第15話 いい話と悪い話
かごめがドアを押し開けると、ドアベルが来客を知らせた。
赤坂屋の通りに並ぶ喫茶店『カフェー・プランタン』。ハイカラな銘仙に白いエプロンをつけた若い女性店員が二人の客を席へと案内する。
店内は鼻を刺激する珈琲の香ばしい香りと、霧がかったような紫煙が揺らめいている。若い客たちの話し声の中、かごめは窓際席のソファへ腰を下ろした。
「じゃあ俺は着替えてくるから、珈琲一つ頼んでおいて」
周は店内にある化粧室を見つけると、紙袋に入った服を軽く掲げて言う。
「わかったわ。いってらっしゃい」
かごめは頷き、店内の奥へ消えていく周を見送るとメニュー表を開いた。
昼前には帰るつもりだったが、すっかり正午回っている。かごめはカレーライスやオムライスを眺めてごくりと唾を飲んだ。
(頼んじゃおうかしら)
いや、サンドウィッチも捨てがたい。珈琲ゼリーやプリンもある。
かごめは店員を呼ぶと、周に頼まれた珈琲と、自分ためにクリームソーダとサンドウィッチ、それからオムライスを注文した。これも市場調査だ。
自分にそう言い聞かせてメニューをテーブルの端に立てかける中で、ふと少しの不安がよぎっていた。
あの周がまた帰ってきてくれるだろうか。
クリームソーダが運ばれてきても、その気泡を眺めながら刻々と戻ってくるのを待つ。続いてやってきた珈琲からは香りとともに湯気が立っていて、美味しく飲まれることを待ち望んでいるようにも見えた。
そのとき、客の話し声が波打った。かごめは顔を上げ、引き寄せられるように動く皆の視線の先を追う。
その影を目に留めて、かごめは頬を緩めた。
真っすぐに呼びた背筋、淀みない足取り。そしてその完全な赤の紅は自信の表れだ。
周は青地に赤りんご柄という派手な銘仙を豪胆にも着こなしていた。帯は黒と白のダイヤ柄で、ささやかに差し込まれた銀の刺繍が歩くたびに店内の照明に反射する。
足元は黒の編み上げブーツで可愛らしい柄の雰囲気を一気に大人っぽく引き締めている。
何よりもその頭に巻かれた濃緑のスカーフが、初めて出会ったあの日をかごめに思い起こさせた。
周は真っすぐかごめの元へ戻ると、目を細めて変わった自分を見せつけるように笑った。
「どう?」
「……かっこいいわ。なんだかいい意味で毒気が抜けた気がする。一つ一つは可愛かったりおしゃれだったりするのに、組み合わせ次第でずいぶん大胆に見えるし……やっぱり貴方はすごい」
周はかごめの直接的な賛美にも臆せず席に腰を下ろす。
「コテが使えなかったのは残念だけどね。まあ、スカーフがあるからご愛嬌だ」
周は落ち着いた手付きで珈琲に口をつけると、カップについた口紅を親指で拭った。
(そうよ、この周が見たかったの)
かごめもまた、周につられるようにしてクリームソーダの上に乗ったバニラアイスをスプーンですくって口に運ぶ。
そして店員が残りの注文した品を持ってきた。白い平皿に乗せられているのは四切れのミックスサンドとオムライス。
「かごめってそんなにたくさん食べる方だっけ?」
「好きな方を選んで」
からかうように笑う周に、かごめは言う。
「ほら、私たちに休みなんてないの。これも市場調査」
「……しょうがないな」
周は言葉のわりに嬉しそうに言うと、サンドイッチの皿を引き寄せた。
空腹も相まって二人の皿はあっという間に空になった。
食事を終えた二人は外の通りを行く人々を眺めながら一息つく。どの人も文目堂の客になり得る人たちだ。
早く店に戻りたい。元に戻った周を前にして、かごめのやる気は一層増していた。
そのとき、かごめの視界の端で周が何かを取り出した。かたり、と硬い音がしてかごめがテーブルの上に視線を戻すと、そこには舶来品とわかる小さなブリキ缶が乗っている。
「これは?」
かごめが尋ねると、周はブリキ缶をかごめに差し出した。
かごめは促されるように手に取ると、蓋を滑らせて開ける。
そこには夕焼けのアイシャドウが詰まっていた。店内の照明に反射してきらきらときらめいている。
