第5話 やっぱり僕は、長くはいられない

翌朝、僕は宿の食堂で、名物の揚げ菓子を口に運んでいた。窓から差し込む柔らかい光が、テーブルの上の蜂蜜をきらきらと輝かせている。


(うん、うまい。昨日の冒険のご褒美は、これってことかな)


サクサクの生地と、ナツメグの甘い香りが口の中に広がる。昨日の騒動が嘘のように、街は穏やかな朝を迎えていた。


食後、僕はリラに教えられた南通りの診療舎へ向かった。

診察してくれたのは、人の良さそうな年配の医師だった。僕は自分の症状を、できるだけ曖昧な言葉を選んで説明する。

「……人の多い場所に長くいると、胸の奥に重いものが溜まる感じがするんです。夜には、時々ひどくうなされますし」

医師は僕の脈を取り、静かに頷いた。

「体は健康そのものですな。ですが、あなたの言うその症状、魂の疲れに近いものやもしれん。私の領分ではありませんが、そういう相談なら、北東にあるアルメという川沿いの街がいいと聞きます。水の都と呼ばれるほど清らかな場所で、腕のいい祈祷師がいるそうです」


(アルメ……水の都か)


新たな地名が、僕の漠然とした旅に、確かな道筋を与えてくれた気がした。


宿に戻ると、入り口でリラが腕を組んで待っていた。

「カイ! ちょうどよかった。今夜、工房のみんながお礼の宴会を開いてくれるの。あなたも主役なんだから、絶対に来てよね!」

「宴会……」

その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の奥が少しだけ重くなる。人の集まる場所は、できるだけ避けたい。

「大丈夫よ」

僕の表情を読み取ったのか、リラは笑った。

「工房の職人たちだけの、ささやかな集まりだから。それに、あなたがいなきゃ始まらないわ」


(ささやかな集まり、か……)


彼女の屈託のない笑顔に、断るという選択肢は僕の中から消えていた。


宴会は、工房の片隅を借りて開かれた。職人たちは気さくな人たちで、僕のグラスに次々と果実酒を注ぎ、「風の声を聞く旅人さん」と口々にもてはやした。


(風の声、ね。あながち間違いじゃないのが、何とも言えない気分だよ)


最初は、その温かい雰囲気を僕も楽しんでいた。リラが、僕が崖の上で言った「風が唸ってる」というセリフを大げさに真似て、みんなを笑わせている。

だが、時間が経つにつれて、人々の陽気な感情だけではなく、この工房の壁や床に染みついた過去の声までが混ざり合い始めた。長年の作業で生まれた職人たちの苛立ち、酒に紛らせた誰かの悲しみ、過去の言い争いの怒声……。それらが、今の温かい歓声と一緒になって、僕の頭の中でどうしようもない不協和音を奏で始める。


(まずい……不協和音がひどくなってきた)


キーン、という金属をこするような高い音が、耳の奥で鳴り始める。耳鳴りだ。人の感情が許容量を超えた、危険な合図。


「すまない、リラ。少し、夜風に当たってくる」

僕は、これ以上ここにいては危険だと判断し、席を立った。

「え、カイ?」

心配そうなリラの声を背中に受けながら、僕は工房を抜け出し、夜の冷たい空気の中へ逃げ出した。


宿の自室に戻り、ベッドに倒れ込む。街の喧騒から離れたはずなのに、耳の奥でまだ職人たちの笑い声が反響していた。


(やっぱり、僕は……こういう場所には、長くはいられない)


宴会の温かさと、孤独なこの部屋の静けさ。そのあまりの落差に、僕は小さく息を吐いた。そして、手帳を開き、医師が教えてくれた次の街の名前を、指でそっと、なぞるのだった。

――アルメ。

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