三着目 カフェー・カシェットの給仕服
第13話 周、居候する
ガス灯が仄かに灯る暗い街路を行く。
周は重い足取りで帰路に着いていた。それは日中の疲れとあの家族に顔合わせなくてはいけないという億劫さによるものだ。
ここ二、三か月のこと。周は早朝に家を出て、夜遅く静まり返った家に帰るという日常を送っていた。家族に遭遇すれば面倒だし、蒔田家自体わざわざいない人間を探しに行くほど情に厚い性格でもない。
情といえば、諏訪商事の若社長・諏訪の方がよっぽど人情味がある。
文目堂が諏訪商事と手を組んでから一か月が経った。日本と西洋を行き来する船は西洋化が進む今でも本数に限りがあり、生地の取り寄せは諏訪商事の彼が言った通り、あと一か月は待つ必要がある。しかしその間も、彼はすでに取引を進めている海外の会社から情報を持って来ては、文目堂に提供してくれていた。
金木犀の季節もそろそろ終わる。
さて次は何をしようか。
周が想像を膨らませていたその時、背後から自動車の唸るようなエンジン音と排気音が聞こえてきた。周はさりげなく脇に避けたが、自動車は周の予想に反して通り過ぎることなく、横にぴたりとつけた。
周はその高級車を訝しげに見る。
手動で窓が下げられた後部座席から顔を覗かせたのは、父親を三十若くしたような見た目の青年だった。顔のつくりも表情もまるで生き写しのよう。
周は思わず、そのガス灯を照らし返す黒塗りの車から後ずさった。
「父上から迎えに行けとお達しがあった。乗れ、周」
「……」
周の兄──将一郎は車から降りると、周を車内へ招き入れる。次男の周に拒否権はない。周は屈してレザーの座席に腰を下ろすほかなかった。
将一郎が一つ手を挙げると、運転手はアクセルを踏み込んだ。車は夜の街をゆっくりと走り出す。
「お前、余計なことをしていないだろうな」
将一郎がエンジン音に重ねるように、おもむろに尋ねてきた。
「……余計な事ってなんでしょうか」
「賢いお前がわからないはずないだろう」
周の機嫌を取るためだけに付け足された形容詞に周は眉根を寄せる。周は将一郎からそっと目を逸らし、流れていく景色を眺めた。
「父上はまだお前を信じていらっしゃる。お前が、文目堂の社長を騙る小娘をおだてて、上手くこちらの傘下へ引きずり込むなどしてくれるだろう、などと思っているようだ。大きくなった文目堂を吸収すれば損はないと」
周はそっぽを向いていた視界の端に黒いものが伸びるのに気づく。周は身を強張らせて振り返った。
その瞬間耳たぶに鈍い痛みが走り、咄嗟に抑える。
兄の指先につままれているのは、金色に光る何か。周が耳に付けていた金木犀の耳飾りだった。
周は指先から体温が失われていくのがわかった。
「お前は賢いが愚かだ。すぐにぼろを出す。松ヶ崎はまだあの小娘に執着しているのか私たちに手もみしながらも欺こうとして、まったく当てにならなかった。だが、準備は整った。そろそろ私たちが動かなくてはいけない」
「……返してください」
「それはできない。これは父上に証拠として見せる必要がある。お前がやけに文目堂に入れ込んでいる証拠としてな。こんな安物の真鍮……、視界に入れるだけで目が腐ってしまいそうだ」
「その行動は兄さんが父さんを心から信じていない、という裏付けになりますけど、いいんですか?」
周はガス灯の橙の淡い光が暴こうとする顔色を必死に隠しながら問う。しかし将一郎は周が思うよりずっと、父親を懐柔していた。
「私は昔からいい子だったんだ、周。お前と違ってな」
「……」
「私は今まで父上が喜ぶ提案をしてきた。そうしていたら父上は私の意思を尊重してくださるようになって、意見も聞き入れることも多くなった。それが成功すれば私は自慢の息子だ。お前はとても要領が悪かったんだよ」
車はゆっくりと減速し、やがて自宅の前に停車した。
周は車から降りると逃げるように階段を駆け上った。周の背後で将一郎は周との帰宅を報告しているが、周にはそんな余裕はなかった。早く一人になりたい一心だった。
痛みなどすでに収まっているはずなのに、耳たぶが後を引く痛みの熱を帯びている。
「くそっ」
周は汚い言葉を吐き捨てると、力任せに自室の襖を開いた。
しかし周は目の前に広がる光景を目にして、その場に呆然と立ち尽くした。
やけに優雅に規則正しく階段を上る足音が迫ってくる。周は殺風景に変わった部屋を前にして、浅い呼吸を繰り返していた。
「この家に相応しくないものは捨てておいた。父上はこれでお前が正気に戻るんじゃないかと安堵していたよ。そんなはずはないと言うのに」
将一郎は実の父さえ嘲るように笑う。
周は将一郎の嘲笑を遠くで捉えながら、押し入れから箪笥の引き出しまですべて開放した。
しかしそこには何もなかった。服も化粧道具もすべて、鏡台も姿見もない。
「全くあの人は自分の子どものことになると、すぐに盲目になるな。子供を自分の従順な分身だとでも思っているのか……」
