第16話 境界の任務
翌朝、午前六時。俺たちは訓練場ではなく、学園の外へ出るよう命じられていた。朝靄がまだ濃く立ち込め、世界を白いヴェールで包んでいる。吐く息が白く煙り、草には朝露が銀色に光っている。だが、その美しさとは裏腹に、空気には不穏な緊張感が漂っていた。
集合場所には、すでに数人の姿があった。皆月先生が重い表情で口を開く。眼鏡の奥の瞳に、普段は見せない深刻さが宿っていた。
「今回の任務は、西地区住民からの緊急通報によるものだ」
先生の声が、朝の静寂を切り裂く。
「家畜が次々と行方不明になり、子供たちが夜泣きを止めない。大人たちも悪夢にうなされている」
美琴が息を呑む音が聞こえた。紅葉も不安そうに尻尾を巻いている。
「結界の隙間から、妖異が侵入している」
その言葉に、全員の背筋が凍る。
「目的は、結界の隙間から侵入した妖異の調査と排除。これは模擬ではない」
先生が一人一人の顔を見回す。
「れっきとした実地任務だ」
失敗すれば、本当に命を落とすかもしれない。そして、近隣住民にも被害が及ぶ。責任の重さが、肩にのしかかる。
「成功すれば、正式な任務記録に残る。君たちの実績となる。失敗すれば……分かっているな」
先生の声が低くなる。その言葉に、全員が息を呑んだ。死、という文字が、頭をよぎる。
同行メンバーは、俺、美琴、天音――そして、二人の追加要員だった。
「如月隼人だ」
背丈の大きな男子生徒が胸を張る。180センチは優に超える長身。肩幅も広く、鍛え上げられた筋肉が制服越しにも分かる。まるで彫像のような、完璧な戦士の体格。
「家系派筆頭、如月家の長男。前衛は任せろ」
彼の制服の袖には、如月家の紋章――三日月と剣が交差した金の刺繍が誇らしげに光っている。名門の誇りと、その重圧を同時に背負っているのだろう。だがその瞳は、俺を値踏みするように細められていた。まるで品定めでもするような、侮蔑と警戒が入り混じった視線。
「……ふん、噂の『無才』か」
その言葉に、棘がある。
「月島沙耶です……」
対照的に、柔らかな物腰の少女が一歩引きながら名乗る。栗色の髪を二つに結び、緊張で頬を桜色に染めている。小柄な体格で、風が吹けば飛ばされそうなほど華奢。
「その、支援術なら多少は……でも、皆さんの足手まといにならないよう頑張ります」
彼女の手には、手作りらしい札の束。一枚一枚丁寧に作られ、大切に扱われているのが分かる。インクの染みや、修正の跡が、彼女の努力を物語っていた。
「一般家庭出身で、独学で術を学びました。よろしくお願いします」
隼人が露骨に舌打ちをする。
「ふん、よりによって無才と素人と組むのかよ」
唾を飛ばしそうな勢いで吐き捨てる。でも、その声には微かな不安も混じっている。虚勢を張っているのが、俺には分かった。
「先日の模擬で少し目立ったくらいで、調子に乗るなよ。実戦は違うぞ。俺の親父は、実戦で三人も仲間を失った。その時の傷跡が、今も背中に残ってる」
その言葉に、一瞬場が凍る。隼人も実戦の恐ろしさを、身近に感じているのだ。美琴がすぐさま立ち上がった。狐式神の紅葉も怒りで赤い毛を逆立てている。
「何ですって! 尚がいなかったら全滅してたの、忘れたの!?」
「あれは偶然だろ」
隼人の声が震える。
「本物の妖異相手に、謎解きごっこが通じるか? 机上の空論じゃ、血も肉も守れない」
「はいはい」
天音が涼しい声で割り込む。でも、その瞳には氷のような冷たい光が宿っている。
「口喧嘩は時間の無駄よ。妖異は派閥の肩書きなんて気にしない。食べられる時は、平等に食べられるわ」
沙耶が小さく悲鳴を上げる。顔が真っ青になった。
「た、食べられる……? 本当に、人を?」
「去年、北地区で生徒が一人行方不明になった」
天音の声が、墓場のように静かだ。
「見つかったのは、制服の切れ端と、歯形のついた生徒手帳だけ」
全員が黙り込む。死の現実が、重くのしかかる。俺は小さく息を吐き、決意を固めた。
「行こう。時間を無駄にしている場合じゃない」
