第22話 破門聖女



 竜胆ウルウとアナテマ=ブレイクゲートが出会う、その一年前の話。

 アナテマ──今はそう名乗っている、『預言の聖女』エルマ=エスペラントは摩天峰バベルの頂上にいた。


「……空って、黒かったんだ」


 エルマ=エスペラントは頭上を見上げ、そう呟いた。

 晴天である──そもそも雲より標高が高いため空を遮るモノがない──が、エルマ=エスペラントの目に映るのは青空ではなく濃紺と黒の境にあるようなイロだった。


 摩天峰バベル。天まで届く高さがあり、かつ地平線の彼方まで続く大陸縦断山脈。

 空気が非常に薄いため、太陽光の反射がほとんど起こらず宇宙ソラの色そのものが見える。


 だが、何より目を引くのは空ではない。地上の光景を遮る雲海でもない。

 上でも下でもなく、最も重要なのは横──


 それは


 円形になるように建てられた六つの木造の門と、その中央に置かれた簡素な松明たいまつ

 それこそが聖火教会の秘奥、エルマ=エスペラントが必死に登山をした理由の全てだった。



「あれは『神の門バベル』。この山脈の名前の由来にもなった秘境の神器。このアタシでさえ見るのは二度目だ」



 エルマ=エスペラントに声をかけたのは、赤と白で彩られた豪奢な祭衣ドレスを纏った一人の老婆。

 地面にまで垂れ下がった六メートル近い長髪は年齢に相応しい白髪ではなく、鮮血や業火のように紅蓮に輝く。


 顔には深い皺が刻まれており、体も骨と皮しかないとさえ思えるほどに痩せ細っている。化粧のおかげもあってか顔こそ一般的な老婆のようだったが、正直に言って動く木乃伊ミイラと紹介されても納得してしまう外見。

 しかし、それでも、若い頃は美しかったのだろうと自然と思ってしまう骨格と、老いてもなお曲がる事ないピンとした真っ直ぐ伸びた背筋を持った女性だった。


 彼女の名はアナスタシア=フィーニクス。

 聖人序列三位、『豊穣の聖女』。

 二百年前に魔王を倒した勇者一行パーティの一員であり、聖火教会最強とも名高い神官。

 


「この門は『預言の奇蹟』を行使する際にのみ使われる専用の祭具。……数多ある奇蹟の中でも、『預言の奇蹟』は祈祷術でさえ再現しきれない。聖火を絶やさず摩天峰バベルを登り、頂上で儀式を行わなけりゃ発動さえしない」

「め、面倒だなあ……」

貴殿アンタが授けられた奇蹟ってヤツは、それほどに貴重ってワケだ。聖人序列一位、『預言の聖女』エルマ=エスペラント」


 アナスタシアの瞳に輝きはない。

 噂によると、魔王の呪いによって視覚を奪われたらしいそれ。

 だが、めしいたとは思えないほどに、老婆は真っ直ぐエルマ=エスペラントを見つめて告げる。


「わたしの序列はまだ一位じゃないでしょ。聖人序列は功績順。わたしの奇蹟なんて大した貢献はできないんだから」

「だが、貴殿アンタが一位になる事は確定事項だ。今の序列一位は祈祷術を人類ヒトに広めた功績を持つが……殿

「…………」


 聖人序列一位。

 誰よりも人類ヒトを救った者に与えられる称号。

 『預言の聖女』エルマ=エスペラントは若くしてそれに内定していた。


「歴史上に『預言の聖女』はそれなりにいた。若い頃、アタシも会った事あるよ」

「……アナスタシアの若い頃って何百年前?」

「茶化すな、馬鹿娘」

「あうっ」


 バチコーン! とアナスタシアのしっぺがエルマ=エスペラントの額を撃ち抜く。

 老婆の癖して、異常に力強くて痛い一撃だった。


「記録に残っているだけでも八人。だけどな、貴殿アンタと同じ『預言』を授けられたヤツはいなかった」

「わたしの……『言葉』の知識が、」

「そうだ。井戸の知識を授けられた聖女、料理や毒抜きの知識を授けられた聖人、後は……数百年先の未来の知識を授けられたなんてヤツもいたか。それでも、どんな知識も貴殿アンタが持つ『言葉』に関する知識には敵わない」