周は空っぽになった部屋に腕を組んで笑う兄を突き飛ばした。将一郎が少しよろけたところで、周はその脇を潜り抜けて階段を駆け降りる。
「おい、帰っていたのか。帰ったのなら、挨拶くらいしろ」
居間から出てきた父が何かそんなことを言ったが、周の耳には入らない。周は感情のままに家を飛び出した。
周は頭を振り乱して、夜に沈む街路を一人駆け抜ける。
「ああっ、くそ! なんだって俺は!」
周の叫び声は静かな街並みに反響してむなしく空に溶けていった。
周は自身の爪の甘さに、そして自分がまだ家族を信じようとしていたことに気づいてしまった。
(反吐が出る)
鼻緒が足に擦れて、染みるような痛みが足指の付け根に走る。周はむしゃくしゃして草履を脱ぎ棄てると、裸足でひたすら目指した。
誰も自分自身を否定しない、あの楽園を。
かごめは店先から聞こえてきた物音に、布団の中でぱちりと目を覚ました。
一体何事だろうか。泥棒か、はたまた地震か。かごめは揺れではないことを確認すると、部屋に置かれている護身用の刃のない薙刀を掴んで、そろりと階段を降りた。
(どうしてこんな広い町屋に私一人なのかしら……)
父は他界、病弱の母は田舎の親戚のところで養生しているし、従業員たちは皆通いだ。昔の文目堂はどの部屋にも人がいて空きがないほど、泊まり込みばかりだったと聞いていたが。
習ったこともない薙刀を構えて土間へ降りる。
音は大戸の向こうから聞こえていた。表に誰かいるのか。
かごめはうるさい心臓の音を聞きながら、おそるおそる閂に手を掛ける。そして、意を決して戸を引き開けた。
「……誰っ!」
ひんやりとした夜風が屋内に吹き込む。しかしそこには誰もいなかった。家鳴りか風の音を聞き違えたのだろうか。
かごめがほっと胸を撫でおろして中へ引き返そうとしたそのとき、足元に黒い塊がうずくまっているのに気づいた。
かごめはその影に見覚えがあった。構えていた薙刀を降ろしながら近づくと、月明かりに見知った顔が照らし出される。
「⋯⋯こんなところで何やってるの、周」
周は汚れを気にすることなく地面に胡坐をかいて、足の甲を撫でさすっていた。周はかごめを見上げることをしない。
かごめが不思議がって周の足へ目を凝らすと、親指の付け根に赤い擦り傷ができているのが見えた。
「どうしたのよ、それ」
「走ったら擦れちゃってさ」
「それは痛いわね……。今軟膏持ってくるから店の間に上がって待ってて」
周のいつもと違う雰囲気にかごめがそう優しく声をかけると、周は強張っていた表情からわずかに緊張をほどいた。
なぜこの時間に店にいるのか。なぜ周は走っていたのか。片耳だけ無くなった耳飾りは何処へ行ったのか。
そして、どうしてあんなにもやるせなさそうな顔をしていたのか。
かごめはいろいろ聞きたいことが沸き上がってきたが、一度それを喉の奥に押し込めて擦り傷用の軟膏を手に取った。そして布巾も濡らして持って行く。
とりあえずかごめは笑顔を取り繕って、店の間に座り込む周にそれらを差し出した。周は軟膏の匂いにわずかに顔をしかめたが、布巾で足を拭いて綺麗にしてから傷口に軟膏を塗りこめていく。
一通り処置を終えると、周は疲れ切ったように肺にあるだけの息を吐き出した。
「⋯⋯あのさ、突然で悪いんだけど、ここに空いてる部屋があるなら泊めてほしい」
「何があったのかだけ……聞いてもいい?」
周の突然のお願いに、かごめは動揺しつつも丁寧に尋ねる。
周は躊躇ったように視線をさまよわせたが、ぐっと膝の上で拳を握り締めて口を開いた。
「帰ったら、俺の部屋のものが全部捨てられてた」
「……え?」
「箪笥と押し入れの中身が空になって、鏡台と姿見がなくなってた」
「なにそれ」
「……家族は俺が『病気』だって思ってる。そんな俺が大切にしてるものを捨てたら、『病気』が治るんじゃないかって思ったらしくってさ」
「ちょ、ちょっと待って。『病気』って何よ?」
「この恰好のことだよ」
周は乾いた笑いを漏らすと、袖を掴んで袂を広げてみせた。周がいつも好んで着るのは女性もの。
(捨てるなんてあまりにもむごい)
それは周の魂で、周自身。脱け殻のような今の周に合点がいってしまう。
「俺はもうあの家には帰れない。俺が甘かったんだ、いつかわかってくれるって信じ切ってた」
「……当たり前よ。『家族のことは信じたい』、何もおかしいことじゃないわ」
周がここまですっかり弱り切っているのは初めて見た。
まるで、松ヶ崎に文目堂が乗っ取られそうになったときの自分を見ているようだ。不安の中でやっと下した決断、なのに誰よりも信じたかった相手に裏切られた。
かごめは月明かりに沈む周の横顔を見て思う。
「ねえ、疲れたでしょう。奥の部屋に使っていない布団があるわ」
かごめがすくっと立ち上がると、周は力なく頷いた。
「明日は暇を出すから無くなったものを買いに行きましょう」
よろめくようにかごめの後ろをついて歩く周に、かごめは背中越しに声をかけた。
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