第5話 風紀と生徒会、そして“再テスト

1 朝の噂


翌朝、廊下はまだ新しい床ワックスの匂いがしていた。


けれど漂う空気は昨日より少しだけざわついている。耳に入る単語はおおよそ二つ——「敬礼」と「男子マギサズ」。


「見た? あれ本物だったのかな」

「いや、デモでしょ。……たぶん」


A組の教室に入ると、御影がすぐに寄ってきた。


「ねぇ潤、“あの角度”ってどうやって出すの? 鏡の前で練習したら首つった」


「首は練習するところじゃない」


「じゃあどこ練習すればいいの?」


「背骨」


「むずっ!」


(背骨よりまず呼吸)ムスが囁く。

(それよりまず購買のカレーパン)アメが机に頬を乗せる。

(朝から油物を推すな)カミ。


天城はノートを開いたまま横目で僕を見た。


「今日は“普通”を極める日だな」


「毎日が大会本番だよ」


「妙に説得力あるのが腹立つ」



2 風紀委員の巡回


ホームルーム前、灰の腕章を巻いた風紀委員が教室に入ってきた。


先頭に立つのは切れ長の目の女子——来栖 璃央(くるす りお)。肩までの黒髪は一切の遊びなく結われ、制服は糸一本ぶれない着こなし。


「新入生諸君。風紀委員長の来栖です。規律は自由の前提。武器の持ち込み、術式の無断発動、夜間外出は規定どおり——」


淡々とした説明のあと、彼女の視線がふとこちらを撫でて止まる。


「更屋敷 潤」


「はい」


「……立ち姿が、整っている。誉め言葉だ。だが、緊張は感染する。ここは学校。刀の代わりに筆を持て」


「肝に銘じます」


(刀は持ってない)アメが小声で笑う。

(言いたいのは“抜刀の気配をしまえ”ということ)カミ。


最後に来栖は黒板に“規律の三原則”を書いた。——安全・報告・抑制。


書体は美しく、余白に無駄がない。矢来教官と同じ“匂い”がした。



3 生徒会の顔


午前の終わり、全校放送が鳴る。


スクリーンに生徒会執行部の映像が映し出された。中央に立つのは三年の生徒会長——朝霧 遼(あさぎり りょう)。


白銀の徽章、微笑は柔らかいが目が笑っていない。


『新入生の皆さん、ようこそ八名島へ。ここは楽園であり、同時に砦です。楽しみ方は教えます。護り方も教えます。——互いを守る心が、島の魔法だ』


拍手が教室のあちこちから起きる。


隣で御影がぽそっと言う。


「イケボ……」


「論旨は正しい」天城は冷静だ。「でも言葉が整いすぎている。誰に向けての演説か、少し気になる」


(島の外、か中、か)ムス。

(両方)カミ。


放送の最後、会長の背後に副会長らしき先輩が一瞬だけこちらを見た。鷹のような目。画面越しでも、観察されているようで背筋が冷えた。



4 “制御訓練B-3”


