第2話
重厚な扉が、俺の背後で音もなく閉まる。
怖気が走るほどの静寂の中、俺は一人、薄暗い石の廊下を歩いていた。
バルガスの粘つくような声と、「あの女」からの忌まわしい伝言が、脳漿にこびりついて離れない。
『呪印の調整のために部屋で待っている』
その一言が意味するものを、俺は嫌というほど知っている。
それは苦痛でもあり甘美でもあり、俺を縛る鎖であると同時に俺の命を繋ぐ歪んだ救済の時間だった。
剣奴に与えられた居住区は、闘技場の更に下層にしつらえられている。
光の届かない、湿った空気の漂う通路。点在する部屋はどれも同じような、飾り気のない石造りの独房だ。俺の部屋もその一つに過ぎない。
鉄製の簡素な扉を開け、中に入る。蝋燭の灯りが、最低限の家具――硬そうなベッドと、小さなテーブル、椅子が一つ――をぼんやりと照らし出していた。
闘技場での華やかな『名優』アレンの生活空間としては、あまりにも侘しい。だが、これが奴隷の現実だった。
最も、剣奴にも賞金は与えられるしそれを使ってよりよい部屋に移ったり家具を揃えることもできる。
こうしているのは単に俺自身が寝床を飾り立てることに興味がないからだった。
部屋に入りベッドに視線を向ける。
ベッドの毛布が、不自然にこんもりと盛り上がっていた。まるで、小柄な人間がその下に丸まって隠れているかのように。
警戒は不要だ。この闘技場で、俺の部屋に無断で忍び込めるような人間は、一人しかいない。諦念と共に深く息を吐き、俺は音を立てないようにベッドへと近づいた。
そっと毛布をめくる。
そこにいたのは、やはりと言うべきか、漆黒の闇そのものだった。
身長以上に長く立っていれば床に届くほどの、艶やかな黒髪。それが塊となって、ベッドの上で塊となっている。その髪の隙間からは、かろうじて白い肌や、か細い手足が覗いていた。
「……夜月」
俺がその名を呟くと、髪の塊がもぞりと動いた。
やがて、長い前髪の奥から、眠たげな真紅の瞳がこちらを覗かせる。それはまるで、闇の中で輝く二つのルビーのようだった。
「……んぅ……アレン……?」
寝ぼけ眼をこすりながら、夜月はゆっくりと身を起こした。その動きに合わせて、黒髪が滝のように流れ落ち、彼女の華奢な体を覆い隠す。
「……おそいですよぉ、アレン。ボク、待ちくたびれて寝ちゃいましたぁ」
間延びした、おっとりとした口調。だが、その内容は子供じみた文句だ。
「仕方ないだろ。オーナーに呼ばれていたんだ」
「……オーナーに、ですかぁ。そういえばそういう話でしたねぇ。伝言頼んだの忘れてましたぁ」
彼女はあっさりと納得すると、ふぁあ、と小さなあくびを一つした。
今度は俺の方から、ため息混じりに文句を言う番だった。
「あんたこそ、いい加減にしてくださいよ。いつも言ってるじゃないですか、服を着ろって」
彼女はいつもこうだ。俺の部屋に現れる時、まともに衣服を身に着けていた試しがない。
今も、その身を覆っているのは己の長すぎる髪だけだ。
「えー、でもぉ、髪で見えないからいいじゃないですかぁ」
夜月は悪びれる様子もなく、小首を傾げる。
「それにぃ、どうせすぐに脱ぐことになるんですからぁ、無駄じゃないですかぁ」
そう言って、彼女はくすくすと笑った。その無邪気な響きとは裏腹に、言葉の意味するところは俺の胃を重くさせる。
「……ほら、アレンも。早く脱いでくださいよぉ」
抵抗は、しない。いや、できないのだ。
俺は諦めて、身に着けていた試合用の装備を脱ぎ捨てていく。バックルを外し、革のストラップを解き、汗ばんだアンダーシャツを脱ぎ捨てる。
