エティエンヌが立ち上がった。
「分かりました。お受けします」
「ちょっと、二人とも!」
しかし、ガルとエティエンヌはすでに向かい合っていた。
「武器は何にしますか?」ガルが拳を構える。
「僕は」エティエンヌが絵筆を握った。
「これで勝負します」
「絵筆で?」
「ええ。僕の絵で、あなたの心を動かしてみせます」
ガルは困惑した。
物理的な戦いなら負ける気がしないが、絵で勝負と言われても...
「分かった。じゃあ、俺の心を動かしてみろ」
エティエンヌは新しいキャンバスを立てると、素早く筆を動かし始めた。
彼が描いたのは、一人の大きな男性が小さな女の子を守っている絵だった。
男性の背中には温かい強さがあり、女の子は安心しきった表情を浮かべている。
「これは...」
ガルの目が大きくなった。
「あなたがアリシアを守ろうとする気持ちです。とても美しい気持ちだと思います」
絵の中の男性は、まさにガルその人だった。
しかし、威圧的ではなく、優しくて頼もしい。
「俺が...こんな風に見えるのか?」
「ええ。あなたはアリシアを心から愛し、守ろうとしている。それはとても尊いことです」
ガルの目に涙が浮かんだ。
誰も、自分をこんな風に描いてくれたことはなかった。
「参りました」ガルが頭を下げた。
「あなたの勝ちです」
セバスチャンとマリーも、その絵を見て感動していた。
「素晴らしい...」
「これが画家様の本当の力...」
エティエンヌはセバスチャンとマリーの前にも絵を描いた。
セバスチャンには、主人を陰で支える忠実な執事の姿を。
マリーには、お嬢様を娘のように愛する優しい女性の姿を。
「僕は皆さんを恨んでいません」エティエンヌが言った。
「皆さんは、アリシアを愛するがゆえに行動したのですから」
取り巻きたちは、完全にエティエンヌのファンになってしまった。
## 第十章 未来のキャンバス
それから数ヶ月後、ヴァンドーム侯爵邸の庭園で小さな絵画展が開かれていた。
主役はもちろん、エティエンヌ・マルトーの作品だ。
「皆様、本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」
アリシアが来賓の前で挨拶をしている。
招待されたのは、近隣の貴族たちや芸術愛好家たちだった。
「今日ご紹介するエティエンヌ・マルトー氏は、類まれなる才能をお持ちの画家です」
エティエンヌは緊張で手が震えていた。
こんな上流階級の人々の前で絵を披露するなんて、考えたこともなかった。
「大丈夫よ」アリシアが そっと彼の手を握った。
「あなたの絵は素晴らしいもの。自信を持って」
絵画展が始まると、来賓たちは エティエンヌの作品に釘付けになった。
「この色使いは見事だ」
「構図も斬新で美しい」
「こんな才能の持ち主がいたとは」
エティエンヌは驚いた。
てっきり身分の違いを理由に冷たくされると思っていたのに、皆が純粋に彼の芸術を評価してくれている。
「エティエンヌ」アリシアが彼の隣に来た。
「見て、皆さんがあなたの絵を楽しんでくださっているわ」
「アリシアのおかげです」
「ううん、これはあなたの実力よ」
その時、一人の老紳士が近づいてきた。
「素晴らしい絵ですな、マルトー君」
「ありがとうございます」
「実は私、王立美術院の理事をしておりまして。もしよろしければ、あなたを推薦させていただきたい」
エティエンヌとアリシアは顔を見合わせた。
王立美術院といえば、最高峰の芸術機関だ。
「本当ですか?」
「ええ。これほどの才能を埋もれさせておくのは、芸術界の損失です」
絵画展は大成功に終わった。
エティエンヌの絵は全て買い手がつき、彼の名前は一夜にして知れ渡った。
夜、庭園で二人きりになった時、エティエンヌがアリシアに向かって言った。
「君のおかげで、僕の人生が変わりました」
「私こそ、あなたのおかげで変われたの」
二人は並んで夜空を見上げた。星が輝いている。
「ねえ、エティエンヌ」
「何ですか?」
「あの星たちも、きっとそれぞれ違う色に見えるのでしょうね、あなたには」
エティエンヌが微笑んだ。
「ええ。あの星は希望の金色、あの星は愛の銀色、そしてあの一番明るい星は」
「何色?」
「君の瞳の色です」
アリシアの頬が赤くなった。
「私の瞳は茶色よ」
「僕には、世界で一番美しい琥珀色に見えます」
二人がキスをしようとした時、また声が聞こえてきた。
「お嬢様、夜風が冷えますので、お風邪を召されませんよう...」
「セバスチャン!」
アリシアが振り返ると、セバスチャンが申し訳なさそうに立っていた。
しかし、その後ろにはマリー、ガル、クロード、ピエールがぞろぞろと続いている。
「皆さん、どうしたの?」
「あの、実は...」マリーが恥ずかしそうに言った。
「エティエンヌ様に絵を教えていただきたくて」
「え?」
「俺も」ガルが手を上げた。
