第6話 前奏、紅に変わるサイレン
1 朝の点検
朝一番、廊下の空気が硬い。
足元のワックスは昨日と同じ匂いなのに、音だけ違う。靴音が一歩ごとに短く切れる。規律の音だ。
A組の教室の扉が、二度ノックされる。
灰の腕章——風紀委員が横一列で入ってきた。先頭は来栖 璃央。糸一本ぶれない着こなしと、刃物みたいに揃った歩幅。
「定例の点検を行う。端末、術式媒体、持ち物。規定どおり提出」
ざわ、と教室が小さく波立つ。
「はいはーい、御影さな、端末正常!」
「天城蓮、術式書き込み専用ノート一本。中身は……数式」
「八神颯真、ロッド一。保守シール期限内」
列が進み、僕の前で止まる。
「更屋敷 潤」
「はい」
机の脇に置いた寮カバンを開ける。衣類、ノート、筆記具、洗面用具—“普通”の並び。底板の下に、万一のための携行品が眠っている。
スキャナの光が一度だけ、弱く点滅した。
(やば)アメ。
(静かに)ムス。
(ノイズで上書き)カミ。
来栖の端末に、一瞬だけ砂嵐のようなノイズが走って、すぐ消えた。
彼女は眉ひとつ動かさず、ペンを走らせる。
「更屋敷、問題なし。——立ち姿、緊張しすぎ。ここは学校」
「承知しました」
「緊張は感染する。呼吸を共有させるな」
(背骨じゃなくて呼吸)ムスが小さく笑う。
(背骨も大事)アメ。
(両方)カミ。
点検が終わるころには、教室の空気がいつもより数度低く感じた。規律の影は、冷たい。
2 小さな朝の会話
点検が終わると、御影が椅子を寄せてくる。
「ふー……胃がキュッてなった。ねぇ潤、あのスキャナ、心臓にも悪いよね」
「機械に心臓はないけど、人の心臓には悪い」
「言い回しが上手いのずるい。お詫びに購買で“八名クロワッサン”奢って」
「詫びるのは僕じゃなくて来栖さんでは」
「風紀委員長から奢られたらそれはそれで怖い」
天城が隣から口を挟む。
「更屋敷のところでスキャナが一瞬迷った。気のせい? それとも——」
「ノイズだよ」僕は笑う。「機械はときどきあくびをする」
「……詩的な嘘は質が高いほど危険だ」
(詩的!)アメが喜ぶ。
(詩的は敵を眠らせる)ムス。
(言葉遊びは三手まで)カミ。
3 全校集会
午前の終わり、全校集会のチャイムが鳴った。
講堂。天井の防音板は新しく、光を散らす角度は計算され尽くしている。壇上には生徒会執行部。中央に会長・朝霧 遼。両脇に副会長と書記。
「新入生諸君、ようこそ八名島へ」
朝霧の声は遠くの海面みたいに滑らかだった。
「α体制は、恐れるためのものではない。備えるためのものだ。楽しみ方を学ぶように、護り方も学ぶ。君たちは学生であり、同時にこの島の住民だ。——互いの背中を、見失うな」
拍手が、慎ましく波になって広がる。
僕はふと、壇の左。副会長の視線がこちらを撫でて止まるのを見た。鷹の眼。笑わない目元。
(見られてる)アメ。
(正体じゃなく“役割”)ムス。
(“動くべき時に動く人間”だと見られている)カミ。
朝霧は締めくくりに一礼した。
「最後に。噂は噂として。真偽を確かめる暇があれば、君は友の手を握れ」
言葉が一拍遅れて胸に落ちる。悪くない演説だった。だからこそ、余白が怖い。
4 矢来教官の呼び止め
集会の後、講堂の裏手に回り込んだところで、声が落ちてきた。
「——更屋敷」
矢来教官。金縁の眼鏡はいつもの位置、歩幅もいつもの長さ。
「君は、隠すのが上手い」
「身の丈に合った生活を心がけています」
「それは良い。だが、**出す訓練**を怠るな。抑えるばかりでは腕が錆びる」
「心得ます」
矢来は喉の奥で短く息を鳴らし、さらに一歩近づいた。
「君は……“誰か”を救ったことがあるだろう」
「——」
「答えなくていい」
彼はそれ以上踏み込まず、かわりに空を見上げた。薄い雲の縁が、風で削られていく。
「今日の風は、遠くから来ている」
「海の匂いが濃いですね」
「甘い匂いも混じる。潮にしては不自然だ」
(甘い……昨夜と同じ)アメ。
(匂いは、最初の警告)ムス。
(この島の犬が先に吠える)カミ。
