第4話 不穏の兆し

 朝靄の残る村の畑で、俺は鍬を振るっていた。

 泥にまみれながら土を耕す。戦国の領主ともあろうものが、自ら汗を流すなど普通はあり得ない。

 だが村人たちは黙って俺を見ていた。最初は訝しんでいた目が、いまではどこか誇らしげな眼差しに変わっている。


「若様、少し休まれては……」


 川田勘解由が声をかけてきた。村の古株であり、俺の数少ない理解者でもある。

 額の汗を拭いながら、俺は首を振った。


「俺は領主である前に、この土地に生きる一人の人間だ。共に働き、共に食う……それが大事なんだ」


 そう口にすると、勘解由は目を細めて笑った。

「昔の殿様方とは、ずいぶんと違われますな」


 その一言に、俺は苦笑を返した。

――違って当然だ。俺は未来から来た人間なのだから。


◆ ◆ ◆


 日々の暮らしは、少しずつ変わり始めていた。

 肥料を混ぜ込んだ畑の麦は順調に伸び、整列した緑が風に揺れる様は美しい。

 豆も芽を出し、子どもたちが水を運んでは世話をしている。


「母ちゃん! 芽が出たぞ!」

「ほんとだ、若様の言う通りじゃ!」


 子どもたちのはしゃぐ声に、大人たちの顔にも笑みが浮かぶ。

 それだけで、この村に漂っていた重苦しい空気が薄れていくのを感じた。


 食糧事情の改善は人の心を変える。

 それは歴史の教科書でも学んだことだが、実際に目の当たりにすると胸が熱くなる。


 さらに俺は村の女性たちに、布の切れ端を使った雑巾作りを教えた。

「床を拭けば、病が減る」

 と説明すると、最初は怪訝な顔をしていたが、やがてその効果を目の当たりにして納得していった。


「最近は子どもが熱を出さなくなった」

「前より元気に走り回っております」


 そんな声が広がり、俺の言葉は次第に疑いではなく希望として受け止められていった。


◆ ◆ ◆


 しかし、すべてが順調というわけではない。


 その日、村を見回っていた俺の耳に、不穏な噂が届いた。

「若様、隣の岡部領から……山賊まがいの者どもが出没しているそうです」


 勘解由が小声で告げる。

「岡部領……」

 俺は眉をひそめた。地図を頭に思い浮かべる。岡部領は小豪族の支配する土地で、うちの村と境を接している。


 彼らは力を蓄えようと、しばしば周辺の村に兵を送り込んでいた。俺の知る歴史の流れでは、この時期は大名同士の小競り合いが絶えない。つまり――。


「うちの村も狙われる可能性が高い、ということか」


 勘解由が渋い顔で頷いた。

「この村は、戦に疲れ果てております。兵に取られれば、立て直しも水泡に帰します」


 俺は唇を噛んだ。

 まだ武装も整っていない。槍も、まともに扱える男は数えるほどしかいない。


 だが、だからといって黙って奪われるわけにはいかない。


「……準備を始めよう」


「準備、とは?」


「畑の収穫が増えた分を、すべて奪われては意味がない。罠を仕掛け、見張りを立てる。村人たちを守るのは領主の務めだ」


 勘解由の目が大きく開かれた。

 村の者を守る。それは、この時代の多くの領主が軽視することだった。

 彼らにとって百姓は年貢を納める駒に過ぎない。しかし俺は違う。


「若様……。まこと、変わられましたな」


 その言葉に、俺は小さく笑った。

「変わったんじゃない。ようやく、本来あるべき姿に戻っただけだ」


◆ ◆ ◆


 その夜、俺は囲炉裏の前で一人、作戦を練っていた。

 どうすれば農民でも戦えるか。どうすれば犠牲を減らせるか。


 槍衾、落とし穴、石つぶて……

 未来知識を総動員し、頭の中で組み合わせる。


 やがて、炎の明かりの中で拳を握った。

 ――この村は、必ず守る。


 外では、虫の声が響いていた。

 だがその音に混じって、俺には遠くから聞こえる気がした。

 甲冑の軋む音。槍を叩く音。

 戦の足音が、確実に近づいてきていた。

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