第5話
バルガスからスタンピードへの参加を命じられてから、数日が過ぎた。
都市の空気は、日に日に張り詰めていくのが肌で感じられた。通りを行き交う探索者たちの顔からはいつものような軽薄な笑みは消え、誰もが固い表情で黙々と装備を整えている。ギルドの職員や防衛隊の兵士たちが、慌ただしく街を駆け回る姿も頻繁に見かけるようになった。
俺自身は来るべき時に備え、日々の過ごし方を変えた。鍛錬は疲労を残さぬよう最低限の素振りのみに留め、いつでも万全の状態で動けるようにコンディションを整えることに集中する。
それはまるで、いつもとは違う舞台の幕が上がるのを静かに待っているかのようだった。
心の奥底で燻る高揚感を、俺は奴隷としての諦観という分厚い蓋で必死に押し殺す。
そして、その日は訪れた。
まだ薄暗い早朝。俺が浅い眠りから覚めかけた、その瞬間だった。
ゴォォォォン……! ゴォォォォン……!
腹の底に震わす、重く響き渡る鐘の音。それは闘技場の銅鑼の音とは全く違う、都市の全域に鳴り響く警報だった。迷宮の魔物が境界を越えて地上に溢れ出す際にのみ流される警報。
この迷宮都市においてこの鐘が鳴り響くのは、これが初めてのことだった。
俺はベッドから跳ね起きると、迷うことなく行動を開始した。あらかじめ用意しておいた試合用のものより実戦的な革鎧を身に着け、腰には愛用のロングソードを差す。
バルガスから渡された、防衛に参加することを示す腕章を左腕に巻き付ける。準備には五分もかからなかった。
自室の扉を開け、地上へと続く階段を駆け上がる。
地上に出た瞬間、目に飛び込んできたのは、混沌そのものだった。
「こっちだ! 急げ!」「子供から目を離すな!」「西の避難所はもう満杯だそうだぞ!」
悲鳴と怒号が入り混じり、人々が右往左往している。避難のためにごった返す民間人たちで、通りは埋め尽くされていた。泣き叫ぶ子供、荷物を抱えて立ち尽くす老人、人々を押し分けて我先に逃げようとする男。
「……酷いな、これは」
思わず、呆れた声が漏れる。この都市では初めての本格的なスタンピードだということを差し引いても、あまりに統率が取れていない。都市の防衛隊も必死に避難誘導を行っているが、パニックに陥った群衆を前にしては、焼け石に水だった。
俺が人波をかき分けて進もうとしていると、一人の若い防衛隊兵士が駆け寄ってきた。
「あなたがアレン殿ですね、お待ちしておりました」
兵士は緊張で顔を強張らせながらも、敬礼をしてくる。俺は無言で頷いた。
「担当区画までご案内します、こちらへ」
俺は兵士の後に続き、人々の流れに逆らって東へと向かう。道すがら、彼は淡々と、しかし早口で状況を説明してくれた。
「ギルドと防衛隊の本隊は、現在、迷宮の第一階層から第三階層に展開。スタンピードの発生源を叩き、これ以上の流出を食い止めています。我々別働隊は、既に地上に溢れた魔物の掃討と指定区画の防衛を任されております」
「俺の担当は?」
「はい。東区画の大通りです。あそこを抜けられてしまえば大きな被害が出ます。何としても死守しなければなりません」
兵士に案内されてたどり着いたのは、俺にとっても見慣れた場所だった。先日、探索者たちと食事をした食堂も見える、石畳の開けた大通り。
だが、いつもは活気に満ちているその場所は、今は不気味なほどに静まり返っていた。通りの両端には、粗末なバリケードが築かれている。
その通りの中心に、一人の少女が、ぽつんと立っていた。
まるでそこだけ世界の時間が止まっているかのように、彼女は静かに佇んでいた。
風が吹き、腰ほどまである美しい銀の長髪が、月の光を編んだかのようにしなやかに靡く。
振り向いた彼女の瞳は、どこまでも澄んだ碧眼だった。その美しさは、この殺伐とした状況とはあまりにも不釣り合いで、現実感を失わせるほどだ。
「フィーネ様! アレン殿をお連れしました!」
兵士が声を張り上げると、フィーネと呼ばれた少女の碧眼が、俺を捉えた。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。まるで、道端の石ころでも見るかのように。
「ご苦労。あなたは持ち場に戻りなさい」
「はっ!」
兵士は再び敬礼すると、その場を急ぎ離れていった。後に残されたのは、俺と、銀髪の少女の二人だけ。
フィーネは俺を頭のてっぺんから爪先まで値踏みするように一瞥すると、つまらなそうに、そして冷たく言い放った。
「あなたが聞いていた増援ですか。……まあ、いいでしょう。私はあなたを戦力として数えていませんので、ご自由にどうぞ。そこに突っ立っているなり、物陰に隠れているなり、好きにしてください」
その言葉には、侮蔑すら含まれていなかった。ただ、純粋な無関心。俺の存在など、いてもいなくても変わらないという、絶対的な自信。
「……へぇ、そいつは楽で助かるね」
俺はバルガスの命令を思い出し、素直にそう返した。内心では、傲慢とも呼べるほどの彼女の自信に、驚きを禁じ得なかったが。
その時だった。
遠くから地鳴りが響き、それは急速にこちらへと近づいてくる。通りの向こう、迷宮の入り口がある方角から、おびただしい数の影が怒涛の勢いで迫ってくるのが見えた。
ゴブリン、コボルト、ジャイアントラット。迷宮の浅い階層に生息する知能の低い魔物の群れだ。一体一体は弱いが、その数が脅威だった。