矢来は敬礼もせず、ただ顎でわずかに合図して去った。敬礼がゼロだったわけではない。ゼロと一の間にある、目に見えない礼式だった。
5 昼休み、ほんの少しだけ平和
購買の列は長い。御影は器用に隙間を縫い、八名クロワッサンを二つとミニプリンを一個抱えて戻ってきた。
「はい潤、詫びのクロワッサン!」
「詫びる案件はいつ発生したんだっけ」
「朝。私の胃がキュッてなった件」
「それは胃に詫びて」
「ん〜、じゃあ胃にプリン……」
(やわらかいもので胃をなだめるのは理にかなっている)ムス。
(プリンは正義)アメ。
(砂糖は脳みその火種)カミ。
天城は窓際で、地図アプリを拡大していた。
「封鎖区域がまた増えてる。港の第三倉庫周辺、立ち入り×。ドローンの巡回ルートも一本増えた」
「α体制って、こういう細かい網が増えるってことか」僕が言うと、天城は肩をすくめた。
「網の目は細かいほど安心だけど、息苦しさも比例する。——でも今は、必要だと思う」
澪と詩音がそれぞれのトレイを持って合流した。澪はアイスを、詩音は温かいスープ。
「お兄ちゃん、スープ飲む? 半分こでも」
「ありがとう。——うん、うまい」
(やわらかい塩分と旨味。緊張を下げる味)ムス。
(スープは正義)アメ。
(さっきプリンが正義だと言った)カミ。
(ダブル正義は平和)アメ。
笑って、息をついた。こんな昼休みが続けばいい、と思う。思ってしまうから、不安になる。
6 放課後の薄暮
図書館で小一時間、課題を片付けた。帰りの廊下で来栖の姿を見かける。彼女は掲示板の端を留め直していた。針は真っ直ぐ、紙の角は直角。誤差が嫌いな手。
目が合うと、わずかに顎を引いて去っていく。無言の「規律」。言葉にしていないから、強い。
外に出ると、空は桃色から灰への途中だった。風が方向を変えた。海から陸へ。
(潮が押してくる)ムス。
(波頭が、音を隠す)カミ。
(屋台の旗が泣いてる)アメ。
泣いている、というのは比喩。でも、旗は確かにべたついた動きをしていた。
7 サイレン
夜。自習と入浴を終え、寮の廊下を歩いていたときだ。
——ウウウウウウ。
低いサイレンが、腹の底に触れる。音量は抑えられている。けど、抑えているからこそ、本気だとわかる音。
『全生徒に通達。防災レベルを**α+(アルファ・プラス)**へ移行。各自、寮室に待機。外出は許可制。教職員は割り当てに従うこと』
廊下の照明が一部落ち、非常灯が淡く点った。窓の外、結界の光が一段濃くなる。幾何学の織り目が、夜空にうっすら浮かぶ。
上空をドローンが走り、対空センサーの砲身が海へ角度を寄せる。
遠くで、乾いた音が一度。遅れて空気が震える。港のほう。煙が立った。
「お兄ちゃん……」
澪が廊下の角で足を止めていた。詩音もすぐ後ろ。
「大丈夫。部屋に戻ろう」
二人の手を軽く叩いて、階段を上がる。手すりの金属が、いつもより冷たい。
8 教官の影
窓の外を装甲車が通り、グラウンドの端で教官たちが素早く配置につく。矢来は無線に短く答え、久遠院先生はタブレットを抱えて指示を飛ばす。
放送がもう一度。
『寮監より通達。A棟西側の廊下は通行を制限。窓際の待機は避けること。水と携行食の準備を——』
神々の声が、同時に届く。
(前奏、終わりました)ムス。
(次は序曲)カミ。
(でも今は、待つ)アメの声だけ、ほんの少し震えていた。
「待つのがいちばん難しい仕事だよ」
僕は窓を少しだけ開け、潮の匂いを嗅いだ。甘い。鉄と果実。昨夜より濃い。
9 影
部屋の灯りを落とし、海を見た。
黒い水面のさらに底を、何かが横切る。光ではなく“暗さ”が移動した、みたいな見え方。
波の皺が一列だけ、逆走する。岸へ向かう波の中、一本だけ沖へ返る線。その線の上に、三つの光が現れては消え、また現れる。逆さの星。
(三)ムス。
(三度目の合図)カミ。
(——きらい)アメ。
沖合で、小さな白いものが跳ねた。悪い予感の形をしている泡。
「……来る」
