第6話
地竜へと向かって一人駆け出した、銀髪の少女。
その小さな背中を俺はただその場に立ち尽くして見送っていた。
脳裏でバルガスの粘つくような声が、呪いのように反響する。
(生存を最優先しろ。手柄を立てる必要などない。死なずに帰ってくるだけでいい)
命令だ。奴隷である俺が決して抗ってはいけない、絶対の命令だ。
ここで彼女を見捨てて逃げるのが、駒として、奴隷として、正しい選択だ。何一つ間違ってはいない、合理的で、当然の判断のはずだった。
なのに――足が、石になったかのように動かない。
「――切り裂け!」
フィーネの凛とした声が響き渡る。
彼女の周囲に再生成された無数の氷剣が、一斉に地竜へと殺到した。先程、ゴブリンの群れを赤子の手をひねるように蹂躙した、美しくも冷酷な死の舞。
だが、相手が悪い。
甲高い金属音が連続して響き渡り、火花が散る。地竜の岩盤のように分厚い黒褐色の鱗は、氷剣の切っ先をいとも容易く弾き返していた。
何本かは鱗の隙間に突き刺さるが、地竜にとっては意に介すほどのものではないことは明らかだった。
『グルオォォォッ!』
地竜はまとわりつく氷剣を鬱陶しげに振り払うと、巨大な尻尾を横薙ぎに振るった。
風を切り裂く轟音がここまで聞こえてくる。凄まじい質量と速度を伴った一撃。直撃すれば、人間など簡単に肉片と化すだろう。
だが、フィーネは冷静だった。地を蹴って高く跳躍しその攻撃を回避する。空中で身を翻した彼女は、着地と同時にレイピアを構え、地竜へと肉薄した。
彼女のレイピアが、閃光となって何度も突き込まれる。その度に地竜に微かな傷が刻まれていく。
しかし、その程度の傷は、地竜の猛進を止めるには至らない。
『グアァァッ!』
痛みよりも怒りが勝ったのか、地竜は巨大な前脚を振り上げた。フィーネはバックステップで間一髪それを避けるが、振り下ろされた爪が石畳を叩き割り、その破片が嵐のように彼女へと襲いかかる。
フィーネはレイピアで飛来する石つぶてを弾き、氷剣を盾のように展開して身を守るが、その防御で完全に体勢を崩されていた。
地竜は、その好機を見逃さない。
大きく息を吸い込むと、その顎が膨れ上がる。次の瞬間、口から炎が吐き出された。
体勢を崩しているフィーネに、吐き出されたブレスを避ける術はない。
「くっ……!」
フィーネは残っていた氷剣のすべてを前方に集め、分厚い氷の壁を生成する。
凄まじい衝撃音と共に氷壁とブレスが激突し、爆発する。その衝撃の余波が、フィーネの華奢な体を容赦なく吹き飛ばした。
「――がっ……ぁ……!」
フィーネの体は、通りの脇にある建物の壁に、叩きつけられた。崩れ落ちた彼女は、苦痛に顔を歪め、肩で荒い息を繰り返している。その口の端からは、一筋の赤い血が流れていた。
魔力の消耗も激しいのだろう。彼女の周囲に浮かんでいた氷剣は、数える程しか残っていなかった。
俺は、その一部始終を、歯を食いしばりながら見ていることしかできなかった。
なぜだ。
なぜ、俺はまだここにいる?
逃げろ。命令だ。あの女がどうなろうと、俺には関係ない。俺は奴隷だ。自分の命だけを考えろ。
頭の中で、冷たい理性が叫んでいる。
だが、心の奥底で、全く別の声が聞こえていた。
――『なんで師匠はそんなに強いのか、って聞かれてもな』
それは、今は亡き師の声だった。
奴隷として売られ絶望の淵にいた幼い俺に、剣と、そして生きるための誇りを教えてくれた、隻腕の奴隷。
――『いいか、アレン。力ってのはな、ただ強いだけじゃ意味がねぇ。自分のためだけに振るう剣なんざ、ただの暴力だ。いずれ、もっとデカい暴力に食い殺されるのがオチだ』
埃っぽい鍛錬場で、木剣を交えながら、彼はいつもそう言っていた。
――『本当に強い奴ってのは、誰かのためにその力を振るえるやつのことだ。誰かのために戦える奴の周りには同じような奴が集まる。そうすりゃ1人で戦うより、ずっと強いに決まってる』
師よ。
あんたの言う通りなら、今の俺は、ただのクズだ。
生を繋ぐためだけに、無為に、己のためだけに剣を振るう、ただの暴力装置だ。
俺はあんたの教えに、何一つ報いることができていない。
見殺しにしろ。命令を守れ。俺は生き残る。
それでいい。それでいいはずなんだ。
俺はゆっくりと、戦場に背を向けようとした。
諦めろ。俺には、何もできない。
――その瞬間だった。
地竜が壁際でうずくまるフィーネに、ゆっくりと近づいていく。そして、まるで虫けらを潰すかのように、その巨大な鉤爪を無防備な彼女の頭上へと、ゆっくりと、しかし確実に振り下ろす。
フィーネの碧眼が、絶望に見開かれる。
その光景を見た瞬間、俺の頭の中で、バルガスの命令も、奴隷としての立場も、生き残るための打算も、すべてが焼き切れた。
思考よりも早く、体が動いていた。
ドンッ!!
