第3話


 意識が浮上し、重い瞼を押し上げると、見慣れた独房の天井が目に入った。

 シーツから漂うのは、俺自身の汗の匂いと、そして、もうここにはいない女が残していった甘い残り香。昨夜の出来事が、夢ではなかったことを証明するように、その香りはまだ色濃く部屋の空気に溶けていた。


 隣に温もりはない。体を起こすと、ベッドの片側は綺麗に整えられていた。夜月はいつもそうだ。

 嵐のように現れて俺のすべてを掻き乱し、心の平穏という名の淀んだ水面を波立たせ、そして夜が明ける頃には、まるで幻だったかのように跡形もなく消えている。彼女が去った後に残るのは、この甘い香りと、より一層深くなった虚無感だけだ。


 しばらく予定はない、とバルガスは言っていた。

 次の試合が決まっていれば、その相手を想定した調整や、あるいは指示される「脚本」に合わせた動きの練習に時間を費やす、決められたレールの上を走るだけの日々。

 だが、珍しく訪れた空白の時間。与えられた自由は逆に俺にどう過ごすべきかを問いかけてくるようで、持て余してしまう。

 思考はすぐに答えに行き着いた。結局俺にできることなど限られている。剣を振るうこと。それ以外にこの空虚な時間を埋める術を俺は知らなかった。


「……腹、減ったな」


 とりあえず、鍛錬の前に腹ごしらえだ。俺は簡素なシャツを羽織ると、部屋を出て地上へと向かうことにした。


 この地下闘技場に所属する剣奴には、奇妙なほどに広い自由が与えられている。

 試合で得た賞金の一部は個人の所持金として認められ、それを使って食事をしたり、嗜好品を買ったりすることができる。そして、この迷宮都市から出さえしなければ、日中の外出も許可されていた。

 奴隷の身でありながら、奴隷にあるまじき待遇。他の剣奴たちは、これをオーナーであるバルガスの温情だと信じ、感謝すらしている者もいる。

 賞金で買った安物の装飾品をじゃらつかせたり、地上の女と腕を組んで歩いたりする姿を見かけることも少なくない。それが彼らのモチベーションに繋がっているのだから、結果として上手く回ってはいるのだろう。


 だが、俺はその内実を知っていた。これは温情などではない。単なる無関心だ。

 バルガスにとって俺たち剣奴は金を生むための商品であり、道具に過ぎない。彼は道具の私生活になど、微塵も興味がないのだ。管理コストをかけずに適度なガス抜きをさせ、反乱の芽を摘む。実に合理的で、冷徹な支配方法だった。

 指示通りにリングの上で「仕事」をこなし、利益を生み出しさえすればそれ以外の時間で何をしようが構わない。ただそれだけのこと。その本質を理解している者は、おそらく俺を含めてもごく少数だろう。


 薄暗い地下から地上へと続く階段を上ると、眩い朝日と喧騒が俺を出迎えた。

 まだ朝早い時間帯だというのに、通りは既に大勢の人々でごった返している。

 屈強な鎧に身を包んだ戦士、軽装の斥候、ローブ姿の魔術師が忙しなく行き交う。彼らは皆、この迷宮都市の中核――地下深くまで続く巨大な迷宮へと挑む「探索者」たちだ。

 これから迷宮に潜る者、昨夜のうちに帰還し、換金所が開くのを待つ者。彼らの発する熱気が、街全体を活気づけていた。この生命力に満ちた光景は、俺が住む地下の陰鬱な世界とはあまりにも対照的だった。


