第6話 夜明けの川と、嵐の気配
夜明け前の薄闇の中、僕は誰にも告げずにカザマチの門をくぐった。ナツメグ亭の女主人がこっそり持たせてくれた焼き菓子の温かさが、まだ鞄の奥にかすかに残っている。それとは裏腹に、宴会で浴びた感情の濁流は、冷たい澱となって胸の奥に重く沈んでいた。
(……さて、行くとしますか)
カザマチの街から離れるほどに、人々の声の残響は薄れていく。それでも、一度触れてしまった強い感情の影響は、すぐには消えてくれない。足元の道が、いつもより饒舌に過去を語り始めた。
《……昨夜は重かった……たくさんの足音……今朝は軽い……一人だけ……》
風の声も、相変わらずおしゃべりだ。
《……ナツメグの甘い匂い……工房の油……洗濯物の匂い……》
(分かったよ。だから今は、少し静かにしていてくれ)
僕は耳を閉じてただ黙々と、東へ向かって足を運んだ。
半日ほど歩いただろうか。視界が開け、穏やかな川岸に出た。広く、流れは緩やかで、川底の丸い石まで透き通って見える。その絶え間ないせせらぎの音は、僕の心に溜まった澱を洗い流してくれるように、心地よく響いた。
(水……)
僕は吸い寄せられるように岸辺に荷物を下ろすと、ブーツを脱ぎ、流れの緩やかな浅瀬に足を踏み入れた。夏の冷たい水が、火照った身体に心地いい。服を緩め、ためらうことなく、そのまま肩まで水に浸かった。
ざあ、と流れが僕の体を通り過ぎていく。物理的な汚れだけではない。心の澱まで、この流れが押し流してくれるような気がした。
(感謝されるのは、嬉しかった。リラと話したのは、楽しかった。でも、その結果がこれだ。善意ですら「溜まって」しまうなら、僕はどうすればいい? 人と関われば関わるほど、僕は僕でなくなっていく。……こんな旅に、意味はあるのか?)
この呪いを制御する方法を見つけない限り、誰かと本当の意味で繋がることはできない。
僕は水をすくい、顔を洗った。アルメの街へ行かなければ。祈祷師に会わなければ。その思いが、昨日までよりずっと切実なものになっていた。
川岸で火を起こし、簡単な食事を済ませる。日はとっくに暮れ、空には数えきれないほどの星が瞬いていた。その夜、僕は久しぶりに、故郷の夢を見た。
――濁流の音。山が崩れ、水が村を飲み込んでいく。僕が善意で解放した、地下水脈。
――《化け物!》
僕を罵る、昨日まで隣人だった人々の声。憎悪と恐怖に歪んだ顔。
うなされて目を覚ますと、空が白み始めていた。
悪夢の余韻が、苦い味となって口の中に残っている。僕は上体を起こし、川岸に座って、暗い水面を眺めた。
やがて、東の山の稜線が、金色に縁取られる。朝陽が差し込むと、川面は光を受けて、無数のダイヤモンドのようにキラキラと輝き出した。夜の闇を洗い流すように、世界が光で満たされていく。
(……最悪の夜の後にも、朝は来る。濁った水も、流れ続ければ澄んでいく……僕も、まだ進めるはずだ)
僕は両手で川の水をすくい、顔を洗った。冷たさが、眠気と悪夢の残滓を綺麗に拭い去ってくれる。新たな決意で、僕は荷をまとめた。
再び歩き始めた僕の足取りは、昨日とは比べ物にならないほど軽やかだった。
だが、太陽が一番高い位置を過ぎたあたりで、風の声が不意に変わった。さっきまでの穏やかな囁きじゃない。歓声のような、荒々しい雄叫びだ。
《来た、来た、来たァ!》
《西からすごいのが来るぞ! 土と水をひっくり返す、でっかい祭りだ!》
(まずい! 風の祭りに巻き込まれないようにしないと!)
見上げると、西の空の果てが黒く塗りつぶされていた。みるみるうちにその黒がこちらへ迫り、生ぬるい風が暴風へと変わっていく。
(どこか、雨と風をしのげる場所は!)
僕は必死に意識を足元へ向ける。この土地の記憶を持つ声を探す。
あった。道が、過去の光景を伝える声で応える。
《……丘の裏側……岩の裂け目……昔、獣が使っていた……今は空……》
大粒の雨が地面を叩き始める。僕は丘の斜面を駆け上がり、言われた通り裏手へ回り込む。そこには、巨大な岩が折り重なるようにしてできた、大人が一人屈めば入れるくらいの裂け目があった。
転がり込むように洞穴へ避難した直後、空が裂けたような轟音と共に、嵐が本格的に牙を剥いた。
(……助かった)
荒い息を整え、濡れた髪をかきあげる。目が暗闇に慣れてくると、この洞穴がただの岩の裂け目ではないことに気づいた。
奥は意外に広く、壁には煤の跡。地面には、石で組まれた粗末な炉がある。その脇には平たい岩が持ち込まれ、作業台のようになっていた。
そして、その作業台の上には、石を削って作られたのであろう、いびつな人形のようなものが、いくつも並べられていた。掌に収まるサイズで、鳥のようにも、獣のようにも見える。
(人が住んでいたのか。何のために、こんなものを……?)
嵐が止むまで、少しだけ、この人の場所を借りることにしよう。僕は炉の前に座り込み、外で荒れ狂う雨の音に、静かに耳を澄ませていた。
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