第15話 決断と試練
翌日。教室に足を踏み入れた瞬間、視線の槍が俺を貫いた。朝の光が差し込む教室は、もはや戦場だった。机と机の間を縫うように、派閥の使者たちが俺に向かって殺到してくる。まるで血の匂いを嗅ぎつけたハイエナの群れ。その瞳には、欲望と野心がぎらぎらと光っていた。
「長谷部君」
家系派の上級生――黒崎が、まるで商談でもするかのような笑みを浮かべて近づく。高級そうなスーツの制服から、権力の匂いが漂ってきた。
「君が家系派に加われば保証しよう。長谷部家を正式に取り立て、有力家系との縁組の話も用意してやる」
俺の人生を、まるで商品のように扱う。その言葉に、胸の奥で何かが冷たく燃えた。
「ふざけるな!」
一般派の代表――武藤が割って入る。額に汗を浮かべ、血走った目が必死さを物語っていた。
「尚は俺たち一般派の希望の星だ! 会長に認められたんだぞ! 家系派なんかに渡すもんか!」
甘言と称賛。脅しと懐柔。だがどちらも同じに聞こえる。俺という道具を、どう使うかの話でしかない。
(結局、俺の意志なんて誰も聞いちゃいない)
教室の空気が、どんどん重くなっていく。まるで見えない鎖が、俺を縛ろうとしているみたいだ。その時――パン! 美琴が机を激しく叩いて立ち上がった。狐式神の紅葉も毛を逆立てて威嚇の姿勢を取る。朝の光を受けて、その赤い毛並みが炎のように輝いた。
「尚を駒扱いする気!?」
普段の優しい美琴からは想像できない、激しい怒り。その瞳には、本物の狐火が宿っているようだった。
「ふざけないで! 尚は誰のものでもない! 自分で道を選ぶ人なの!」
美琴の声が、教室中に響き渡る。天音も優雅に立ち上がる。氷のように冷たい視線で、派閥の使者たちを見回した。
「……群れるしかできない者ほど、声が大きいのね」
その声は静かだが、まるで氷の刃のように鋭い。
「一人では何もできない臆病者たち。だから群れて、優秀な個人を取り込もうとする」
痛烈な一言。派閥の使者たちが顔を赤くする。
「なんだと!」
「桐生、調子に乗るな!」
今にも乱闘になりそうな雰囲気。教室の温度が、一気に上昇したみたいだった。でも――俺は静かに立ち上がった。椅子が床を擦る音が、妙に大きく響く。
「みんな、聞いてくれ」
俺の声は、それほど大きくない。でも、なぜか教室全体に響き渡った。静寂が広がる。全員の視線が俺に集まる。期待、不安、怒り、様々な感情が入り混じった瞳たち。俺は拳を握り、胸の奥で結論を下した。昨夜、眠れぬ夜を過ごしながら考え抜いた答え。そして、はっきりと告げる。
「俺は、どちらの派閥にも属さない」
ざわめきが起こる。でも、俺は続ける。
「生徒会に入る」
爆発的な騒ぎが起きる。
「生徒会!?」
「まさか、会長の誘いを受けるのか!」
「裏切り者!」
罵声が飛び交う。でも、俺は怯まない。
「派閥争いは学園を弱くするだけだ」
俺は一歩前に出る。朝の光が、俺の影を長く伸ばした。
「妖異は派閥なんて関係なく襲ってくる。なのに俺たちが内輪で争ってどうする?」
教室が少し静かになる。
「俺は生徒会で、両方を繋ぐ橋になる」
深呼吸して、最後の宣言をする。
「それが俺の選んだ道だ。――派閥の壁なんて、全部ぶっ壊してやる!」
そして、教室全体を見回し、力強く叫んだ。一瞬の静寂の後、教室が騒然となった。賛同の声、反発の声、困惑の声。様々な感情が渦巻く中、俺は静かに席に着いた。
(派閥なんて壊してやる。いや、壊すんじゃない。繋ぎ直すんだ)
美琴が俺の手を握る。その手は、温かかった。
「尚、かっこよかったよ」
天音も小さく頷く。
「見事な決断ね。あなたらしいわ」
二人の支えが、俺に力をくれる。
***
放課後。再び高等部生徒会室に呼ばれた。今度は自分の意志で、この重い扉を叩く。夕陽が差し込む部屋は、朝とは違う表情を見せていた。オレンジ色の光が、古い書物や呪符を神秘的に照らし出している。窓の前に立つ白銀透華は、俺を見るなり妖艶に微笑んだ。その笑みには、満足と期待が混じっていた。
「面白い宣言だったわね」
彼女が優雅に振り返る。夕陽を背にしたその姿は、まるで絵画のように美しい。
「『全部ぶっ壊す』なんて、随分と過激じゃない」
「……聞いてたんですか」
「当然よ。生徒会の情報網を舐めてはダメ」
透華はくすくすと笑う。その笑い声が、鈴の音のように部屋に響いた。
「でも気に入ったわ。その意気込み」
俺は深呼吸をして、決意を口にする。
「来年、初等部の生徒会に入ります」
その一言を口にした瞬間、胸の重石がひとつ外れた。自分で選んだ道。誰に流されたわけでもない、俺自身の決断。解放感と同時に、責任の重さも感じる。隣で控えていた柊司が、眼鏡を光らせながら眉を寄せる。
「本気ですか? 両方の派閥から敵視される可能性もありますが」