 俺は人波をかき分け、馴染みの食堂へと入る。木の扉を開けると、香ばしいパンの匂いと、肉を焼く音が食欲を刺激した。


「よぉ、アレン。昨日の試合も最高だったぜ!」

「今日は休みかい? 一杯どうだ?」


 店内にいた数人の探索者が、俺の姿に気づいて気さくに声をかけてくる。彼らは地下闘技場の常連であり、熱心な『名優』アレンのファンでもあった。

 こうした交流は、もはや日常の一部だ。俺はいつも通り偽りの仮面を被り、完璧な笑顔で彼らの声に応える。


「ああ、おはよう。朝から酒は勘弁してくれよ。それより、いつもの頼む」

「へい、お待ちどう!」


 カウンターの奥から威勢のいい声が返ってくる。俺は空いている席に腰を下ろし、彼らとの談笑に興じた。


「それにしても、昨日のブルーノ戦は痺れたぜ。一時はどうなるかと思ったが、あの劣勢からの逆転は見事だった!」

「まったくだ。ただ強いだけじゃなく、あんたの試合には華がある。いつもいつも、脚本でもあるんじゃないかってくらい、いい試合ばかりするよな!」


 男の一人が、冗談めかして言った。その言葉に、俺の心の奥が微かに冷える。

 脚本。その通りだ。お前たちが熱狂したあの試合は、すべてバルガスによって書かれた筋書き通りの茶番劇に過ぎない。


 だが、俺はそれを表に出すことなく苦笑を浮かべてみせる。


「勘弁してくれよ。こっちは毎回、命がけなんだ。そんな余裕があるように見えるか?」

「ははは、わかってるって! 冗談だよ、冗談! だからこそ『名優』なんだろ?」

「そうだそうだ!」


 男たちは腹を抱えて笑う。彼らの誰一人として、俺の言葉の裏にある真実など疑っていない。

 八百長ありきの賭博闘技場など、この世界には掃いて捨てるほど存在する。だが、そういったものは、目が肥えた者が見れば一目でわかるものだ。動きの端々に、真剣味の欠けた馴れ合いの空気が漂う。

 しかし、バルガスの闘技場は違う。

 そこでは、流血は当たり前。腕が飛び、時には命が失われることすらある。アレンの関わらない試合に限れば、それはすべて真剣勝負。

 剣闘士たちは、借金や奴隷の身分から抜け出すため、文字通り死に物狂いで剣を振るう。その凄まじい迫力と熱気は、観客に筋書きの存在など一切感じさせない。


 だからこそ、奇妙なのだ。

 なぜか俺の試合に限って、狙いすましたかのように劇的な展開が訪れる。ゆえに、俺は『名優』と呼ばれる。

 普通に考えれば、俺の試合にだけ何らかの仕掛けがあると疑われても不思議ではない。だが、その疑念は一つの事実によって打ち消される。


 対戦相手だ。

 彼らは八百長の存在など露ほども知らない。いつだって本気で俺を殺しにかかってくる。そんな相手を一方的にコントロールし、試合の流れを自在に操るなど、それこそ赤子と大人ほどの実力差がなければ不可能だ。

