第27話 正しさ

 学園の周囲には町などの集落が見当たらない。そこそこ幅の広い街道があるだけで、あとは自然だ。こういう環境もあって全寮制となっているのだろう。


「うう、わああん」


 わたしは涙をぽろぽろとこぼしながら走った。悲しくて悔しい気持ちが心の奥底から止めどなく溢れてくる。

 思い上がっていた自分が惨めで恥ずかしい。やっぱり異世界に来てもわたしは陰キャなわたしのままなのか。そりゃそうだ。居る世界が変わっただけでわたしという存在が作り替えられるわけではないのに。どれだけ意気込んだって、友達の一人も居ないような人間から人気者に変われるわけがない――そんなネガティブな感情でわたしの胸は満たされていた。

 なだらかな丘を登って行く。行く当てはなかったけれど、とにかく学園から遠ざかりたかった。どこかに向かっているわけではない。ただ逃げているだけ。わたしはいつもそうやって嫌な事から逃げて来た。

 しかし、わたしはその足を止める事になった。

 わたしの進路上に人影があったからだ。


「学園長……」


 アグリヴァルズ・プルネトルク。

 わたしよりも幼く見える彼女の瞳はしかし大人のそれで、わたしが子どもであるという事を映す鏡のようだった。

 気まずくて、わたしは視線を逸らした。


「……何なんですか。わたしを連れ戻しに来たんですか」


 わたしの口調はつっけんどんで、学園長という立場の人間に対するものとしては相応しくないものだっただろう。しかし、学園長はそれを窘めようとはしなかった。


「違う。悩める生徒に寄り添う事がわしの使命だからおぬしの元に来たのじゃ」


 そう真っ直ぐに告げられ、やっぱりこの人は良い人なんだと思った。

 けれど、だとしたら納得がいかない。


「……どうしてあなたは、学園長という立場にありながら、こんな学園の在り方を受容しているんですか」


 生徒に体罰当然の事をする教師。

 貴族の立場で社会的立場の無い者を罵倒する生徒。

 そして――強き者こそが正しいとされる『魔炎闘技』。


「こんな学園が……正しいと思っているんですか」


 すぐに返答は無かった。答えに窮しているのだろうか――そう思った時、彼女は口を開いた。


「――正しさとは人の数だけ存在する。わしはそう思っている」


 わたしにはそれが詭弁に思えた。


「誰かを傷付ける事が正しさだっていうんですか」


 反論を口にした。


「一般的には違う。しかしそれが正しい時もあるのじゃ。誰も傷付けず、優しさを振り撒く事が一般的には正しいとわしも思っておる」

「だったら」

「しかし、正しさは時として諸い。特に誰も傷付けない正しさと言うのは、悪しきものが牙を剥けば薄い硝子のように簡単に砕け散ってしまうじゃろう」

「それは……そうですけど」

「人間が正しくあり続けるには、強大な暴力に晒されようとも淘汰される事の無い強い正しさを育んでいかなければならないのじゃ」


 含みのある言い方だった。


「異世界から来たというおぬしは知らないのも無理はない。伝えておくべきじゃったな。かつてこの世界に災厄を齎した魔神は封印された。それが664年前の事。しかし封印は666年の時によって破られるのじゃ」

「え――」


 魔神の封印が保つのは666年。そして封印から664年が経過している。という事は――。


「魔神の復活まであと2年。その脅威に対抗すべく、我々は強き正しさを求めているのじゃ」


 わたしは愕然とし、言葉を失った。

 学園長の言い放った事実がわたしの胸に矢のように突き刺さっている。

 魔神の復活。この世界に来たばかりの私がその事を評するのはおこがましい事かもしれない。でも、深刻な事なのだろう。多分、世界の存亡にも関わるほどの事だ。


「他者を尊重し、誰かを傷付けてしまう力を放棄し、ただ優しさで以て接する事は尊き正しさなのじゃろう。じゃが、その正しさは弱いのじゃ。残酷な事じゃが、暴力によって簡単に駆逐されてしまう」