「覚悟の上です」
俺の答えに、司は小さく息を吐いた。
「駒かどうかは本人次第よ」
透華は微笑んだまま言い切る。その瞳に、確かな期待が宿っていた。
「長谷部。あなたは一昨日証明したわね。混乱を収め、秩序を繋げる力を」
彼女が一歩近づく。甘い香水の香りが、俺の鼻をくすぐった。
「それを生徒会で磨きなさい」
そして、俺の耳元で囁く。
「そして――私を楽しませてちょうだい。"弟候補"」
また顔が熱くなる。この人は本当に、俺をからかうのが好きみたいだ。でも、その言葉の裏には、確かな期待があることも感じる。俺は深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
***
直後、透華の表情が一変した。まるで仮面を付け替えたように、その顔が冷徹な指揮官のものになる。視線を司に送り、分厚い資料の束を机に叩きつけるように置いた。赤い「機密」の判が、不吉な血印のように見える。
「次の任務を伝えるわ」
部屋の空気が、一気に張り詰める。
「今度は実戦よ」
透華の声が、刃のように鋭くなった。夕陽の光が、その瞳を赤く染める。
「結界の隙間で不穏な動きが観測されている。妖異の群れが組織的に結界を探っている」
俺の背筋に、冷たいものが走る。組織的? 妖異が?
「知能を持つ上位妖異が、下位を統率している可能性がある」
司が資料を開きながら補足する。
「――そこに小等部有志を投入する」
「俺たち……小等部が?」
声が震えそうになるのを、必死で抑える。
「そう。これは"試験"じゃない」
透華の瞳が、俺を射抜く。
「"選別"よ」
その言葉の重さに、息が詰まりそうになる。
「昨日のように修正だけで済むと思わないことね」
透華が窓に向かって歩く。結界塔が、不穏な赤い光を放っているのが見える。
「今度は、自分の術をどう磨いてきたかが試される」
司が静かに頷いた。眼鏡の奥の瞳が、冷たく光る。
「つまり、長谷部君が本物かどうか、見極める機会でもあるわけですね」
「その通りよ」
透華は容赦なく言い放つ。振り返ったその顔には、一切の甘さがなかった。
「生徒会に入るということは、常に試されるということ」
俺を見据えて、最後の問いを投げかける。
「――覚悟はある?」
俺は震える拳を、ぎゅっと握りしめた。爪が手のひらに食い込む。痛みが、俺を現実に引き戻す。派閥を超えて学園を守ると決めた。ならば、その第一歩がこれだ。
「はい。必ずやり遂げます」
声を震わせないよう、しっかりと答える。透華が満足そうに微笑む。その笑みには、試験官の冷酷さと、姉のような温かさが同居していた。
「いい返事ね。期待してるわ」
そして、重い資料を俺に手渡す。
「詳細はこれを読んで。明後日、午前六時集合。遅刻は許さない」
資料を受け取る手が、微かに震えた。でも、それは恐怖じゃない。武者震いだ。
(これが、俺の選んだ道の第一歩)
***
夜。自室の机に向かい、俺は新しい術式の改良に没頭していた。窓の外では、結界塔が不穏な光を放っている。赤と青が混じった警戒色。まるで嵐の前の静けさを告げているみたいだ。ランプの光に照らされた紙の上を、ペンが走る。妖異の組織的行動に対する、対抗策。
群れで動く妖異。統率者がいるなら、そこを狙う。いなければ、個別に分離して各個撃破。手が止まる。これだけじゃ足りない。もっと、もっと精度を上げないと。額から汗が一滴、紙の上に落ちた。インクが滲む。
ふと、美琴と天音の顔が浮かぶ。二人も、きっと一緒に戦ってくれる。派閥なんて関係なく、仲間として。
(もう後戻りはできない。でも、それでいい)
机の引き出しから、いつものノートを取り出す。毎日記録してきた、小さな成長の証。表紙は使い込まれて、角が丸くなっている。今日は特別なことを書く。
『生徒会入り決定。派閥の壁、全部ぶっ壊す』
そして、その下に小さく付け加える。手が震えて、字が少し乱れた。
『美琴と天音と、ずっと一緒に』
恥ずかしくて顔が熱くなったけど、消さない。これも俺の本音だから。大切な想いだから。胸の奥に炎が燃え広がる。それは恐怖をも呑み込む、決意の火だった。明後日の任務で、俺は証明する。派閥の壁を壊し、新しい道を作る者だということを。
結界塔の光が、また一段と強くなった。まるで、俺たちの決意に応えるように。あるいは、来るべき試練を予告するように。どちらにしても、俺は前に進む。仲間と共に、自分が選んだ道を。
「――派閥の常識なんて、全部ひっくり返してやる」
呟いた言葉が、夜の静寂に響いた。窓の外で、星が瞬いている。その光は、希望の光にも見えた。明後日――俺の本当の戦いが始まる。
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