午後。久遠院先生が教室の前で告げた。


「A組は訓練棟へ移動。“制御訓練B-3”。今日はペアで出力を合わせる練習よ」


廊下へ出ると、角で矢来教官が待っていた。金縁の眼鏡の奥で、視線は海のように静かだ。


「A組、補助教官の矢来だ。安全に行く。——更屋敷」


指名。僕は一歩前へ。


「君は久世 晴斗と組め。回復志望だな。攻撃出力は低い。君が相方の出力を超えないことが課題だ。よいな」


「了解です」


(あからさまな罠)アメ。

(でも必要な訓練)ムス。

(“超えない”の定義を、こちらで上書きしないこと)カミ。



訓練棟のフィールド。床の魔導陣が淡く灯り、上空には安全結界の半球。観覧席にはA組とB組の一部、審判席に矢来と久遠院、サブの教官が二人。


「目標は三つ。紙標的、移動標的、模擬障害。評価はすべて相方の出力基準で行う」矢来の声が響く。「開始」



——第1目標:紙標的。


久世の手から小さな光弾がぽとりと飛び出す。優しい。撃ち込むというより“触れる”弾だ。


「ナイス」僕は同じ“触れ方”で紙標的の端を叩く。紙がふわりとめくれて戻った。


『更屋敷、出力±3%。良』


(よし)カミ。



——第2目標:移動標的。


久世の狙いは揺れる。緊張で肩が上がり、呼吸が浅い。


(吸って、止めて、吐いて)ムスのリズムを彼に合わせて僕も刻む。僕の呼吸に引っ張られるように、久世の肩が少し落ちた。光弾が的の縁をかすめる。


僕は外す。意図的に、同じ角度で。


『更屋敷、出力−5%・角度追随良。相方に同期:可』



——第3目標:模擬障害。


突然、床の一部が“ぬかるみ”に変わり、天井のスプリンクラーから微細な霧が降った。視界と足場を奪う擬似環境。


「う、うわ」


久世がよろめく。的が左右に跳ね、霧が光を乱反射する。矢来の視線がわずかに鋭くなる。


(来る)カミ。


霧の粒の流れ方で空調の微風を読む。右から左へ一秒ごとに周期。足場は前方二歩目が堅い。久世の足がそこに乗るタイミングに合わせ、僕は“道”だけを作る。空気の膜を薄く撫でて、彼の弾がぶれない道に乗るように。


久世の光が紙標的の中心をやわらかく穿った。


『相方ヒット。協調:優』


矢来は何も言わず、ペン先を一度だけ紙に触れさせた。



ここでメニューに“救護リンク”が追加された。仮想負傷者のダミーを、三十秒以内に安全地帯へ搬送する課題。魔力の紐で相手の呼吸と心拍を“感じ取り”、歩調を合わせて移動する。


