第4話


 鬼気迫るほどの集中で木剣を振り続け全身の筋肉が悲鳴を上げた頃、俺はようやく鍛錬を終えた。思考が麻痺するほどの心地よい疲労感だけが、頭にこびりついていた雑念を綺麗に洗い流してくれる。

 汗を流すため剣奴用の共同シャワー室で冷たい水を浴び、火照った体を冷やす。粗末な石鹸の匂いが、現実へと意識を引き戻した。そして、さっぱりとした体で自室へと戻る途中のことだった。


「アレン」


 背後から、感情の乗らない平坦な声で呼び止められた。聞き慣れた、バルガスに仕える従僕の一人の声だ。振り返ると、そこに立っていたのは予想通りの、黒い衣服に身を包んだ影のような男だった。


「オーナーがお呼びだ。至急、部屋まで来るようにとのこと」


 男はそれだけを告げると、返事を待たずに踵を返した。まるで俺の意思など最初から存在しないかのように。


「……わかった」


 俺は誰に言うでもなく短く答え、男が薄暗い通路の闇に消えるのを見送った。

 胸中に、訝しむ気持ちが広がる。試合の予定がないこの時期に、バルガスが俺を個人的に呼び出すのは珍しい。

 大抵の指示は、試合の直前か直後に与えられるものだ。無駄と面倒事を何より嫌うあの男が、わざわざ俺を呼びつけるからにはよほどイレギュラーな、そしておそらくは厄介な事態が起きたに違いなかった。

 嫌な予感を覚えつつも、俺は主の待つ場所へと足を向けた。闘技場の最上階に位置する、この地下世界の心臓部へと。


 重厚な鋼鉄製の扉をノックすると、中からいつもより幾分か低い声で「入れ」と応答があった。

 扉を開けて中に入る。相変わらず、呆れるほど豪奢な空間だ。磨き上げられた調度品、壁にかけられた高価な絵画、そして部屋中に満ちる高級な葉巻の香り。だが、部屋の主の様子は、その豪華さとは裏腹に、いつもと明らかに違っていた。


 革張りの巨大な椅子に深く腰掛けたバルガスは、葉巻を燻らせてはいるものの、その表情は険しい。いや、違う。

 よく見れば、眉間に深く刻まれた皺は、怒りというよりは煩わしさからくるものだった。正確には、心の底から面倒だと言いたげな、うんざりとした色を浮かべている。

 あのバルガスが、だ。

 金の匂いがすれば上機嫌になり、損失が出れば不機嫌を撒き散らす。彼の感情は、常にその二つのどちらかに振り切れている。こんな風に、ただただ面倒事を押し付けられたかのようなうんざり表情を浮かべているのは、俺の記憶にはなかった。


「来たか、アレン」


 彼の声には、いつものような人を食った響きがない。俺は静かに頷き、主の言葉を待った。


「……何か、ありましたか」

「ああ、実に下らん用件が舞い込んできてな」


 バルガスは紫煙を長く、そして深く吐き出すと、まるでその煙と共に溜息を吐き出すかのように、忌々しげに言った。


「市長から直々に連絡があった。近々、スタンピードが起こる兆候がある、とな」


 その言葉に、俺は思わず眉をひそめた。食堂で探索者たちが話していた噂は、真実だったらしい。だが、それがなぜ市のトップから闘技場の興行主であるバルガスに直接伝えられるのか。それは奇妙な話だった。