「俺の愛する人の絵を描きたいんです」
「僕も料理を絵にしてみたい」クロード。
「僕は花の絵を」ピエール。
「私は...お嬢様の美しさを絵に残したくて」セバスチャン。
エティエンヌとアリシアは顔を見合わせて笑った。
「みんな、今度は本当の善意なのね」
「ええ。皆さんを歓迎します」エティエンヌが答えた。
「一緒に絵を描きましょう」
## エピローグ 真実の色
一年後、エティエンヌは王立美術院の正式なメンバーとなり、アリシアとの婚約も正式に発表された。
「エティエンヌ、この絵は何を描いているの?」
アリシアが尋ねたのは、彼の最新作だった。
そこには虹のような色とりどりの人々が描かれている。
「僕たちの周りの人たちです」
絵の中央には、オレンジ色の女性と緑色の男性が手を取り合っている。
その周りには、青い執事、赤い侍女、黄色い護衛、紫の料理長、ピンクの庭師が描かれていた。
「皆、こんなに美しい色を持っているのね」
「ええ。最初は僕にも見えませんでした。でも、あなたと出会って、人にはそれぞれ本当の色があることを学んだんです」
「私の色は?」
「太陽のオレンジ。でも今は」エティエンヌが筆で新しい色を作った。
「愛に満ちた、もっと美しい色になっています」
筆先で作られたのは、オレンジに少しだけピンクが混じった、この世で一番美しい色だった。
「これが僕の見る、本当のあなたです」
アリシアは その色を見つめながら思った。
自分も今、エティエンヌという名の美しい色を知っている。
それは、誰かに教えてもらった色ではなく、自分の心で感じ取った本当の色だった。
庭園の向こうで、セバスチャンたちが絵を描いている姿が見えた。
みんな、エティエンヌに教わって、下手なりにも絵筆を握っている。
「皆、楽しそうね」
「ええ。みんな それぞれの色を見つけようとしています」
アリシアは エティエンヌの腕に もたれかかった。
「私たち、最初は とんでもない誤解をしていたのね」
「でも、その誤解があったから、今の僕たちがあるのかもしれません」
「どういうこと?」
「もし あの騒動がなかったら、僕はずっとあなたを遠くから眺めているだけだったでしょう。話しかける勇気なんて、とても持てなかった」
エティエンヌの言葉に、アリシアはハッとした。
「そうね。私も、周りの人たちに守られたままで、自分から行動することはなかったでしょう」
二人は微笑み合った。
「だから、あの騒動も必要だったのかもしれないわね」
「きっとそうです。僕たちは、回り道をして真実にたどり着いたんです」
夕日が二人を照らしている。
エティエンヌには、その光が今までで一番美しい色に見えた。
それは、愛という名の、真実の色だった。
遠くで、セバスチャンが絵筆を振り回しながら格闘している。
「セバスチャン様、筆はもっと優しく持つのです」
エティエンヌが指導する声が聞こえてくる。
「マリー様、色を混ぜすぎると濁ってしまいますよ」
「ガル様、力を入れすぎです」
「クロード様、絵の具は食べ物ではありません」
「ピエール様、花を絵に貼り付けては いけません」
アリシアとエティエンヌは、その光景を見て大笑いした。
「みんな、相変わらずね」
「でも、今度は本当に心からやっています」
「ええ。これが みんなの本当の色なのね」
アリシアは空を見上げた。
夕焼け空が、オレンジとピンクと紫の絶妙なグラデーションを描いている。
「エティエンヌ、私にも絵を教えて」
「本当ですか?」
「ええ。私も、世界の本当の色を描けるようになりたいの」
エティエンヌは新しい筆をアリシアに渡した。
「最初は何から描きますか?」
アリシアは少し考えてから微笑んだ。
「あなたよ。私の目に映る、本当のあなたを」
二人は手を取り合って、新しいキャンバスに向かった。
そこには、これから無限の色彩が生まれることだろう。
真実の愛という、最も美しい色で描かれた未来が。
遠くで、セバスチャンが絵の具まみれになりながら叫んでいる。
「エティエンヌ様! なぜ私の絵は全て茶色になってしまうのでしょうか!」
「セバスチャン様、全部の色を混ぜてはいけませんよ」
マリーも困り果てていた。
「私の絵は何を描いているのか分からなくなってしまいました」
「それは抽象画というものですね、マリー様」
ガルの絵は、なぜか全て筋肉質な人物画になってしまう。
「おかしいな、花を描いているつもりなのに」
クロードは絵の具を味見している。
「この青い絵の具、意外に甘いですね」
「クロード様、絵の具は食べ物ではありません!」
ピエールは庭から実際の花を持ってきて、キャンバスに貼り付けようとしている。
「これで完璧だ」
「ピエール様、それは絵ではなく押し花です」
アリシアとエティエンヌは、その騒がしい光景を見ながら笑い続けていた。
「こんなに賑やかなアトリエは初めてです」