「ぼ、僕、こういうの苦手で……」


「大丈夫。紐は“手をつなぐ”みたいに軽く」


二人で歩き出す。ダミーの脈動と久世の鼓動、それから僕の心拍がゆっくり同期していく。歩幅が揃い、靴底の音が同じテンポになった。


(良い。揃ってる)ムス。


安全地帯に入った瞬間、指先の紐がふっとほどけた。矢来が短く頷く。



続くペアが入れ替わり、別メニュー。僕と久世は端で見学。緊張の糸が切れたのか、久世が小さく笑った。


「ありがとう、更屋敷くん。僕、うまく撃てないけど……なんか、今は“撃てた”気がする」


「君の弾が、自分で道を選んだだけだよ」


「難しいこと言う……」


(概念の押し売り)アメがくすり。



訓練終了。整列。矢来が短く講評した。


「全体に安全意識は良。更屋敷、指示の範囲内でよく抑えた。——ただし」


一拍。


「“抑える”ことに、慣れすぎるな。必要な時に、出せない手になる」


矢来の瞳は、刃物ではなく鏡だった。僕の顔だけでなく、僕の背後にある何かを映す鏡。


「肝に銘じます」


(正論)ムス。

(でも出したらバレる)カミ。

(私の屋台の焼きイカは守って)アメ。

(それは最優先ではない)ムス。




4.5 観覧席の影


観覧席の最後列。風紀委員長の来栖が立ったまま訓練場を見ていた。腕章の灰が、結界の光に淡く照り返す。


「更屋敷、抑制は上手い」


彼女は僕に視線だけを寄越し、声は正面に飛ばした。


「だが、英雄願望は事故の母親だ。——規律は“やりたい”より“やるべき”を選ばせる。忘れるな」


「肝に銘じます」


「よろしい。今の返事は、規律の発音だ」


来栖はそれ以上言わず、踵を返して去った。歩幅は一定、角の曲がり方は教本通り。風紀、という名の剣は鞘の中でしか美しくない——そんなことを思った。



5.5 図書館の地図


放課後の図書館。澪と詩音と、御影と天城。四人で島の立体地図を覗き込む。


「見て、お兄ちゃん。避難路の色、去年の資料と違う」


澪が指した先で、一本の線が新しく付け替えられていた。海側を避け、内陸のトンネルを通る経路に。


「工事、終わってなかったはずだが」天城が眉を寄せる。「仮設ルートを正規に昇格させた?」


「つまり“海を見ない”道」御影がぽつり。


(視線を外に出さないのも、避難の一つ)ムス。

(怖さは目から入る)カミ。

(でも屋台の位置が経路から外れてる……)アメが地図の隅を見て小声で嘆く。


地図のはじで、港の端に小さな×印がついていた。人の流れから切り離すための×だ。そこだけ色が濃く、インクが新しい。


「——急いで作った印刷、って感じだな」


天城の一言で、地図が紙ではなく現実の重みを持った。


5 放課後の一幕


昇降口で靴を履き替えていると、御影が駆け寄ってきた。


「“制御訓練”、見学席から拍手起きてたよ。潤が“外した”ところ、わざとって気づいた子が何人かいたけど」


「気づいていいやつ」


「八神が悔しそうだった。『あれはずるい』って」


「ずるいって褒め言葉だよ」天城が隣で言う。「勝てない相手を“ずるい”って言うんだ」


「蓮、性格悪っ!」


「事実だ」


澪と詩音も合流する。


「お兄ちゃん、今日は怖い顔してない」

「昨日より穏やか」


「それは良かった」


(顔面の筋肉緊張、昨日比−12%)カミが測定する。

(どこで測ってるの)アメ。

(頬と眉間)ムス。


御影が指を鳴らす。


「そうだ、今度さ、結界の共同訓練やろうよ。私が張るから、潤は“お願い”のやつで風の道を作って!」


「お願いはタダじゃないよ」


「なにそれ課金制?」


「気持ちで払ってもらう」


「うわぁ概念課金……」


天城が笑いを漏らした。珍しい。



6 夜の規制強化


夕暮れの光が校舎の窓を長く染めるころ、島全域のスピーカーが低く鳴った。


『——全住民に通達。防災レベルをα(アルファ)予備態勢に移行。外出は必要最低限に。海岸線の立ち入りを一時制限』


教室に沈黙が落ちた。誰かが小さく息を呑む音。スマホに一斉に通知が届く。地図アプリに赤い帯が現れ、港の一部に×印。


「え、α?」御影の尻尾がぴたりと止まる。


「β+から一段」天城が画面を見て言う。「早い」


窓の外を、パトロールの装甲車が音を抑えて通り過ぎる。上空にはドローンの列。対空砲塔の砲身が、海へほんの少しだけ角度を変える。


(波の節が、合ってしまった)ムス。

(でもまだ“時”じゃない)カミ。

(スープ……)アメがぼそり。


校庭の片隅で、風紀委員の来栖が無線を短く押すのが見えた。表情は変わらないが、歩幅が半足分だけ狭くなっている。規律を保ちつつ、速度を落とす歩き方。訓練された足取りだ。



7 港の断片


帰り道、東門の近くで立ち止まる。海風に鉄と油の匂いが混じる。


フェンスの向こう、港の灯が一つ、二つと消え、ドローンだけが宙を縫う。埠頭の端で、二人の兵士が短い会話を交わすのが見えた。声は風に消えて聞こえない。けれど、口の動きだけでわかる単語がある。


「——間隔」「三」「西」


(やっぱり、三)ムス。

(三は良くない。古来、三は形になる数字)カミ。

(焼きイカは三本がちょうどいい)アメ。

(話をまとめたがる天才)ムスが笑った。



8 寮の夜と逆さの星


寮に戻ると、廊下の掲示が差し替えられていた。——施錠点検、水2Lの携行、夜間の窓際滞在の回避。任意の言葉は残ったまま、字体だけが少し太くなっている。


部屋の灯りを落とし、窓辺に立つ。海は黒に近い紺。風はほとんどない。なのに、水面の皺が沖ではなく岸へ向かって走っている。


(逆向き)ムス。

(音が薄い)カミ。

(匂いが甘い)アメ。


——甘い?


潮の匂いに、微かに鉄と、熟れた果実のような甘さが混じる。気のせいにしてははっきりしていた。


短波ラジオをつける。砂嵐の奥に、ノイズが三つ、ほぼ等間隔で揺れる。


——ピ……ピ……ピ……


目を上げる。海の地平線の少し手前に、逆さの星が三つ、浮かんでいた。星にしては低く、灯台にしては遠い。波頭の向こうに、上下を間違えたみたいに光る三つの点。


(見えた)アメ。

(見えました)ムス。

(見えている)カミ。


「……来る」


口に出してしまった言葉は、部屋の空気を少し冷たくした。


扉が控えめに叩かれる。澪だ。


「……眠れない」


「入っていいよ」


澪が入ってきて、窓の外を見た。目が丸くなり、すぐに僕の袖を掴む。


「……あれ、なに」


「ただの漁船の灯りだよ」


僕は嘘を吐いた。優しい嘘だ。きっと今は、それでいい。


(約束はできる範囲で)ムス。

(背負い込みすぎない)カミ。

(明日の朝、屋台が開いてますように)アメ。


消灯。窓の外の三つの光は、しばらくのあいだ同じリズムで点滅していた。遠くで、係留索が一度だけ、短く鳴る。


——砂時計が、どこかで静かに反転する音がした。


“普通”の学園生活は、まだ続いている。だが終わりは、もう輪郭を持ってこちらを見ている。

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