上半身が裸になると、蝋燭の灯りに、鍛え上げられた肉体が露わになった。そこには、これまでの戦いで刻まれた無数の傷跡が、俺の奴隷としての歴史を物語るように浮かび上がっている。
そして、その中でも一際異彩を放っているのが、右肩から胸にかけて広がる、歪な紋様だった。
一見すれば、古い火傷の痕か、あるいはただの痣にしか見えない、醜い痕。
俺がベッドに腰掛けると、夜月は待っていましたとばかりに擦り寄ってきた。ひんやりとした肌が、試合の熱を帯びた俺の体に触れる。
彼女は俺の前に回り込むと、仰向けになるように促した。俺が言われるがままに背中をベッドにつけると、夜月は覆いかぶさるようにして、その柔らかな体を俺の胸の上に重ねる。
その小柄な体躯にはまったく不釣り合いなほど豊かな胸が、俺の胸板の上でゆるりと形を変える。その驚くほどの柔らかさと、ずしりとした重みが、現実感を伴って俺にのしかかった。
「……さぁ、見せてください。ボクの可愛い子を……」
夜月はそう囁くと、その白くか細い指を、俺の右肩の火傷痕へと這わせた。
そして、指先に微かな紫色の呪力を灯すと、ゆっくりと、慈しむように、その痕をなぞる。
すると、火傷痕にしか見えなかった醜い皮膚が、まるで古い瘡蓋のように、パリパリと音を立てて剥がれ落ちていく。それは偽りの殻。彼女の最高傑作を隠すための、巧妙な偽装だった。
そして、その下から――本当の呪印が、その禍々しくも美しい姿を現した。
それは、無数の黒い線が複雑に絡み合い、一つの巨大な紋様を形成していた。
線は時折脈を打つように淡い光を放ち、その中心に刻まれた紋章のような何かは、心臓のように脈動している。
芸術的ですらある、呪いの紋様。
夜月によって刻まれた、呪印『
「……あぁ……、……やっぱり、……美しい……」
夜月は頬を朱に染め、恍惚としたため息を漏らした。
彼女の全てを吸い込むような真紅の瞳が、顕になった呪印を至近距離から見つめ、その輝きを映してきらきらと潤んでいる。
「最後にこの子を目覚めさせたのは、ずいぶん前でしたよねぇ……。久しぶりに、その声を聞きたくなっちゃいました」
彼女が見ているのは、俺ではない。俺の体に咲いた、この呪いの華だけだ。
そしてその事実こそが、皮肉にも俺という存在を彼女にとっての唯一無二の存在たらしめていた。
夜月は呪印を優しく撫で魔力を流し込みながら、うっとりと語りかける。
「普通の人間は、強い苦痛を直接神経に流し込んだら、心が壊れるか体が拒絶反応でショック死してしまうんですよぉ。痛覚というのは、本来そういう風にできているんです。でも、アレンは違う……いいえ、この『
彼女の指先が、呪印の中心で脈打つ紋章に触れた。
「この子は、肉体に一切の後遺症を残さない。ただ、純粋な『痛み』だけを、完璧な形で届けることができる。ボクの一族でも、こんな呪印を完成させられた者はいない。そして、このボクでさえ、まだアレン以外に刻むことはできていないんです」
彼女の真紅の瞳が、俺を見つめる。
「この呪印は、あなたという最高の器があって、初めて完成する奇跡の作品なんです。だから、ボク以外には誰も刻めない。あなた以外には、誰も宿せない……。ねぇ、アレン。あなたもそう思うでしょう?」
「……まぁ、そうですね」
『調整』を行う度に、彼女はうわ言のように何度もこの話を語りかけてくる。
それこそ一言一句違わぬほどに丸暗記できる程度には。
「さぁ……鳴いてください、ボクのアレン。ボクのためだけに、その美しい声を聞かせて……」
その言葉を合図に、彼女の指先に、禍々しい紫色の魔力が灯った。
指先が、呪印の中心――脈動する紋章へと、強く押し当てられるその寸前。