エティエンヌが嬉しそうに言う。
「でも、楽しいでしょう?」
「ええ、とても」
アリシアは自分の絵筆を握った。
キャンバスには、エティエンヌの優しい笑顔が描かれ始めている。
まだ下手だが、愛情がこもっていることは誰の目にも明らかだった。
「上手になったね」
「あなたが良い先生だから」
二人の周りでは、取り巻きたちが相変わらず珍騒動を繰り広げている。
でも今は、その騒がしさも愛おしく感じられた。
日が暮れ始めた頃、ようやく絵画教室は終了した。
取り巻きたちは絵の具まみれになりながらも、満足そうな顔をしている。
「また明日も教えてくださいね、エティエンヌ様」
「もちろんです、セバスチャン様」
「今度は料理の絵に挑戦したいです」
「承知いたしました、クロード様」
みんなが帰った後、アリシアとエティエンヌは二人きりになった。
「今日も一日、ありがとう」
アリシアがエティエンヌにそっと寄りかかる。
「こちらこそ。君と出会えて、本当に幸せです」
「私も。あなたと出会って、初めて本当の自分を知ることができたの」
エティエンヌは、夕焼けに染まるアリシアの横顔を見つめた。
「君は本当に美しい」
「お世辞が上手になったのね」
「これは事実です。君の美しさは、どんな絵の具でも表現しきれない」
アリシアが振り返ると、エティエンヌの目が真剣だった。
「エティエンヌ...」
「アリシア、僕と結婚してください」
突然のプロポーズに、アリシアの心臓が激しく鼓動した。
「でも、私たちの身分の違いは...」
「そんなもの、もうどうでもいいじゃないですか」
エティエンヌがアリシアの手を取った。
「大切なのは、僕たちが愛し合っているということ。それ以外は、全部フィルターです」
アリシアの目に涙が浮かんだ。
今度は悲しみの涙ではなく、喜びの涙だった。
「はい、喜んで」
二人がキスをしようとした瞬間、また騒がしい声が聞こえてきた。
「お嬢様、お夕食の準備が...あら」
マリーが戻ってきてしまった。
しかし今度は、にっこりと微笑んで立ち去って行く。
「プロポーズの邪魔をしては いけませんね」
その後、セバスチャンも、ガルも、クロードも、ピエールも、次々に顔を出しては「お邪魔しました」と言って去って行く。
「みんな、わざとね」
アリシアが苦笑いを浮かべると、エティエンヌも笑った。
「でも、今度は温かい気持ちでの邪魔ですね」
「ええ。みんな、私たちを祝福してくれているのよ」
ようやく二人きりになった時、アリシアがエティエンヌに寄り添った。
「ねえ、私たちの結婚式の絵も描いてくれる?」
「もちろんです。どんな色にしましょうか?」
「全部の色よ。あなたの色、私の色、みんなの色。そして、私たちの愛の色」
「それは虹よりも美しい絵になりそうですね」
月明かりの下で、二人は静かにキスを交わした。
そして物語は、こうして幸せに終わった。
アリシア・ドゥ・ヴァンドーム侯爵令嬢は、フィルターを通さない真実の目を手に入れた。
エティエンヌ・マルトーは、愛する人と愛に満ちた未来を手に入れた。
そして取り巻きたちは、お節介も度が過ぎると大変なことになることを学んだ。
でも一番大切なのは、みんなが それぞれの本当の色を見つけたということ。
世界は、思っているよりもずっとカラフルで美しいものだった。
ただし、それを見るためには、自分の目で見る勇気が必要だった。
アリシアとエティエンヌは、その勇気を持つことができた。
だから二人は、これからもずっと、世界の本当の美しさを見続けることだろう。
---
**fin**
**著者あとがき**
物事には必ずフィルターがかかっています。他人の言葉、世間の常識、先入観...それらを通して見る世界は、時として真実とはかけ離れたものになってしまいます。
この物語のアリシアのように、私たちも時には そのフィルターを外して、自分の目で、自分の心で、物事を見つめ直すことが大切なのかもしれません。
そして、善意であっても、相手の立場に立って考えなければ、思わぬ誤解を生んでしまうこともあります。セバスチャンたちの行動は決して悪意ではありませんでしたが、結果的にエティエンヌを傷つけてしまいました。
でも、最終的には全てが良い方向に向かったのは、アリシアとエティエンヌが勇気を出して、直接向き合ったからです。
真実は、いつも私たちの目の前にあります。ただ、それを見る勇気があるかどうかなのです。
この物語が、読者の皆様にとって、身の回りの本当の美しさを見つけるきっかけになれば幸いです。
そして、愛とは相手の本当の色を見つけることなのかもしれません。
世界は、思っているよりもずっとカラフルで美しいのですから。
貴族令嬢は、真実の色を知らない トムさんとナナ @TomAndNana
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