五人で結界の境界部へと歩き出した。朝の森は不気味なほど静かだった。鳥の声すら聞こえない。虫の音もしない。まるで生き物全てが、何かを恐れて息を潜めているみたいだ。木々の影が、まるで黒い手のように俺たちに伸びていた。
***
学園郊外の森、その最深部。ここには澄んだ空気と、死の匂いが同居していた。朝日が木々の間から差し込むけど、その光さえも濁って見える。空気が重く、粘つく。息をするたびに、腐敗した何かが肺に入ってくるような錯覚。
地面には、何かを引きずった跡が残っている。赤黒い染みが点々と続き、その先には――結界の膜が裂けていた。まるで巨大な獣に引き裂かれたように、生々しく口を開けている。その傷口から、黒い靄がどろりと溢れ出していた。瘴気が渦を巻き、空間を歪めている。腐った肉と硫黄を混ぜたような悪臭が、鼻を突く。
「うっ……」
沙耶が口を押さえる。顔が緑色になっていた。
「気持ち悪い……私の村でも、こんな場所があった。家畜が消えて、子供が熱を出して……」
彼女の声が震える。過去のトラウマが蘇っているのだろう。
「でも、誰も近寄らなかった。怖くて、見て見ぬふりをしてた」
「今度は違う」
美琴が優しく沙耶の肩に手を置く。
「私たちがいるもん。一緒に戦おう?」
沙耶の瞳に、小さな光が宿る。
「俺が先陣を切る」
突然、隼人が前に出た。剣を抜き、如月家の紋章が刻まれた柄を握りしめる。
「お前らは後ろで見てろ。これが、名門の戦い方だ」
自信満々の背中。でも、それは無謀にしか見えなかった。
「待て、単独行動は――」
俺の声は届かない。隼人は猪突猛進に妖異へと突っ込んでいった。
「如月家の名にかけて、俺が証明する! 血統の力を!」
黒い靄が急速に形を取り始める。そして現れたのは――三つの頭を持つ、巨大な黒狼だった。それぞれの頭が違う方向を向き、六つの赤い目が獰猛に光る。体長は3メートルを超え、黒い毛皮からは瘴気が立ち上る。ケルベロスを思わせるが、もっと邪悪だ。三つの口が同時に開き、耳を劈く咆哮が響き渡る。
「グルァァァァァ!」
音波が物理的な衝撃となって、木々を薙ぎ倒す。腐敗臭が津波のように押し寄せる。隼人の顔が、恐怖で歪んだ。
「な、なんだこいつ……!」
瞬間、中央の頭が隼人に噛みつく。如月家自慢の結界が、紙のようにあっさりと破られる。
「ぐあっ!」
巨大な牙が、隼人の肩を貫通する寸前――俺は懐の札を引き抜き、震える手で式を書き殴った。結界の破損を検知して、緊急修復。防御を最大まで強化する。
青い光が隼人を包み、間一髪で牙を防ぐ。だが、衝撃は殺しきれない。隼人が10メートル以上吹き飛ばされ、大木に激突した。
「がはっ!」
血を吐く。肋骨が折れたかもしれない。
「く、くそ……如月の技が……通じない……」
プライドが、音を立てて崩れていく。
「立て直せ!」
俺が叫ぶ。
「二列陣形! 隼人は後退! 沙耶は支援に回れ!」
みんなが俺を見る。その瞳には、恐怖と期待が入り混じっていた。
「三つ頭は別々に動いてる! 連携を崩せ! 美琴は左! 天音は右! 真ん中は俺が抑える!」
美琴が狐火を解放する。
「紅葉、いくよ! 狐火・紅蓮の舞!」
無数の赤い火の玉が、左の頭の視界を奪う。天音が氷炎術を展開する。
「氷炎術・凍てつく雷槍!」
青白い雷が、右の頭を凍りつかせる。沙耶も震えながら立ち上がった。
「み、みんなの霊力を増幅します!」
彼女が札を天高く投げる。
「独学で編み出した術……光輪・癒しの加護!」
淡い緑色の光が、全員を包み込む。すると、みんなの術式が一回り大きくなった。傷も癒え、霊力が満ちていく。
「すごい、沙耶!」
美琴が驚きの声を上げる。
「力が湧いてくる!」
隼人が悔しそうに、でも素直に呟く。
「……すまない。俺が、馬鹿だった」
そして、血を拭いながら立ち上がる。
「長谷部……いや、尚。指示をくれ。今度は、従う」
***
そこへ、黒い甲殻の多脚妖異が瘴気をまとって道をふさぐ。力はある。だが、仕様はある。欠陥がなければ触れない。しかも使える改変はせいぜい二〜三回。数で押す相手には通じにくい。
一体に改変を試す——反応なし。
(誤作動じゃない。仕様だ。触れない)