「スタンピード、ですか。それはギルドや防衛隊が対処すべき問題のはず。俺たちには関係のないことでは?」


 俺の疑問に、バルガスは「本来ならば、な」と吐き捨てるように同意した。


 彼は一度言葉を切り、指先でこめかみをぐりぐりと押さえた。よほど頭痛がするらしい。そして、さらに面倒そうな顔で続けた。


「問題は、その続きだ。市長は、この地下闘技場からもスタンピードの鎮圧に戦力を供出するよう、『要請』してきた」

「……なるほど」


 ようやく、俺が呼ばれた理由の輪郭が見えてきた。だが、まだ腑に落ちない点がある。

 この男は単なる要請に従うような人間ではない。


「その『要請』とやらに、我々が応える義務はないはずです。我々は市の管轄下にはない」

「その通りだ。突っぱねることは、赤子の手をひねるより容易い」


 バルガスはそう肯定しつつ、指でテーブルをトントンと叩きながら、まるで子供に言い聞かせるかのように説明し始めた。

 その目はもはや単なる闘技場の興行主のものではなく、盤面を読む狡猾な政治家であり商人のそれだった。


「だが、状況を考えろ、アレン。この迷宮都市はまだ新興の都市だ。そして俺のこの闘技場は、今やこの都市の娯楽の中心として無視できない立場を築きつつある。それはなぜか? 俺が表向きはあくまでクリーンな運営を心がけ、献金を欠かさず、模範的に納税し、権力者連中と良好な関係を築いてきたからだ」


 彼の言葉の端々には、自らの手腕に対する強い自負が滲んでいた。


「このタイミングで、都市のトップからの『要請』を無下に突っぱねてみろ。連中に、我々を締め付けるための格好の口実を与えるだけだ。連中からすれば地下闘技場など元より治安の悪化を招く煙たい存在。『非協力的である』というレッテルを貼られ、税金を吊り上げられ、何かと理由をつけて査察を入れられるのがオチだ。面倒だろう?」


 確かにその通りだった。バルガスの言う通り、面倒なことになるのは目に見えている。


「逆にここで恩を売っておけば多少は動きやすくなる。少なくとも安易に敵対的な態度を取られるリスクは減るだろう」


 すべてを損得で判断する、バルガスらしい思考だった。

 俺が彼の意図を完全に理解したことを見て取ると、彼は話を進めるように顎をしゃくった。それを理解した俺は、駒として当然の問いを口にする。


「……それで、誰を出すのですか」

「まずはいつくたばっても懐の痛まない、借金漬けの役立たず共を十数人、頭数として供出する。当然死ぬだろうが、奴らの借金をチャラにしてやるという名目なら喜んで行くだろうさ」


 バルガスは、人の命を勘定に入れることなく、淡々と語る。その非情さに、俺の心はもう動かない。


「なるほど……」

「だが、これだけでは『応じないよりマシ』という程度で、誠意としては不十分だ。市長の顔を立てるには、それなりの実力者を最低一人は出す必要がある」


 バルガスの意図は理解した。だがそれには大きな問題が伴う。

 俺がその点を指摘する前に、バルガス自身がその問題点を口にした。


「だがな、アレン。考えてもみろ。ウチの剣闘士はあくまで対人戦闘が基本だ。魔物相手の集団戦なんぞ、素人も同然。探索者基準で言えば、あのチャンプのヴォルカノスですら、二流が精々といったところだろう」


 その評価は的確だった。リングの上でどれだけ強くとも、魔物相手の戦いは全くの別物だ。俺も内心で頷く。


「そんな連中を慣れない戦場に送り込んでみろ。犬死にするのが目に見えている。ヴォルカノスのような価値ある商品をこんな下らんことで失うようなことがあれば、政治的な利益なんぞ軽く吹き飛ぶほどの大損失だ。そうなれば差し引きは大きくマイナス。ならば最初から出さない方が良い、という結論になる」


 バルガスは一度言葉を切ると、椅子に深くもたれかかり、俺を真っ直ぐに見据えた。

 彼の瞳の奥に冷たい計算の光が宿る。まるで獲物を見つけた狩人のような、鋭い光。


「……だが、一人だけ例外がいる」


 その言葉が誰を指しているのか、俺にはすぐにわかった。この状況で彼が切り札として使う駒は一つしかない。


「アレン、お前だ。お前は探索者共に対して高い知名度と、剣闘士の中でも一定の実力を持つと知られている。そして実際のお前はヴォルカノスすら赤子扱いできるほどの実力がある。魔物相手だろうが、ヘマをやらかして死ぬ心配などまずない」