 彼女の理屈は理解出来る。前の世界でだってそうだった。誰かを思いやり優しく他者に接する事が正しいのだと皆が知っている。けれど、世の中には悪がはびこって、そういう正しさを実践している人は馬鹿を見る事になる。


「どんなに高潔な正しさであっても滅ぼされてしまえばそれまでじゃ。故に、その価値は承知の上で、わしらは滅ぼされる事の無い強き正しさを育むシステムを採用しておる」


 そう言った学園長の表情には陰が見えた。


「そう、だったんですね……」


 そのような事情があるならば、わたしが理不尽に感じている事はとても合理的なのだと思う。


「もしおぬしの信じる正しさが真の正しさだというのなら――おぬしにはそれを証明する術がある」


 彼女にそう言われ、わたしははっとした。


「わたしに、『魔炎闘技』で戦えというんですか」

「強要はせぬ。わしはただ提案するだけじゃ」


 わたしは黙りこんだ。


「……おぬしには凄まじき戦いの才能がある。自信を持つのじゃ」


 学園長の言葉をわたしは疑わしく思った。


「わたしに、戦いの才能が……?」


 わたしはまさに自分の才能の無さに嫌気がさして逃げ出して来たというのに。


「そうでなければ、正規の試験を行ったわけでもないのに入学を認める筈が無い。わしは今まで沢山の生徒たちを見てきて、確かな審美眼を持っていると自負しておる。わしの言う事が信じられぬか? 事実、おぬしは魔力測定において1万メズルを超える魔力値を出したというではないか。これで才能が無いと言ったら他の生徒たちが可哀想じゃ」

「それでもわたしは授業に全然付いていけないですし……」

「産まれたばかりの赤子が立って歩き、言葉を流暢に話すじゃろうか? こちらの世界に来たばかりなのじゃから、すぐに適応出来なくて当然じゃ」

「けれど学園長は授業が『多少ハード』って言ったじゃないですか……わたしにとっては多少どころじゃないんですよ……」

「それは……すまぬ……おぬしが運動に不慣れなのが、わしの想定を超えていて……」


 学園長は視線を逸らしてすごく申し訳なさそうに言った。そうだよ! わたしは運動音痴の陰キャだよ!


「じゃが、体力は必死になって身体を動かしていれば、そのうちに手に入るものじゃ。勿論一朝一夕とはいかぬが。――トトノはきっと、それをおぬしに期待していたのじゃろう」

「トトノ先生が、わたしに期待……?」


 その事はすぐに受け入れられなかった。


「うむ。おぬしは魔法に関しては素晴らしき才能を持っている。であれば、人並みの身体能力さえ獲得すればおぬしは抜きん出た戦士になれるではないか。トトノは『凄い才能の子が私のクラスに入って来た』と喜んでおったぞ」


 トトノ先生が喜んでいた? わたしの才能に?


「おぬしにとってトトノは厳しい教師じゃったかもしれぬ。おぬしの限界を鑑みない授業を行ってしまった事は事実であり、その事は申し訳無く思う。じゃが――それは期待の裏返しでもあったという事を分かってやれぬじゃろうか。早くおぬしを一人前にしたいと逸ってしまったのじゃろう」


 わたしが期待されている。そんな事今まで一度だって無かった。


「……わたしが戦って、勝てますか」


 わたしはそんな疑問を口にした。

 その時、わたしの脳裏に浮かんでいたのはいつもわたしに突っかかって来る悪役令嬢――テオシアーゼだった。


「おぬし次第じゃ。可能性は十分にある、とでも言っておこうかの」


 わたし次第。それはその通りだ。わたしの中に眠る力は勝手に敵を蹴散らしてくれるものではない。わたしが手綱を握り、振るわなければならない。


「……やります」


 わたしは決意を口にした。


「わたしは弱くないって。わたしが正しいんだって証明してみせます」

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