 しかし観客達は俺が強いことは認めつつも、そこまで圧倒的な差があるとは夢にも思っていない。

 一流の、本物の実力者がこの試合を見れば、あるいは俺の動きの不自然さや隠された実力の片鱗に気づくのかもしれない。

 残念ながらこの闘技場に足を運ぶ探索者の大半は、日々の稼ぎで酒を飲むのが関の山の、二流、三流のゴロツキばかりだった。


「ほらよ、アレン。いつものだ。黒パンと豆のスープ、それとオーク肉のステーキだ」

「ああ、ありがとう」


 ほどなくして、湯気の立つ料理が運ばれてきた。俺が食事を始めると、探索者たちの話題は別のものへと移っていた。


「そういや、最近またきな臭いらしいな」

「ああ。ギルドの連中がピリピリしてる。迷宮の上層に、普段は見ないような魔物がうろつき始めてるって話だ。この間は、オーガが単独で浅い階層をうろついてたらしいぜ」


 スタンピード。

 迷宮の魔物が、何らかの原因で一斉に地上へと溢れ出す現象。

 この迷宮都市はまだ新興で、過去に発生したのは、迷宮内で一部の探索者が間引きをすれば対処できる程度のごく小規模なものだけだった。


「この都市で、中規模以上のスタンピードなんざ起きたら、どうなっちまうかねぇ」

「ギルドだけじゃ手が足りねぇだろうな。防衛隊も駆り出されるだろうが……」

「いっそのこと、アレンたちみてぇな腕利きの剣闘士も探索者やってくれりゃいいんだがな」


 一人が、ぽつりとそう呟いた。

 その瞬間、テーブルの空気が凍りつく。仲間たちが、焦った様子で失言した男の脇腹を肘で突いた。


「おい、馬鹿野郎!」

「す、すまねぇ……」


 リーダー格と思しき男が、慌てて俺に頭を下げる。


「悪く思わねぇでくれ、アレン。こいつに悪気はねぇんだ」


 無理もない。この都市の法で、奴隷は「人」ではなく「所有物」として扱われる。

 そして探索者ギルドに登録できるのは、「人」だけだ。俺たちはどれだけ腕が立とうと、探索者になることは許されない。それは、この街の誰もが知る常識だった。


 今こうやって談笑している俺達の間には、目に見えない大きすぎる断絶が広がっている。


「気にしてないさ」


 俺は完璧な笑顔でそう答え、スープを口に運んだ。その仮面の下で一瞬だけ瞳の光が揺らいだことに誰も気づきはしない。

 だが、その言葉は嘘だった。心の奥底で無視できないほど強く、憧れの念が燻っていた。


 探索者。

 迷宮から産出される魔物の素材や鉱物は、人々の生活を豊かにするエネルギーとなり、資源となる。時に迷宮から溢れ出る強大な魔物を討伐し、都市の平和を守る。

 他者のために、人々のために、その力を振るう存在。

 それは、まだ何者でもなかった幼い頃、尊敬する師が教えてくれた「真の強者」の在り方そのものだった。


 もちろん、それが幻想に過ぎないことは既に知っている。

 そのような在り方は極一部の限られた上澄みの者だけに許されたもので、大半の探索者はこうして酒を飲み賭博に興じ娼館に足を運ぶ俗物ばかり。

 それでも、そう思わずにはいられない。目の前の彼らですら、命を懸けて迷宮に潜り、この街の営みを支えているのだ。それに比べて、俺は何だ?

 複雑な感情を飲み下すように、水を一気に飲み干す。


 俺は早々に食事を終えると、探索者たちに別れを告げて店を出た。

 向かう先は、地下闘技場の鍛錬場。

 先程、胸に灯ったばかりの小さな憧憬の炎を、俺は自ら踏み消そうとしていた。


(馬鹿馬鹿しい)


 鍛錬用の部屋に入り、ずしりと重い木剣を手に取る。ひやりとした木の感触が、思考を現実へと引き戻す。

 憧れなどと、笑わせる。

 俺は奴隷だ。人ですらない、バルガスの所有物。この腕も、この剣の技も、すべては所有者バルガスの利益のために存在する。

 師が教えてくれたのは、守るための、そして他者のための剣。俺がリングの上で振るっているのは、観客を欺き、愉しませるための、虚飾に満ちた剣だ。

 俺は、俺自身が生き延びるためだけに、無為に剣を振るうクズでしかない。


 その事実を忘れるように、俺は木剣を振るった。

 一振り、また一振り。

 風を切り裂く音だけが、静かな鍛錬場に響き渡る。

 噴き出す汗が床に染みを作り、呼吸が荒れ、酷使された筋肉が悲鳴を上げる。その肉体的な苦痛が、精神の痛みを上書きしてくれるかのように。

 雑念を振り払うように、ただひたすらに。己の役割を、その身に刻みつけるように。

 俺は所詮剣奴であり、バルガスの駒に過ぎないのだと。

 そうやって俺は今日も自分自身に、固く、固く、蓋をした。


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