「綺麗な色」
「お礼……と言ってはなんだけど、かごめはこういうのも似合うと思ってさ。特に今日の着物にはそれがぴったりだ」
購入した時、かごめはてっきり周の自分用だと思っていた。こういった橙帯びた色味のものもつけるのだと驚いたのだが。
かごめは蓋を閉じると、大切そうに手の中に収めた。
「ありがとう、大事にする」
「大事にしすぎて使わないのは本末転倒だからね」
「わかってる。ちゃんと使うわ」
そう言うと、周はソファから立ち上がった。かごめも続いて、伝票を手に取りながら席を立つ。
「さて、帰ったら次の作戦を考えなくちゃ。きっと今頃、お店はお客さんでいっぱいで皆の目が回っているところだわ」
「違いないね」
かごめがおどけて言うと、周も調子よく頷いた。
「ただいま帰ったわー」
かごめは文目堂の暖簾をくぐって、店内を見渡す。昼過ぎで少し人が捌けている頃だろうか、店内の人はあまり多くない。
奥から出てきた長谷川は帰ってきたかごめを見ると小走りで近づいてきた。
「お帰りなさいませ」
「私たちがいなくて忙しかったでしょ?」
かごめの質問に、長谷川は背後の従業員たちと目を見合わせて眉を下げる。
「いえ、それが、お客様はいらっしゃったんですが……。誰も買っていかれないんです」
「まあ、そういう日もあるわよね」
かごめがあっけらかんとして言うが、長谷川はさらに困った顔をして奥の部屋で続きを話そうと提案した。
かごめと周は何が何だか、とりあえず言われるがまま長谷川の後をついて店の裏に引っ込む。
「で、どうしたの?」
「こちらです」
長谷川が懐から取り出したのは色がふんだんに使われた一枚の
かごめは
その様子に周が怪訝な顔をして、横から引出を覗き込んだ。
「そういうわけでして……」
長谷川の申し訳なさそうな語尾に、かごめは手が震えた。ふつふつと怒りが奥底から湧き始める。
──井倉屋二号店、開店半年記念! 新劇女優・
引出の中央には、大ぶりの琥珀が艶やかに光っている指輪を嵌める高松冴子が大きく写っている。高松冴子は先月鑑賞した峰岸歌劇団とは違って意識の高い文化人向けの新劇で名を馳せている女優の名だ。
新劇を観劇する層は、井倉屋の客層とばっちり重なっているし、誘導としては完璧。しかしかごめが怒りに震える理由はそこだけではなかった。
「この琥珀コレクションのやり口、うちと全く同じじゃない……!」
秋から冬にかけて文目堂が売り出すのは琥珀を用いた一連のコレクションである。展開は揺れる大きな耳飾り、ブローチ、指輪など多岐にわたっている。無論琥珀を用いているので値段は張るが、井倉屋の常連であれば手に取れる金額だし、そうでない者でも年末年始の自分へのご褒美に奮発したい金額帯だ。
そしてそれらは十一月に予約販売を行い、十二月に受け渡し。その間井倉屋の店員や女優、高松冴子が店内で身に着け宣伝するのだという。
文目堂の幸運を井倉屋は金に物を言わせて横取りしてきたのだ。
「信じられない。今までは大店らしく私たちのことなんて眼中にないせいで、のこのこと下町に参入してきたんだとばかり思っていたけれど、明らかに
かごめは紙をちゃぶ台の上に叩きつけた。
「許せない! 私ちょっと乗り込んでくるわ」
「待て」
周に帯を掴まれ、かごめは前のめりになって立ち止まる。
「……なによ」
「逆にこう考えよう。……俺らみたいな格下からアイデアを奪わないとやってられないなんて『井倉屋も落ちたもんだな』」
周ははっと鼻で笑い飛ばすと、引出の文字を睨みつけて紙を縦に引き裂いた。ただの紙切れとなった引出はぐしゃりと乱暴に丸められ、きれいな弧を描いてちり箱へ投げ入れられる。
「同格と背比べしてりゃいいものを、わざわざこっちに目を向けてちょっかいかけて来るなんて……余裕なんだか、その逆か。ともかく、こっちはこっちらしく、鼻を明かし続けてやるんだよ」
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