 『預言の聖女』。

 それは単に神から知識を授けられた人類ヒトという意味でしかなく、知識の種類が何かなんてのは関係ない。

 だから、言葉に関する知識を授けられたエルマ=エスペラントは、千年ある聖火教会の歴史でも、本当に奇跡としか言いようのない希望だったのだ。


「神様が人類ヒトを救えないのは、人類ヒト希望しあわせが分からないからだ。だが、貴殿アンタなら神様に伝えられる。神様の言語を理解し、それを話す事のできる貴殿アンタなら」


 神を説得し、神に直接人類ヒトを救ってもらう。

 セカイを救う。それができる唯一の存在こそが、神の言葉を授けられた『預言の聖女』。


 そのための場が『神の門バベル』。

 本来なら神から人類ヒトへ一方的に話す場所であるが、それを応用してエルマ=エスペラントの言葉を神に届ける事を可能とする。


貴殿アンタには才能がある。全ての人類ヒトを、この神様の見守る大地シア・マーティラスを丸ごと救える才能がな」

「…………うん」


 しかし、エルマ=エスペラントはどこか暗い表情をしていた。

 アナスタシア=フィーニクスも顔は見えずとも声からそれを察知したが、問い尋ねている暇はなかった。


「……っと、準備が終わったようだね。アタシらも行くよ」


 教皇、枢機卿、『盈月の聖人』、『審判の聖女』。

 聖火教会の錚々たる顔ぶれが儀式の仕上げを行う。目的はただ、神との対話を正しく実行するため。


 祈祷術には六つの要素がある。

 神殿は摩天峰バベルの頂上そのもの、礼装は用意された赤と白の祭衣ドレス、舞踏は『盈月の聖人』が行い、祝詞は教皇が行なった。祭具は目の前にある『神の門バベル』。


 そして────



 ──



「…………え?」

アタシ供物こいつを火の中に投げ入れたら神様との窓口が開く。そこから先は、貴殿アンタに任せたよ」

「ま、待って。供物って……その子?」

「そうだ。聖火が宿った朝告鳥ニワトリの聖鳥。最高品質の供物だ。神との窓口は最低でも六分は保たれるだろうさ」

「…………そう、なんだ」


 それは千年に一度の奇跡だった。

 神の言葉を理解できる聖女がいて、神と対話するための建造物があって、窓口を長く保つための最適な供物がある。しかも、火の神マーティラスの力が最も強まる夏至と満月が重なる約六〇年に一度の日。

 二度とないとさえ言える偶然が揃った。同じ条件を揃えるには一万年かけてもあり得るか分からない。それほどまでの奇跡。きっと、この瞬間、人類ヒトはあらゆる絶望を乗り越える。


 だが、エルマ=エスペラントは上の空だった。

 彼女の目に映るのは一羽の朝告鳥ニワトリ

 コケッ、と小さく鳴いたそれから目を離す事ができなかった、


 誰も気にする事なんてなかった。

 目の前の偉業を前に何も見えない。

 目の前の奇跡のためなら些事でしかない。


 

 




 




「────────────は?」


 燃える、燃える、燃える。

 六つの木造の門が。

 神と対話する『神の門バベル』が。

 全ての人類ヒトを、神の見守る大地シア・マーティラスを救う希望が燃え尽きる。


 時間が止まったようだった。

 聖人も、聖女も、枢機卿も、教皇も。

 誰も、何も、動けなかった。言葉すら出なかった。


 その凶行に理解が追いつかなかった。

 一部始終を側で見ていたアナスタシア=フィーニクスにだって意味が分からなかった。


貴殿アンタっ、何を……ッ⁉︎」

「ごめん! でもっ、見捨てられない‼︎」


 エルマ=エスペラントは全ての命を等価に感じてしまう。

 人類ヒトの命も、蟻の命も、全て同じに感じてしまう。だから、他人にとっては供物に過ぎない家禽かちくも、彼女にとっては人類ヒトだったのだ。


 彼女はたった一羽の朝告鳥ニワトリを救うため、全ての人類ヒトの救いを放り出した。

 『神の門バベル』を破壊し、千年に一度の奇跡を投げ捨て、人類の希望を燃やし、誰もが救われる楽園を崩壊させた。


 かくして、エルマ=エスペラントは──





「……そう、だね。わたしには全ての人類ヒトを救う手段があった」


 現代。

 激流樹海アシリミッツに存在する天然の檻にて。

 ハラム=アサイラムに糾弾されたアナテマ=ブレイクゲートは素直に頷いた。


「吾輩は貴様の事を調べた! たった一羽の家禽のために人類全てを見捨てた愚か者! 史上最悪の裏切り者、破門聖女‼︎ 貴様が朝告鳥ニワトリなんかを助けようとしなければ、神を心の底から信仰する事のできない人々だって救われていたのではないか⁉︎」