ぴたり、と彼女の指が止まった。
「……むぅ」
夜月は小首を傾げて思案するような表情を浮かべる。
俺は来るべき激痛に備えて固く閉じていた目を開け、訝しげに彼女の顔を見た。
「でも、よく考えたら、アレンは別に、何も悪いことしてませんよねぇ……? うーん……ただボクが久しぶりに聞きたいだけなのに痛い思いをさせるのは、なんだか申し訳ないですねぇ」
ぽつり、と呟かれた言葉に、俺は一瞬、思考が停止した。
この女の気まぐれ一つで、俺は地獄の苦しみから解放されたというのか。
心の底から、安堵の息が漏れる。全身から力が抜け、強張っていた筋肉が弛緩していくのが分かった。
「そうですねぇ、今度アレンが何か悪いことをした時にたくさん鳴いてもらいますから、今日はやめておきましょうかぁ」
そう言って悪戯っぽく笑うと、夜月は名残惜しそうに呪印をもう一度だけ撫で、再び偽装の火傷痕でそれを覆い隠した。
「……ふぅ……」
彼女は満足げなため息を一つ漏らすと、不意に、それまでの態度を一変させた。
急に口ごもり、視線をあちこちに彷徨わせる。長い前髪の奥で、その白い頬が朱に染まっているのが分かった。
さっきまで残忍な呪術師の顔をしていた女が、今はまるで、初めての恋に戸惑う少女のようだ。
「そ、それで、あのぉ……アレン……?」
上目遣いに、彼女の真紅の瞳が俺を見つめる。そこには、先程までの恍惚はなく、乙女のような恥じらいと、懇願の色が浮かんでいた。
「その……このまま『仕上げ』を……しても、いいですかぁ……?」
か細い、囁くような声。
冷酷に俺を支配し、作品として弄ぶ女。
そして、一転して、少女のように恥じらいながら俺に身を委ねようとする女。
憎むべき相手が見せるその姿に、俺の心は抗いようもなく乱される。
自己嫌悪に奥歯を噛みしめる。
振り払うべきだ。この『仕上げ』が本来必要のない、夜月の私欲に過ぎない行為であることなど俺はとっくに察している。
だが、その言葉は喉の奥に張り付いて出てこない。
孤独な俺の身を、確かに求めてくれる華奢な体。
観客たちが向ける熱狂は、リングの上で活躍する『名優』アレンに向けられたものだ。本当の俺を見てはいない。
オーナーのバルガスが俺を見るのは、ただ金を生むための優れた『駒』としてだけ。一方的に命令を下し、その通りに動くだけの存在でしかない。
だが、この女だけは違う。夜月だけが、このアレンという個を、唯一無二の存在として求めてくれる。
もちろん、頭では理解していた。彼女が求めているのは、この呪印を宿すための器としての俺だ。人間としてではなく、最高の作品を収めるための額縁として執着しているに過ぎない。
歪んでいる。倒錯している。それでも――。この底なしの孤独の中で、誰かに『必要とされている』という感覚は、俺を生かすための麻薬だった。
例えそれが俺を縛り付ける呪印を刻んだ者に与えられるものだとしても、それを振り切るほどの強さを俺はまだ持ち合わせていなかった。
俺は何も言わず、ただゆっくりと彼女の漆黒の髪に指を差し入れ、その頬を撫でる。
それが、俺の答えだった。
「……っ、……ぁ……」
夜月の真紅の瞳が、嬉しそうに潤む。恥じらいながらも、花が綻ぶような笑みを浮かべると、彼女は自ら、その唇を俺のものに重ねてきた。
蝋燭の炎が揺らめき、重なり合う二つの影を、石の壁に長く、長く映し出していた。
俺はゆっくりと目を閉じ、この甘美な毒が、再び俺の全身を巡っていくのを、ただ受け入れるしかなかった。
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