口の中で呟くと、喉が乾いた。手の中で、知らないうちに拳を握っていた。
ノック。弱く、三回。
「潤」
矢来の声だった。扉越しでもわかる、乾いた音。
扉を開けると、矢来はかすかに首を傾けた。敬礼ではない、礼の最低単位。
「君は——学生だ。寮にいろ」
「はい」
「——ただ」
矢来は目だけで窓の外を示す。
「“次”の放送が、出る」
彼はそれ以上言わず、踵を返して走って行った。走り方まで、規律。
10 赤い放送
サイレンが一拍、長くなる。
『全生徒に再通達。**第一種待機(レッド・ホールド)**。寮室から出るな。繰り返す、寮室から出るな。教職員は対ディザード初動に入る』
廊下の先で、誰かが息を呑む音がした。別の誰かが、祈るみたいに両手を握る気配。
僕は窓際から離れ、カーテンを半分だけ閉める。
(まだ、出ない)ムス。
(出たら、全部が変わる)カミ。
(焼きイカ……)アメ。
(いまその話題を出す勇気、嫌いじゃない)ムスが笑う。
澪と詩音が扉の隙間から顔を覗かせた。二人とも不安を隠せない目。
「こわい?」
「……ちょっと」
「でも、いるから」
「いるよ」
僕は二人の頭を軽く撫でた。手のひらの温度で、自分の生きている温度を確かめる。
11 境目
時計の秒針が、いつもより大きく聞こえる。部屋の中の空気が、ゆっくりと濃くなる。結界の光が窓枠に薄く映って、赤い心電図みたいに揺れる。
(境目だ)ムス。
(この線を越えたら、物語が進む)カミ。
(でもまだ、読点)アメ。
海の方角で、低い音が重なった。門が閉まる音。陸の砲塔が、角度をもう一段、海へ。
僕は深呼吸を一度。四拍吸って、四拍止めて、四拍吐く。
「——よし」
言葉は誰に向けたものでもない。でも言うだけで、指先に戻ってくるものがあった。
12 未だ戦わず
上空をドローンが過ぎ、島の輪郭をなぞる。灯台の光が二度、三度。逆さの星が、合図のように応える。
僕は窓を完全に閉め、鍵を確かめた。
「澪、詩音。——寝なくていい。目を閉じるだけでいい」
「うん」
「うん」
三人でベッドの端に並んで座る。神々の声は静かで、遠い。
(前奏は終わった)ムス。
(序曲が鳴る)カミ。
(潤しゃん、息して)アメ。
息をしている。生きている。戦っていない。まだ。
窓の外。黒い水面の上、なにかがぬっと顔を上げる寸前で止まったみたいに、世界が凪いだ。
——次の一音で、物語が始まる。
僕は、拳ではなく、手をひらいた。
(了)
12.5 小さな配給
十分後、寮の各階に風紀と寮監が温かい飲み物を配った。紙コップに入ったカモミールの香りが、廊下の冷気をやわらげる。
来栖が無言でコップを差し出す。受け取ると、彼女は小さく顎を引いた。
「手は震えていないな」
「胃は震えています」
「プリンは配給に含まれない」
「残念だ」
一瞬だけ、来栖の口元がほんのわずか、角度を変えた。笑ったのかもしれないし、光のいたずらかもしれない。
(プリンの備蓄は国家の柱)アメ。
(柱が多い国家は倒れにくい)ムス。
(優先順位を考えろ)カミ。
カモミールの湯気が目に沁みる。体が、少しだけ軽くなる。
13 余白を埋める音
部屋に戻ると、短波ラジオのダイヤルを一目盛りだけ回した。砂嵐の向こうで、三連の波形が規則正しく立ち上がる。
——ピッ、ピッ、ピッ。
音の隙間に、遠くの金属の鳴きが混じる。港のクレーンか、ドローンの関節か。
(数えている)ムス。
(向こうもこちらを)カミ。
(だったら私たちも数える。三まで一緒に)アメ。
「一」
「二」
「三」
声を出すと、胸の奥に何かが落ち着く。数は、世界を区切る道具だ。
澪が毛布を引き寄せ、詩音が僕の袖を小さく掴んだ。
「お兄ちゃん」
「いるよ」
「……いるね」
言葉は約束で、約束は灯りだ。窓の外の闇は変わらないけれど、部屋の中は少しだけ明るくなった気がした。
——そして、サイレンはもう鳴っていない。静けさが、次の合図だった。
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