「……かも、ね。君の言ってる事は正しいよ」


 アナテマ=ブレイクゲートは──かつて『預言の聖女』エルマ=エスペラントと名乗っていた少女は、ハラム=アサイラムの罵倒を受け入れた。


 しかし、その上で。

 彼女は当然のようにこう続けた。





 真っ直ぐな瞳で。

 何の迷いもなく、言い切った。


「意味が、分からん。理解ができない! なぜだ! なぜそうなる⁉︎ だって貴様は普通に食事をするのだろう⁉︎ 動物を殺し、調理した肉を喰らうのであろう⁉︎ それとも自分は菜食主義者とでも言うつもりか⁉︎」

「いや、普通に食べるけど。お肉好きだし……」

「なぜだ! いや、いやいや! そうならば、納得しろよ! 供物に朝告鳥ニワトリを捧げるのは食事と同じで人類ヒトが生きるために仕方がない事なのだと!」

「家畜として生かされて食べるために殺されるのが幸せなのか不幸なのか、少なくともわたしには判断できない。でもさ、あの子は言ってたんだよ。助けてって。まだ生きたいって。じゃあ助けなきゃでしょ。調理された肉は何も言わないけど、あの子は助けって言ったんだからさ」

「なんだ? なんなんだ……⁉︎ 何も理解ができん! 頭がおかしいのか⁉︎」


 ハラムは頭痛を抑えるように頭を抱えた。

 目の前の女が理解できなかった。

 同じ言葉を話しているはずなのに、亜人よりも意味不明だった。


「そもそもだ! 家禽と人類ヒトの命が等価でもッ、たった一羽とこの神の見守る大地シア・マーティラスにいる人類ヒト全てだぞ⁉︎ どう考えも釣り合う訳がないだろうが‼︎」

「だーかーらー、それって前にも言わなかったっけ? 人類ヒトを救うって別にわたしだけに許された特権じゃないっての。

「………………………………は?」

「だって、神様の見守る大地シア・マーティラスにいる全ての人類ヒトって何人いると思ってんの? わたし一人の力より、みんなの力の方が大きいに決まってるじゃん」


 だから、一羽と全人類なんて天秤は成り立たない。

 その一羽を救おうとしているのはアナテマだけだったが、全人類を救おうとしているのはそれこそ全人類いるのだから。


「責任逃れだ。それは自分の持つ奇蹟からッ、人類ヒトを救う責務から逃げているだけだっ‼︎」

人類ヒトを信じているんだよ。

「……貴様は狂っている。貴様の目には人類ヒトアリの区別がつかない。命の重さなんてどうでも良いと思っているからそんな事を言えるのだ!」


 アナテマの太腿を歩くアリを見つめ、ハラムは蔑んだ顔で叫んだ。

 否定はできない。足元を歩くアリも、目の前のハラムも、アナテマにとっては等価の命としか思えない。アナテマは平等にしか命を重さを感じられない。


「そうだね。わたしの頭はおかしいのかもしれない。……でも、わたしは自分が間違ってるとは思わない。だって、こんなわたしだからウルウに出会えて、ウルウに手を差し伸べる事ができたんだから。それが間違いだなんて絶対に言わせない!」


 アナテマ=ブレイクゲートにだって迷いはあった。

 本当に自分は正しかったのか。本当は一羽の朝告鳥ニワトリなんか見捨てた方が良かったのではないか、なんて。


 だが、竜胆ウルウに出会った。

 アナテマ=ブレイクゲートにしか救えない、たった一人の少女が助けを求めていたのだ。


 彼女は人類ヒトではなかった。

 一般的な常識では救うに値しない生き物。

 全ての人類ヒトが救われて祈祷術の力を手放していれば、彼女を救う事はできなかった。


 ウルウは言った。

 アナテマと出会った事が最大の幸運だったと。

 ならば、アナテマも信じなくてはならない。自分の行いは正しかったのだと。自分の信念は正しかったのだと!


 そうしなければ!

 ウルウを救った事を間違いだと言う事になるのだから‼︎



「ウルウの救われない『セカイ』が正しいだなんて絶対に言わせない‼︎ わたしは目の前にある命を不平等に救う‼︎」



 ハラム=アサイラムは。

 もはや諦めの域に達していた。


 ただ、深く息を吐く。

 そして、一本の葉巻タバコを咥えた。


「殺しはしない。だが、貴様の捻じ曲がった思想を拷問してでも塗り替えてやる‼︎」

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