俺は、石畳が砕けるほどの力で、強く、強く、地面を踏みしめた。
全身の筋肉が連動し、爆発的な推進力を生み出す。
景色が、後ろへと吹っ飛んでいく。
闘技場では決して見せることのない、本来の俺が出せる最高速。
移動の途中、地面に突き刺さっていた、フィーネが生成した氷剣の一本を、その柄を、右手で鷲掴みにする。
ひやりとした感触が、燃えるように熱い俺の掌に、心地よかった。
地竜の爪がフィーネを切り裂く、その刹那。
俺は、その間に滑り込んでいた。
「――オォォォッ!!」
雄叫びと共に、俺は掴み取った氷剣を、渾身の力で振り抜く。
狙うは、振り下ろされる鉤爪。
――ガギィィィィィィィンッッ!!!
耳をつんざく、凄まじい衝撃音。
俺の腕に、骨が砕けるかと思うほどの衝撃が走る。
だが、振り下ろされた地竜の爪は、その軌道を大きく逸らされ、横殴りに弾き飛ばされていた。
衝撃に耐えきれず、俺が手にしていた氷剣は、甲高い音を立てて粉々に砕け散る。
しかし、俺の一撃は、確かに届いていた。
弾き飛ばされた地竜の爪にはえぐられたような傷が刻まれ、そこから黒い血がどくどくと溢れ出している。
『グル……ゥ……!?』
地竜は、信じられない、というように、傷つけられた自身の爪と、俺の顔を交互に見た。
その瞳から羽虫を払う程度の認識が消え、初めて明確な警戒と敵意の色が浮かび上がる。
地竜は大きく後ろに飛んで俺から距離を取ると、その巨大な体躯に似合わぬ冷静さでこちらの様子を窺い始めた。
そのおかげで、ほんの僅かな時間が生まれた。
「……な……ぜ……」
背後から、か細い、信じられないといった響きを帯びた声が聞こえた。
フィーネが、呆然と、俺の背中を見つめている。
俺は、彼女の方を振り向かないまま、ぶっきらぼうに答えた。
「……気が、変わった」
「……え……?」
「見ての通りだ。俺も多少は役に立つ。あんた1人じゃどうにもならないなら、俺の力が必要だろ」
俺の指摘に、彼女はぐっと唇を噛んだ。それは、不本意ながらも、肯定の証だった。
俺は地竜から視線を外さずに、続ける。
「とはいえ、見たところあんたの氷剣じゃあの鱗は抜けねぇ。俺が今みたいにあんたの剣を借りてぶっ叩くことはできるが、致命傷には程遠い。このままじゃ、こっちが先に消耗して終わりだ」
状況は、俺が加わったとしても依然として絶望的だった。
「……時間を、稼いでくれたら」
フィーネが、決意を固めた声で言った。
「時間を稼いでくれさえすれば、あれを仕留められるだけの、一撃を放つ準備ができます」
「……へぇ。火力は出せる、と?」
「はい。けれど、魔力の集中にかなりの時間が必要になります」
それこそが、俺が待っていた言葉だった。
俺は初めて彼女の方を振り返り、不敵に口の端を吊り上げた。
「上等だ。俺が、奴の注意を引きつけてやる。……ああ、こいつは借りるぞ」
落ちていた氷剣を拾い、構える。
手持ちのロングソードじゃどう考えても地竜には通用しない。
氷剣を借りるしかないだろう。握りしめたそれは確かに冷気を伝えてくるが、見た目ほどの冷たさはないようだった。
「だから確実に仕留めてくれよ? 俺が死んだら闘技場のオーナーに恨まれるのは覚悟してくれ」
「……はい。必ず、仕留めます」
『――――グルオオオオオオオオッ!!』
痺れを切らした地竜が、再び咆哮を上げ、今度は明確に、俺を目がけて突進してくる。
地響きを立てて迫りくる、圧倒的な質量。
心の底から、楽しいと、そう思った。
バルガスの命令も、奴隷の身分も、今はどうでもいい。
都市を守るために、共に戦う彼女を守るために、この剣を振るう。
「――あんまり待たせるようなら、俺がそのまま仕留めちまうからな」
それこそが、俺がずっと、ずっと、心の奥底で渇望していた戦いだったのだから。
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