 彼は葉巻を灰皿に押し付け、最終的な結論を告げた。その声には、一切の迷いがなかった。


「市に対して『戦力を供出した』と最大限にアピールでき、なおかつ、商品を失うリスクが限りなくゼロに近い。そんな駒は、お前一人しかいない。……行け、アレン。お前を派遣する」


 それは、命令だった。俺に否応はない。感情を押し殺し、ただの駒として、主の言葉を受け入れる。


「……承知しました」


 俺は頷きつつ、計画の穴を埋めるため一つの懸念を口にした。


「ですが、俺一人を派遣したところで、俺以外にも実力のある剣闘士は多い。それでは結局、戦力の出し惜しみと見なされるのでは?」

「くだらん心配だ」


 バルガスは、俺の懸念を鼻で笑って一蹴した。その余裕は、俺の思考すらも見越しているという自信の表れだった。


「いいか、アレン。もし本当にこの都市の存亡に関わるような大規模なスタンピードが来るというなら、市長からの連絡は『要請』などという生温い形はありえん。強制的な命令だ。戦力が欲しいのは嘘ではないだろうが、今回の要請の主目的は俺の反応を見るための、政治的なジャブに過ぎん」


 彼の分析は、おそらく正しいのだろう。この男がそういった読みを外したところを見たことがない。

 悪意や害意など、この男はそういった負の感情を読み切ることに関しては怪物じみた洞察力を持つ。

 今の地位を築きあげたのも、この力によるものが大きいだろう。


「であれば、こちらが馬鹿正直に最大限の戦力を差し向ける必要などない。『名優』という闘技場の顔とも言える看板を一人差し向ける。それだけで、十分すぎるほどのポーズになる」


 バルガスは、ふと、心の底からの本音をこぼした。一瞬だけ、狡猾な経営者の仮面の下から、ただの強欲な男の顔が覗く。


「……もっとも、本当に都市の存亡に関わるような規模だとわかれば、俺は戦力なんぞ一人も出さん。商品共を引き連れて、誰よりも早くこの街から脱出するがな」


 この男の思考は、どこまでも自分の利益のためだけに回っている。

 バルガスは椅子から立ち上がると、俺の前に立ち、その重い手を俺の肩に置いた。その手のひらから伝わる圧力が、物理的なもの以上の、抗いがたい支配の力を感じさせた。


「いいか、よく聞け。第一に、生存を最優先しろ。手柄を立てる必要などない。少しでも危険だと感じたら迷わず逃げろ。お前という『駒』を失うことだけは、絶対に避けねばならん」


 そして、彼は念を押すように続けた。


「第二に、戦闘では最低限の貢献でいい。いいな? お前を派遣した時点で、俺の政治的な目的はすでに果たされている。後は、死なずに帰ってくるだけでいい。わかったな」

「……承知しました」


 俺は深く頭を垂れ、部屋を後にした。

 扉が閉まり、再び一人になる。長い廊下を歩きながら、脳裏にバルガスの言葉が何度も反響していた。


(生存最優先。最低限の貢献でいい)


 つまり、戦うふりだけして後は適当にやり過ごせということだ。いつものリングの上と何も変わらない。これは、探索者の真似事に過ぎないのだと。

 俺はそう、自分自身に強く、強く戒めた。


 だが――。

 どうしようもなく、心の奥底から熱い何かが込み上げてくるのを止められなかった。

 偽りだとしても、真似事だとしても、俺はこれからリングの外で誰かのために剣を振るう機会を与えられたのだ。

 長年、心の奥底で燻り続けていた憧れ。

 それは、奴隷の身である俺には決して許されないはずの、淡く、しかし確かな高揚感だった。

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