なら、前提をズラす。
「隼人、北側に風の回廊を作れ。沙耶、回廊の内側だけを清浄で満たす」
「天音、左の支柱を切って流路を開ける。美琴、火は
――瘴気が引かれ、甲殻の巨体が体勢を崩す。核へ続く糸が、一筋、細く伸びた。
(仕様は破らない。だが、環境はこっちで決める)
「今——ここで落とす!」
「天音、頼む」
「氷炎術・凍てつく雷槍」
天音が甲殻の巨体の核を打ち砕く。
随伴の甲殻は落ちた。本命は――三つの頭の黒狼だ。
隊列が整うと、戦況は一変した。五人の連携が、初めて本当に噛み合う。隼人がプライドを捨てて、チームの盾となる。
「如月の奥義・鉄壁の守護!」
金色の結界が五人全体を包む。一人では脆かった盾が、仲間を守ることで鋼の強度を得る。
「隼人、右へ誘導! 美琴と連携して!」
「分かった! 尚、お前を信じる!」
初めて、心からの信頼が声に宿った。沙耶の術がさらに輝きを増す。
「みんなの想いを、力に変えます!」
彼女の札が光の粒子となって舞い、全員の術式を繋げていく。
「すごい……みんなの力が一つになってる」
沙耶の瞳に、涙が浮かぶ。
「私、初めて……誰かの役に立ててる」
「最初から立ってるよ」
天音が珍しく優しい声で言う。
「あなたがいなければ、とっくに全滅してた」
三つの頭の黒狼が混乱し始める。別々の標的を追いかけて、動きがバラバラになる。統制が崩れ、隙が生まれた。
「今だ! 中央の頭が無防備!」
「尚、今よ!」
美琴の声に合わせ、俺は最後の式を書き込んだ。全霊力を込めて。三つの頭を強制分離し、核を貫いて消す。
「これが俺たちの――派閥を超えた、本当の力だ!」
青い光が収束し、巨大な光の槍となって黒狼の核心を貫く。三つの頭が苦悶の表情を浮かべ、それぞれが小さく分離していく。そして、断末魔の叫びと共に、黒い影は粉々に砕け散った。瘴気が浄化され、朝の光が森を優しく包む。鳥の声が、恐る恐る戻ってきた。
***
全員が地面に座り込む。疲労困憊だが、生きている。
「……助かった」
隼人が短く言った。誇り高い顔に、素直な感謝が浮かんでいる。そして、俺の目をまっすぐ見据えた。
「お前がいなかったら、俺は死んでた」
深く頭を下げる。
「認める。お前は……本物だ。血筋なんて関係ない。お前には、人を導く力がある」
そして、少し声を震わせながら続ける。
「父に言われてたんだ。如月の名を汚すなって。名を守れって。でも今日分かった。名前なんかより、仲間の命の方が大事だって」
隼人が手を差し出す。
「尚、友達になってくれ」
その言葉に、胸が熱くなる。俺は彼の手を取った。がっしりとした、力強い握手。隼人の手は、剣だこで硬くなっていた。でも、温かかった。沙耶が涙をぽろぽろと流しながら微笑む。
「私……私、初めて実戦で役に立てた」
嗚咽を漏らしながら続ける。
「村では、術を使える人が少なくて……私なんて、何の役にも立たないって思ってた」
美琴が沙耶を抱きしめる。
「沙耶ちゃんの支援、すごかったよ! 霊力の配分も完璧だった」
天音も認める。
「才能があるわ。磨けば、学園一の支援術師になれる」
俺は五人を見回して言った。
「派閥なんて関係ない。ただ、仲間として戦う。それだけで、どんな敵にも勝てる」
皆月先生が現れ、満足そうに頷く。
「任務完了だ。西地区の住民も安心できる」
先生の瞳に、誇らしげな光が宿っていた。
「全員、よくやった。これが、本当の陰陽師の戦い方だ」
遠くで結界塔が光を放つ。それは警告の光じゃなくて、祝福の青い光だった。五人で肩を並べて、学園への帰路につく。隼人と沙耶。新しい仲間が増えた。派閥を超えて、本当の意味での仲間が。それぞれの事情を抱えながらも、同じ方向を向いて歩ける仲間が。
(今日、また一歩前進した。派閥の壁を、また少し崩せた)
次の試練が近づいていることを、俺は感じている。でも、もう怖くない。みんなと一緒なら、どんな敵だって倒せる。俺たちの本当の戦いは、これからだ。
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