俺は咄嗟に腰の剣に手をかけ、柄を握りしめる。だが、俺が剣を抜くよりも早く、隣で静かな変化が起きた。
ひやり、と頬を撫でる冷気。訝しんでフィーネに視線を向けると、彼女は腰に提げた優美なレイピアを抜き放ち、眼前に構えていた。その唇が震え、歌うように言葉を紡ぎ始める。
詠唱。それが魔術師の力の発動に必要な儀式だということくらいは、知識として知っていた。
『――凍てつく刃よ、我が呼び声に応え、敵を討て』
詠唱が終わると同時、フィーネの周囲の空間が歪んだ。
何もない空間から、鋭利な氷の刃が無数に生成され、光を反射しながら宙に浮かび上がる。その数、およそ三十。
「――切り裂け!」
彼女の短い命令一下、氷剣の群れは一斉に空を切り裂いた。
風を切る音と共に、氷の刃となって魔物の群れに殺到する。
「ギャッ!」「キィィ!」「ヂィッ!」
先頭を走っていたゴブリンたちが、次々と氷剣に切り裂かれ、悲鳴を上げて絶命していく。氷剣は一体を仕留めると、すぐさま宙で反転し、次の獲物へと襲いかかる。それはまるで、意志を持ったかのような命を奪う舞だった。
その群れを抜け、フィーネの目前まで迫った数体のコボルトを、彼女はレイピアの目にも止まらぬ一閃で貫き即座に沈黙させる。その動きには一切の無駄がなく、ただただ美しかった。
俺はただ呆然とその光景を眺めていた。
あれだけの自信を見せたことに納得するしかなかった。舌を巻く、という言葉では生ぬるい。あれは俺が闘技場で見てきたどんな戦いとも次元が違う、まさしく蹂躙だった。
奴隷である俺にとって、魔術とは物語の中の存在だ。その圧倒的な力を、こうして目の当たりにするのは初めての経験だった。
同時に新たな疑問が湧き上がる。
これほどの戦力がある区画に、なぜ俺が配置されたのか。彼女一人いればこの場は事足りるはずだ。
だが、その答えはすぐに見つかった。
バルガスは戦力を供出するという姿勢を見せることが主目的だと言っていたが、それは都市側も同じ考えだったのだろう。
あくまで戦力を出す気があるかどうかを見たいだけで、実際には俺のことは戦力としてカウントしていない。
事実、俺は生存を最優先するよう厳命されている。その見立ては正しい。
俺は自嘲気味に苦笑した。
だが、それでいい。むしろ俺にとっては都合の良い状況だ。
ここに突っ立っているだけで、市からの要請も、バルガスからの命令も、両方を果たしたことになる。
俺は強く、強く拳を握りしめながら、自分にそう言い聞かせた。何もするな。これは俺の戦いではない。俺はただの傍観者だ。
しばらく、フィーネの独壇場が続いた。彼女の操る氷剣は舞い続け、押し寄せていた魔物の波は、やがてまばらへと変わっていった。
――その、瞬間だった。
わずかに警戒を緩めた俺達の耳を、鼓膜を突き破るかのような、凄まじい咆哮が轟いた。
バリケードが、木っ端微塵に弾け飛ぶ。建物の壁が、巨大な何かに薙ぎ払われて崩壊する。
土煙の中から姿を現したのは、全長十メートルはあろうかという、巨大なトカゲの姿をした魔物だった。分厚い鱗に覆われた体、鋭い鉤爪、そして大木のような太い尻尾。
大型の魔物――地竜。
「……嘘だろ」
俺の頬が、引きつった。あれは、迷宮のかなり深い階層に生息するはずの、危険な魔物だ。
「本隊が仕留め損ねたの……!? なぜ、地上に……!」
フィーネもまた、驚愕に目を見開いていた。彼女の顔から、初めて余裕という仮面が剥がれ落ちる。
俺は即座に状況を判断し、彼女に進言した。
「おい、無茶だ! あれは俺たち二人でどうにかなる相手じゃない! 一度撤退して、増援を要請するべきだ!」
それは、バルガスの命令にも沿った、最も合理的で、最も正しい判断のはずだった。
だが、フィーネは険しい顔でレイピアを構え直すと、俺の提案を、きっぱりと拒否した。
「できません」
「なぜだ!」
「……主戦力は、今迷宮内の本隊に回されています。 地上には防衛用の小型の魔物を想定した戦力しか残されていません。そしてここで私たちが退けば、この地竜は何の障害もなく市街地を蹂躙するでしょう。そうなれば、被害はどこまで広がるか……」
彼女の碧眼が、強い意志の光を宿して俺を射抜く。
「それに今から増援を要請したところで、対処可能な戦力がここに集まる頃には全てが終わっています」
彼女はそう言うと、俺に背を向けた。
「……あなたが逃げるというのなら、それで構いません。地上の戦力で地竜相手に対処できる可能性があるのは私くらいのものです。足手まといが消えるだけ助かります」
その言葉を最後に、フィーネは、一人、地竜へと向かって駆け出した。
銀髪を翻し、たった一人で立ち向かっていくその小さな背中。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
脳裏で、バルガスの声が反響する。
(生存を最優先しろ。手柄を立てる必要などない。死なずに帰ってくるだけでいい)
命令だ。絶対の、命令だ。
俺は奴隷だ。駒だ。俺の命は、俺のものではない。
ここで逃げるのが正しい。何一つ、間違ってはいない。
わかっている。わかっているんだ。
なのに――。
俺は、奥歯が砕けるほど、強く、強く、歯を食いしばり、その小さな背中を、ただ見送ることしかできなかった。
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